第10話 私の名前で、生きていく
裁判長の声が、法廷に響き渡った。
「主文。被告エミリアを、無罪とする」
一瞬、何も聞こえなくなった。
そして——法廷が、どよめいた。
「無罪だと……」「当然だ、証拠が揃っていた」「聖女の方こそ……」
声が、波のように押し寄せてくる。
私は、ただ立ち尽くしていた。
無罪。
その言葉が、胸に染み込んでいく。
「さらに——」
裁判長が、続けた。
「本裁判において明らかになった事実に基づき、以下の判決を下す」
法廷が、静まり返った。
「聖女ミレーユ・フォンテーヌ。聖女位剥奪。神殿からの追放。詐欺罪により、五年間の奉仕刑に処す」
ミレーユ様が、崩れ落ちた。
アルベルト殿下が、彼女を支えようとして——でも、できなかった。
自分も、裁かれる身だから。
「神殿長ガルディス・オルテガ。職位剥奪。寄進金横領の罪により、全財産を没収。地方にて監視付き隠居とする」
神殿長の顔が、土気色に変わった。
権力も、金も、全てを失う。それは彼にとって、死よりも重い罰だろう。
「第一王子アルベルト・ルクレール。王位継承権を剥奪する。三年間、地方領にて贖罪の経営に当たること」
アルベルト殿下が、拳を握りしめた。
王位継承権の剥奪。王族としての身分は残るが、王になる道は閉ざされた。
「そして——」
裁判長が、私を見た。
「エミリアに対する『偽聖女』の烙印を撤回する。聖女時代に開発した魔道具の特許権を返還し、不当な追放に対する賠償金を支払うものとする」
名誉回復。
特許の返還。
賠償金。
全てが——戻ってきた。
「以上をもって、本裁判を終結する」
裁判長が、木槌を打った。
その音が、私の耳に残った。
終わった。
本当に——終わったのだ。
法廷の外に出ると、人だかりができていた。
民衆だった。
裁判の結果を聞きつけて、集まってきたのだろう。
「あの人だ」「薬師様だ」「王都を救ってくれた人だ」
声が、聞こえる。
そして——拍手が起きた。
一人、二人。それが波のように広がっていく。
「ありがとう」「あなたの薬のおかげで助かった」「おめでとう」
涙が、滲んだ。
聖女の時、こんな風に迎えられたことはなかった。
「聖女様」と崇められることはあった。でも、それは「私」への言葉ではなかった。
今、彼らは——「エミリア」を見てくれている。
「エミリア」
クローディア様が、隣に立った。
「おめでとう。あなたの勝ちよ」
「……クローディア様のおかげです。あなたがいなければ、私は——」
「やめて」
クローディア様が、笑った。
「対等だって言ったでしょう。感謝は受け取るけど、恩着せがましいのは嫌いよ」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「これで、私たちは——」
クローディア様が、空を見上げた。
「『役割』から解放されたわね。聖女でも、悪役令嬢でもなく——ただの、私たちとして」
「……はい」
私も、空を見上げた。
青い空。白い雲。
こんなに広い空を、聖女の時は見たことがなかった。
「友達になってくれる?」
クローディア様が、手を差し出した。
「侯爵令嬢としてじゃなく、ただのクローディアとして」
私は、その手を握った。
「はい。ただのエミリアとして」
二人で、笑い合った。
初めての——本当の友達だった。
「エミリア」
レイナード様の声に、振り返った。
彼は、少し離れた場所に立っていた。
人気のない、法廷の裏庭。
「少し、いいか」
「……はい」
クローディア様が、意味深な笑みを浮かべて去っていった。
二人きりになる。
心臓が、早鳴りし始めた。
「裁判は、終わった」
レイナード様が、静かに言った。
「俺の任務も、終わりだ」
「……そうですね」
胸が、きゅっと締め付けられた。
任務が終われば——彼は、審問騎士団に戻る。私は、辺境に帰る。
もう、会う理由がなくなる。
「だから、これは任務じゃない」
レイナード様が、一歩近づいた。
「……え?」
「お前を守りたいと思った。一緒にいたいと思った。それは——任務だからじゃなかった」
灰色の目が、真っ直ぐに私を見ている。
いつもの冷たい目じゃない。
熱が、ある。
「俺は——」
彼が、跪いた。
私の手を取った。
「俺の隣にいてくれ」
息が、止まった。
「命令じゃない。……願いだ」
その声が、震えていた。
いつも冷静で、感情を見せないこの人が。
私のために——跪いて、願っている。
「……私から、いいですか」
声が、掠れた。
「なんだ」
「私も——あなたの隣にいたいです」
彼の目が、見開かれた。
「聖女の時、誰も私を見てくれなかった。でも、あなたは——最初から、私を見てくれた」
涙が、頬を伝った。
「薬湯を『美味い』と言ってくれた。仕事を『いい』と言ってくれた。守ろうとしてくれた。怖いと、言ってくれた」
私は、彼の手を握り返した。
「だから——私から」
身をかがめて。
彼の唇に、自分の唇を重ねた。
一瞬。
でも——永遠のように感じた。
「……はい。あなたの隣に、います」
レイナード様が、目を閉じた。
そして——私を、抱きしめた。
強く。でも、優しく。
「……ありがとう」
かすれた声が、耳元で聞こえた。
「俺を、選んでくれて」
私も、彼を抱きしめ返した。
選んだのだ。自分で。
誰かに決められたのではなく。
これが——私の、新しい人生の始まり。
——数ヶ月後。
辺境グランヴェル領に、小さな薬局が開店した。
看板には、こう書かれている。
「エミリア薬房」
聖女ではなく、薬師として。自分の名前で。
「いらっしゃいませ」
私は、扉を開けて入ってきた客に微笑んだ。
村の人たちが、次々と薬を買いに来る。
「いつもありがとう」「この薬のおかげで楽になった」「また来るね」
温かい言葉が、胸に染みる。
これが、私の居場所だ。
「エミリア」
午後になると、見慣れた黒い制服の男が現れた。
「レイナード様、また来たんですか」
「護衛任務だ」
「もう任務じゃないって言いましたよね」
「……習慣だ」
相変わらず、不器用な人だ。
でも、その不器用さが——愛おしい。
「お茶、淹れますね」
「ああ」
彼は、カウンターの椅子に座った。
私が薬草を調合するのを、じっと見ている。
その視線が、くすぐったい。
「クローディア様から手紙が来ました」
「何と」
「『社交界デビューの招待状を送るから覚悟しなさい』ですって」
「……災難だな」
「ふふ、一緒に行ってくださいね」
「護衛として、だな」
「……護衛として」
二人で、顔を見合わせて笑った。
窓の外には、青い空が広がっている。
広くて、高くて、自由な空。
「聖女」でも「悪役令嬢」でもなく。
ただの「エミリア」として。
これからは——好きに生きていい。
その幸せを、噛みしめながら。
私は、薬湯を淹れた。
隣には、大切な人がいる。
遠くには、大切な友達がいる。
これが——私の、選んだ人生。
自分の名前で、生きていく物語。




