第1話 聖女を辞められて、嬉しかった
「この者、エミリアは——偽りの聖女である!」
クローディア・ヴァレンシア侯爵令嬢の声が、王宮の大広間に響き渡った。
私は、その言葉を聞きながら、不思議なほど静かな気持ちでいた。
周囲の貴族たちがざわめく。悲鳴に似た声を上げる者、信じられないという顔で私を見つめる者。けれど私の心は、嵐の中心のように凪いでいた。
——ああ、やっと終わる。
そう思った。
「聖女エミリアの『奇跡』は、全て偽物です。彼女には神聖魔法の力などない。民を欺き、神殿を欺き、この国を欺いてきたのです!」
クローディア様は、深い紫の瞳で私を真っ直ぐに見ていた。
怒りに燃えているはずの目が、なぜか静かだった。
私を睨みつけているというより、何かを見定めているような——。
その違和感に気づいたのは一瞬で、すぐに意識の外へ追いやられた。今はそれどころではない。
「クローディア嬢の告発を、神殿は重く受け止めます」
神殿長ガルディス様が、厳かに口を開いた。白髪の下の冷たい目が、私を射抜く。
「エミリア。そなたに問う。聖女の力——女神エルシアより賜りし神聖魔法を、そなたは持っておるか?」
持っていない。
一度も、持っていたことはない。
十六歳のあの日、孤児院で偶然「癒しの光に見える現象」を起こしただけだ。それは私が作った魔道具の効果であって、神聖魔法ではなかった。
でも神殿は、それを「聖女の奇跡」と認定した。
私が「違います」と言っても、誰も聞いてくれなかった。
「……持っておりません」
私は、静かに答えた。
ざわめきが、一層大きくなる。
「やはり偽物だったのか」「信じていたのに」「孤児院出身の小娘が」
声が刺さる。けれど、痛みは薄かった。
六年間、ずっとこうなる日を待っていたのかもしれない。
「エミリア」
第一王子アルベルト殿下が、一歩前に出た。金髪に青い目。正義感に満ちた顔が、今は失望と怒りに歪んでいる。
「お前を信じていた民がいる。お前の『奇跡』に救われたと思っていた者がいる。その全てを、お前は裏切ったのだ」
裏切った——のだろうか。
私は「聖女になりたい」と言ったことは一度もない。「奇跡を起こせます」と嘘をついたこともない。
ただ、神殿に連れてこられて、「聖女として振る舞え」と命じられて、逆らえなかっただけだ。
でも、それを今さら言っても、誰も信じない。
「私は——」
「言い訳は聞かぬ」
殿下が、私の言葉を遮った。
「偽聖女エミリア。そなたの聖女位を剥奪する。神殿への出入りを禁じ、王都からの追放を命ずる」
追放。
その言葉に、周囲がどよめいた。
けれど私の心には、別の感情が湧き上がっていた。
——やっと、自由になれる。
六年間、「聖女」という名の檻に閉じ込められていた。毎日、奇跡を求められた。民の前に立ち、祈りを捧げ、「癒しの光」を演出した。
失敗すれば「聖女の力が弱まった」と囁かれ、成功すれば「もっと多くの人を救え」と求められた。
誰も、私を見ていなかった。
皆が見ていたのは「聖女」という役割だけだった。
「追放先は——」
神殿長が、羊皮紙を広げた。
「辺境グランヴェル領とする。そなたの罪を考えれば、これでも寛大な処分だ」
グランヴェル領。
その名前に、周囲の貴族たちが顔を見合わせた。
知っている。北東の山岳地帯にある辺境。魔物の瘴気が漂い、疫病が絶えない土地。「流刑地」と呼ばれることもある場所だ。
——死ね、と言っているようなものだ。
でも、私は頷いた。
「……承知いたしました」
「なっ……」
誰かが、息を呑んだ。
反論も、命乞いもしない私を、皆が奇妙な目で見ている。
当然だ。普通なら泣いて許しを乞うところだろう。
でも私は、泣けなかった。
むしろ——。
「……」
聖女ミレーユ様が、アルベルト殿下の隣で私を見ていた。
金髪に空色の目。可憐で、儚げで、「守ってあげたい」と思わせる少女。私の後任として「本物の聖女」に認定された人。
その顔に、一瞬、困惑の色が浮かんだように見えた。
……気のせいだろう。
「では、これにて断罪を終える。エミリアは直ちに王都を去れ」
神殿長の言葉で、全てが終わった。
私は深く一礼して、踵を返した。
振り返らなかった。
振り返る理由がなかった。
王宮の廊下を歩く。
白い壁、金の装飾、磨き上げられた床。六年間、何度も歩いた道。
でも今日が最後だ。
——やっと。
胸の奥で、小さな声が囁く。
——やっと、終わる。
足取りが軽い。おかしなことだ。全てを失ったはずなのに。
聖女の位も、神殿での居場所も、王都での生活も。
でも、それは「私のもの」だっただろうか。
全て、押し付けられたものだ。私が望んだものは、一つもない。
「……っ」
不意に、目頭が熱くなった。
泣いている——わけではない。
これは、安堵だ。
六年間、張り詰めていた糸が、やっと切れた。
もう「聖女」を演じなくていい。
もう「奇跡」を求められない。
もう、誰かの期待を裏切る恐怖に怯えなくていい。
——ありがとう、クローディア様。
不思議な感情が、胸に湧いた。
あの人は私を陥れた。私から全てを奪った。
でも、同時に——私を、解放してくれた。
……いや、そんなはずはない。
侯爵令嬢が、孤児院出身の偽聖女のために動くわけがない。きっと何か別の目的があったのだ。
でも今は、考えても仕方がない。
私は、前を向いて歩くだけだ。
王宮の門を出ると、質素な馬車が一台、待っていた。
御者は一人。護衛もいない。
当然だ。追放者に、護衛などつくはずがない。
「……乗りなさい」
門番が、無感情な声で言った。
私は頷いて、馬車に乗り込んだ。
硬い座席。小さな窓。揺れる車体。
王都ルミエールの街並みが、ゆっくりと流れていく。
白亜の建物、賑やかな市場、神殿の尖塔——。
六年間、見慣れた景色。でも、私はこの街を「故郷」と思ったことは一度もなかった。
孤児院の方が、まだ「家」だった。
シスター・マリアン。
私に薬草学を教えてくれた人。「お前は自分の力で誰かを助けられる」と言ってくれた人。
三年前に亡くなった。最期に会えなかった。「聖女」は神殿を離れられなかったから。
——ごめんなさい、シスター。
心の中で、謝る。
でも、もう謝るだけの私は終わりだ。
これからは、自分の足で歩く。
自分の手で、生きていく。
馬車が、王都の門を抜けた。
窓の外に、広い空が見えた。
青い、青い空。
六年間、神殿の小さな窓からしか見られなかった空が、今は果てしなく広がっている。
「……やっと」
声が漏れた。
「やっと、普通になれる」
涙が、頬を伝った。
悲しみではない。
これは、喜びの涙だ。
馬車は、辺境へと向かって走り出した。
聖女エミリアは、もういない。
ただの「エミリア」として——私の、本当の物語が、今、始まる。




