第8話 籠の鳥には、もうならない
王都の街並みは、記憶の中と同じだった。
白亜の建物、賑やかな市場、神殿の尖塔。
でも——私の心は、あの頃とは違う。
「エミリア、久しぶりね」
クローディア様が、侯爵家の別邸の前で待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ、ちょうどよかったわ。裁判の準備は整っている。明後日には、王立裁判所で審理が開かれる」
明後日。
あと二日で、全てが決まる。
「マルセル神官は?」
「安全な場所に匿っているわ。ご両親も、うちの別邸に。神殿の手は届かない」
私は、ほっと息をついた。
証人は守られている。証拠もある。
あとは——裁判を乗り切るだけ。
「エミリア」
レイナード様の声に、振り返った。
「裁判まで、お前はどこに滞在する」
「え……」
考えていなかった。
宿を取るつもりだったけれど、追放された身で王都の宿に泊まれるのだろうか。
「俺の屋敷に来い」
レイナード様が、低い声で言った。
「神殿が刺客を送ってくる可能性がある。俺の屋敷なら、警備が万全だ」
その言葉に、胸がざわついた。
守ってくれようとしている。
それは分かる。ありがたいとも思う。
でも——。
「……すみません」
私は、首を横に振った。
「お気持ちは嬉しいです。でも、お断りします」
レイナード様の眉が、ぴくりと動いた。
「なぜだ」
「閉じ込められたくないんです」
言葉が、口をついて出た。
「聖女の時、神殿の中にいました。外に出ることも、自分で決めることもできなかった。守られていたのかもしれません。でも——それは、籠の中と同じだった」
レイナード様の目が、わずかに見開かれた。
「俺は、そんなつもりで——」
「分かっています」
私は、彼を遮った。
「レイナード様にそのつもりがないことは、分かっています。でも、私は——また籠の鳥になるのが、怖いんです」
沈黙が、落ちた。
クローディア様が、気まずそうに視線を逸らしている。
「……危険なんだ」
レイナード様の声が、低くなった。
「神殿は本気でお前を消そうとしている。一人でいたら、何が起きるか分からない」
「分かっています」
「分かっているなら、なぜ——」
「自分で決めたいんです」
私は、一歩前に出た。
「どこにいるか、何をするか。誰かに決められるんじゃなく、自分で選びたい。それが——私が聖女を辞めて、手に入れたかったものなんです」
レイナード様の顔が、険しくなった。
「感情論だ」
「そうかもしれません」
「お前が死んだら、全て終わりだ。裁判も、証拠も、意味がなくなる」
「それでも——」
「なぜ分からない!」
レイナード様が、声を荒げた。
初めて聞く、彼の怒声だった。
「俺は——お前を守りたいんだ。それの何が悪い」
「悪くありません。でも——」
「黙れ」
彼の声が、震えていた。
「お前は知らないんだ。五年前、俺は——守れなかった。目の前で、人を失った。それがどれだけ——」
言葉が、途切れた。
レイナード様が、顔を背ける。
その横顔が——苦しそうだった。
「……五年前?」
私は、小さく聞いた。
「……」
沈黙。
クローディア様が、静かに口を開いた。
「レイナードは五年前、聖女の調査中に部下を失っているの。『事故』ということになっているけれど——神殿の仕業だと、彼は確信している」
息を、呑んだ。
だから、五年も調査を続けていたのか。
だから、「守る」という言葉に、あれほどの重みがあったのか。
「……ごめんなさい」
私は、俯いた。
「知りませんでした」
「……いい」
レイナード様の声は、かすれていた。
「お前が知らなくて当然だ。俺も、言わなかった」
沈黙が、再び落ちた。
重い空気が、三人の間に漂う。
「……怖いんだ」
レイナード様が、呟いた。
「また失うのが。目の前で、誰かが——お前が、消えていくのを見るのが。だから、目の届く場所にいてほしい。頼む」
その声が、胸に刺さった。
「頼む」と言った。
命令ではなく、願いとして。
この人は——怖がっているのだ。
強くて、冷静で、何でもできそうに見えるこの人が。
私を失うことを。
「……レイナード様」
私は、顔を上げた。
「私も、怖いです」
「……」
「閉じ込められるのが怖い。また誰かに人生を決められるのが怖い。でも——」
一歩、近づいた。
「あなたを信じることは、怖くありません」
レイナード様が、目を見開いた。
「だから、提案があります」
「……提案」
「クローディア様の屋敷に、滞在させてください。そこなら、侯爵家の警備がある。あなたは——『護衛として』来ればいい」
私は、彼の目を見た。
「閉じ込めるんじゃなく、一緒にいてください。対等に」
沈黙。
レイナード様が、私を見つめている。
灰色の目が、揺れていた。
「……対等に」
「はい」
「俺が、お前を守るんじゃなく」
「一緒に、戦うんです。私も、あなたも」
長い、長い沈黙。
そして——レイナード様が、小さく息を吐いた。
「……分かった」
その声は、静かだった。
「お前の提案を、受け入れる」
私は、ほっと息をついた。
クローディア様が、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、決まりね。エミリアはうちの屋敷に。レイナードは護衛として常駐——ということで」
「……ああ」
レイナード様が、ぶっきらぼうに頷いた。
でも——その横顔は、さっきより穏やかに見えた。
裁判前夜。
私は、別邸のバルコニーに立っていた。
月が、高く昇っている。銀色の光が、王都の街並みを照らしている。
「眠れないのか」
背後から、声がかかった。
振り返らなくても、分かった。
「……ええ。少し」
「俺もだ」
レイナード様が、隣に立った。
二人で、月を見上げる。
「……さっきは、悪かった」
彼が、静かに言った。
「声を荒げた。お前を、傷つけた」
「いいえ。私も——あなたの気持ちを、考えていませんでした」
風が、吹いた。
夜の冷たい空気が、頬を撫でる。
「明日——」
私は、月を見たまま言った。
「全部、終わりますね」
「ああ」
「怖いです。でも——」
隣を見た。
レイナード様の横顔が、月明かりに照らされている。
「一人じゃないから、大丈夫です」
彼が、こちらを向いた。
灰色の目が、月の光を映している。
「……俺も、そう思う」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「明日——全部終わらせましょう」
「ああ」
二人で、月を見上げた。
言葉は、それ以上必要なかった。
明日、裁判が始まる。
私の人生を取り戻すための、最後の戦いが。
でも——怖くない。
この人がいれば。
そう思えることが、何より心強かった。




