第2話 私の薬は、奇跡じゃない
馬車に揺られて二週間。
辺境グランヴェル領の入り口に着いた時、最初に感じたのは、空気の冷たさだった。
山々に囲まれた谷間の土地。王都とは比べものにならないほど澄んだ空気——のはずが、どこか淀んでいる。
鼻の奥に、微かに甘い腐臭が混じっていた。
「……瘴気」
思わず、呟いた。
魔物が放つ瘴気。これが人体に入り込むと「魔瘴病」を引き起こす。
聖女時代、何度も「浄化の奇跡」を求められた病だ。もちろん、私に浄化などできなかった。魔道具で光を出して、祈りを捧げる振りをしただけ。
——でも、薬なら作れる。
シスター・マリアンに教わった。魔瘴病には「銀葉草」と「月光花」を主成分にした解毒薬が効く。
馬車が、村の中心部に入った。
窓から見える景色に、息を呑んだ。
道端に、人が倒れている。
家の前で、老婆がうずくまって咳き込んでいる。
子供を抱えた母親が、泣きながら走っていく。
——こんなに、酷いのか。
王都で聞いた「辺境の疫病」は、遠い話だった。数字でしかなかった。
でも今、目の前にある。
人が苦しんでいる。助けを求めている。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
領主館は、村の外れにあった。
石造りの堅牢な建物。だが、手入れが行き届いていない。庭は荒れ、窓の一部は板で塞がれている。
「追放者のエミリアだな」
出迎えたのは、初老の執事だった。灰色の髪、痩せた頬、深い皺。そして——目の下に濃いクマ。
眠れていないのだろう。
「はい。本日より——」
「分かっている。部屋は離れを使え。食事は台所で勝手に取れ。それ以外に、こちらから世話をする余裕はない」
冷たい声だった。
追放者への軽蔑——そう思いかけて、気づいた。
この人は、私を見ていない。
見る余裕がないのだ。
館の中は慌ただしかった。使用人たちが足早に行き交い、誰もが疲弊した顔をしている。廊下の奥から、誰かの呻き声が聞こえた。
「……あの」
私は、執事を呼び止めた。
「なんだ」
「薬師として、働かせていただけませんか」
執事の眉が、ぴくりと動いた。
「薬師?」
「はい。私は薬草学を修めております。魔瘴病の薬も、作ることができます」
沈黙。
執事が、私を見た。初めて、ちゃんと見た。
「……お前は『聖女』だったのだろう」
その言葉に、胸が痛んだ。
偽物だ、と言いたくなった。でも、それは言い訳にしかならない。
「はい。でも——」
「聖女が薬師? 聞いたことがない」
「『聖女の奇跡』は、私の力ではありませんでした。でも、薬草学は違います。これは、私自身が学んだものです」
執事の目が、わずかに細くなった。
信じていない。当然だ。
追放された偽聖女が「薬を作れます」と言っても、誰が信じる。
「……悪いが、忙しい。戯言に付き合う暇は——」
「試させてください」
私は、一歩前に出た。
「一人だけでいい。患者を診させてください。薬が効かなければ、何も言いません。でも、効いたら——私を、使ってください」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
執事が、目を見開いた。
——ああ、私、こんな風に言えるんだ。
聖女の時は、何も主張できなかった。「こうしたい」と言うことすら許されなかった。
でも今は違う。
私は「聖女」じゃない。ただのエミリア。
だから、自分の言葉で、自分の道を切り開いていい。
「……ついてこい」
執事が、踵を返した。
通されたのは、館の奥にある一室だった。
ベッドに、若い女性が横たわっている。額に汗、頬は赤く染まり、呼吸が荒い。
「使用人のリーゼだ。三日前から熱が下がらない」
執事の声は、硬かった。
——大切な人なのだろう。
目の下のクマ、疲弊した様子。この人は、ずっとリーゼのそばにいたのだ。
「診させてください」
私は、ベッドの脇に膝をついた。
額に手を当てる。高熱。脈を取る。速いが、乱れてはいない。
瞼を開いて、目を確認する。瞳孔に異常なし。ただし、白目が微かに黄色みを帯びている。
——魔瘴病の初期症状。
首筋に手を当てる。リンパが腫れている。
舌を見る。白い苔が張っている。
「魔瘴病です。ただし、まだ初期。今なら間に合います」
「本当か」
執事の声が、わずかに震えた。
「銀葉草と月光花はありますか?」
「……薬草庫にあるはずだ」
「あと、清水草と、できれば蒼玉茸も」
執事が、使用人を呼んだ。
私は、運ばれてきた薬草を確認した。
銀葉草——良質。葉の銀色が鮮やかで、乾燥状態も完璧。
月光花——やや古いが、使える。
清水草——新鮮。これは解熱に使う。
蒼玉茸——ある。これがあれば、回復を早められる。
「道具を貸してください。乳鉢と、すり棒と、煮沸用の鍋」
手が、自然に動いた。
銀葉草を細かく刻む。月光花の花弁を乳鉢ですり潰す。清水草の汁を絞り、蒼玉茸を薄くスライスする。
鍋に水を張り、火にかけ、材料を順番に投入していく。
——シスター・マリアン。見ていてください。
あなたが教えてくれたこと、ちゃんと覚えています。
煮立ったら火を弱め、ゆっくりと煎じる。部屋に、薬草の清涼な香りが広がった。
「……いい匂いだ」
執事が、呟いた。
「魔瘴病の薬は、ちゃんと作れば嫌な匂いはしません。むしろ、体が『欲しい』と感じる香りになります」
煎じ終えた薬を、器に移す。
「リーゼさん、飲めますか?」
ベッドの女性が、薄く目を開けた。
「……苦い、の?」
「少しだけ。でも、すぐ楽になりますから」
私は、彼女の上体を支えて、ゆっくりと薬を飲ませた。
一口、二口、三口。
リーゼが、小さく咳き込んだ。でも、全て飲み干した。
「あとは、安静にしていれば大丈夫です。明日の朝には、熱が下がり始めるはずです」
執事が、じっと私を見ていた。
信じていいのか、まだ迷っている目だった。
——それでいい。
結果で、証明すればいい。
翌朝。
リーゼの熱は、下がり始めていた。
執事が、私の部屋を訪ねてきた。
「……本当に、効いた」
その声には、驚きと——かすかな希望が混じっていた。
「他の患者にも、薬を作ってもらえるか」
「もちろんです」
その日から、私は薬師小屋で働き始めた。
患者は、次々と運ばれてきた。
重症者、軽症者、子供、老人。
私は、一人一人の症状を見極め、その人に合った薬を調合した。
同じ魔瘴病でも、体質によって処方を変える必要がある。シスター・マリアンが教えてくれたことだ。「薬は、病を見るのではなく、人を見なさい」と。
三日後。
最初に薬を飲んだリーゼが、自分の足で立ち上がった。
「エミリアさん……ありがとう、ございます……」
涙を流しながら、私の手を握ってきた。
その温かさに、胸が詰まった。
「私、こんなに早く良くなると思わなくて……聖女様の奇跡でも、こんなに——」
リーゼが、はっと口を押さえた。
「ご、ごめんなさい、私……」
「いいんです」
私は、微笑んだ。自然に、微笑めた。
「私の薬は、奇跡じゃありません。ただの薬です。でも、ちゃんと効く。それだけで、十分です」
一週間後。
村の疫病は、収束に向かっていた。
死者は出なかった。重症者も、全員が快方に向かっている。
噂が、広がり始めていた。
「辺境に来た薬師、すごいらしいぞ」
「聖女の奇跡より効く薬を作るんだと」
「元は王都にいたとか……」
私は、薬師小屋の窓から空を見上げた。
青い空。澄んだ空気。瘴気の匂いは、だいぶ薄れている。
——やっと、自分の力で、誰かを助けられた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
これが、私の生きる道だ。
聖女の「奇跡」ではなく、薬師の「技術」で——。
「エミリア殿」
執事のトーマスが、駆け込んできた。
その顔が、緊張している。
「どうしました?」
「王都から……使者が来ています」
心臓が、跳ねた。
——王都から?
まさか、また何かの罪を着せられるのか。追放だけでは足りないと——。
「使者は、二人です」
トーマスが、声を低くした。
「一人は侯爵家の紋章。もう一人は——審問騎士団の紋章を掲げています」
侯爵家。
審問騎士団。
どちらも、私には縁のない存在だ。いや——侯爵家といえば。
クローディア・ヴァレンシア。
私を告発した、あの人。
なぜ、今になって。
「……分かりました。お会いします」
私は、静かに答えた。
手が、微かに震えていた。
でも、逃げない。
もう、逃げる私は終わったのだから。




