第9話 外部相談役・田中陸
期末テストが終わって最初の休日は、晴れているくせに、どこか体の芯がだるかった。
答案返却はまだ先。
解放されたとも言い切れないし、かといって「テスト前モード」を続ける気力もない。
そんな微妙なテンションの土曜日の昼前。
駅前のファストフード店で、僕はガラス越しに店内を覗き込んでいた。
(……いたな)
奥の窓側の席で、片手をひらひら振っているやつが一人。
田中陸。
幼稚園からの付き合いで、今は別の高校に通っている、僕の親友だ。
店に入って、注文カウンターでテキトーにセットを頼み、トレイを受け取る。
油と塩と炭酸の匂いが混ざった空気の中を、陸の席まで移動した。
「おー、湊。生きてたか」
「テストごときで死んでたら、今ここにいないと思うけど」
「精神的には一回死んでるだろ?」
「それはまあ、否定はしない」
向かい合って座ると、陸はポテトを一本つまんで、僕のトレイに勝手に乗せてきた。
「ほら、友情の一本」
「勝手に友情をポテトで表現しないでくれる?」
「大丈夫、塩分とカロリーは裏切らないから」
昔から、テンションが軽いくせに、地味に言ってることは刺さるタイプだ。
陸は、自分のドリンクをストローでかき混ぜながら、じろっと僕の顔を覗き込んできた。
「で、どうよテスト。手応え的には」
「聞くか、それ」
「聞く。まずそこから近況アップデートでしょ」
「……平均よりちょい上くらいで、生存ラインは超えてると思う」
「いつも通りだな、お前」
陸はあっさり言って、バーガーの包み紙を開ける。
「俺んとこはさ、数学で完全に事故ったわ。大問一個、きれいに白紙」
「それ、わりと致命傷じゃない?」
「大丈夫、青春もの的には“赤点回避ギリギリで補習確定”くらいのほうが、話としておいしいから」
「自分の成績を物語の起承転結で語るのやめたほうがいいと思う」
「ラブコメ脳なめんなよ?」
胸を張られても、全然誇れる要素ではない。
◇
ある程度どうでもいいテスト話を消費したところで、陸がストローをくわえたまま、ふいに目線を変えた。
「でさ」
「ん?」
「お前のほうは? 高校生活的には、なにかイベントありましたか、っていう」
「イベントって」
「分かりやすく言うと、恋愛イベント的な」
「そのカテゴライズやめてくれない?」
即答で返したつもりだったけど、陸はにやっと笑っただけだった。
「いやさ、LINE見てても“今日は疲れた”とか“テスト前で教室がこうだった”みたいな話はあるのに、肝心なところが全然来ないわけ」
「肝心なところ?」
「クラスの雰囲気とか、人間関係とか。特に女子関係とか」
「“特に”って付けるな」
「付けるだろ、普通。高校一年の夏前だぞ?」
陸はポテトを放り込みながら、言葉を続ける。
「お前さ、“モブ志望です”って前から言ってるけどさ」
「うん」
「モブ志望自体は別にいいんだよ。背景で平和に過ごしたいなら、それはそれで尊重する」
「じゃあそれでいいじゃん」
「ただし」
陸は、そこでわざとらしく人差し指を立てた。
「モブを言い訳にして、恋愛から逃げるのは、話が別」
「出た、ラブコメ脳の持論」
「だってさ」
陸はストローをくるくる回しながら、僕の顔をじっと見た。
「小学校のポスター事件のときさ」
「やめろ、その呼び方」
「マジであのときの湊、かっこよかったからな?」
完全に無視はできない言い方で、過去を掘り返してくる。
ポスター事件──
クラスの前に貼り出された一枚のポスターを巡って、いろいろあったあの日のことを、僕も忘れたくても忘れられない。
「ああいうとき、“何もしない理由”を並べて逃げなかったのお前だぞ」
「……昔の話だろ」
「昔も今も変わんねーよ。お前は、誰かが傷つきそうなときだけ、モブの皮を脱ぐんだよ」
やたら堂々と言われると、反論しづらい。
陸は、ポテトの袋をくしゃっと丸めてから、少しだけ声のトーンを落とした。
「で、なに。今の高校では、どうなんだよ?」
「……別に、特に何もないけど」
曖昧な返事をした瞬間、陸の目つきが変わった。
「あ、これはなんかある顔だ」
「ないって」
「あるやつの“ないって”な」
めんどくさいプロファイリングをされている気分だ。
◇
逃げ切れそうにない雰囲気を察して、僕はポテトを一本つまみながら、観念して口を開いた。
「……クラスの話なんだけどさ」
「うん」
「なんか、ちょっと変な役職みたいなのを任されてて」
「役職?」
「“観察係”ってやつ」
その単語を口に出した瞬間、陸の眉がぴくっと動いた。
「観察係?」
「そう」
「クラスの中心にいる女子がいてさ」
「ほう」
「匿名で文章を上げてる」
「え、作家?」
「エッセイって言ってた。
で、たまに危ないラインが出そうなときだけ、僕が止める役」
「それが観察係?」
「そう。変な役職だろ。
で、その子に“観察係”って名前を付けられてさ。
“これは書かないほうがいい”とか、“ここちょっときついかも”とか、たまに意見聞かれる感じ」
そこまで話したところで、陸はバーガーを置いて、両手を組んだ。
「…………」
沈黙。
数秒の間。
それから。
「湊」
「なんだよ」
「それ、普通にラブコメの始まりだからな?」
ど真ん中にストレートを投げ込まれた。
「どこがだよ」
「どこからでもどうぞ、ってレベルでラブコメじゃん」
陸は、指を折りながら数え始める。
「一、クラスの中心ヒロイン的な子がいる」
「ヒロインって言うな」
「二、その子が“匿名でエッセイ書いてます”っていうちょっと特殊な属性持ち」
「言い方」
「三、その子が、よりにもよってモブ志望の観察好き男子に“観察係”を依頼」
そこで一拍置いてから、にやりと笑う。
「四、屋上で二人きりでその話する」
「そこまで具体的に言わなくていいから」
「五、テスト前には図書室で二人で勉強」
「それ、なんで知ってる体なんだよ」
「話の流れ的に絶対どこかであるやつ」
僕はポテトを一本つまんで、口の中に放り込んでごまかした。
「六、テスト後には自販機前で二人でスポドリ飲みながら愚痴トーク」
「お前、なんでそこまでピンポイントで当ててくるんだよ!」
「こういうのだけは妙に勘がいいんだよ、俺」
悔しいけど、だいたい合っているのが腹立たしい。
◇
「いや、だからさ」
僕は、なるべく冷静な声を装って言った。
「観察係って、あくまで仕事みたいなもんだから」
「仕事?」
「そう。文章のラインチェックっていうか。
誰かが傷つかないように、一応ブレーキ役するっていうか」
「ほうほう」
陸は、ストローをくわえ直しながら、わざとらしくうなずいた。
「じゃあ質問です、観察係さん」
「なんだよ」
「その“仕事相手”のこと、最近どれくらい考えますか」
「は?」
「一日のうちで、“あ、今の教室の空気あの子ならどう書くかな”とか、
“これネタになりそうだな”とか、そういうの含めて」
「“あの子”って言い方やめてくれない?」
「名前は出さないって約束で聞いてるんだから、そこは我慢しろ」
小さいころから、こういうときだけ言葉の選び方が妙に的確なの、ほんとずるい。
言われてみれば、最近、教室で何かあるたびに「これ、あのノートにどう書かれるんだろう」と考える癖がついてしまっている。
ホームルームの沈黙も。
会議の雰囲気も。
テスト前のキャラ変も。
頭のどこかで、「エッセイ目線」と「観察係目線」が勝手に動いている感じだ。
「……まあ、それなりには」
「それなりって」
「一日中そればっかりってわけじゃないけど」
「でも、前より明らかに“その子の目線”を意識して教室見てるわけでしょ?」
「……まあ」
自分で言いながら、だんだん嫌な予感がしてきた。
案の定、陸はすかさず畳みかけてくる。
「はい、アウト」
「まだ何も言ってないだろ」
「幼なじみ歴十何年のセンサーが、今“ピコン”って鳴った」
「そんな装置、認可されてないから」
「湊」
陸の目が、さっきより少しだけ真面目になった気がした。
「それ普通に、その子のこと好きじゃん?」
静かに、でもはっきりとした声だった。
◇
「……いやいやいや」
反射的に、否定の言葉が口から出る。
「好きとか、そういう話じゃなくてだな」
「じゃあどういう話?」
「単に、距離がちょっと近くなったというか。
友達の一人というか」
「それを人は“好きの手前”と言うんだよ」
「言わないだろ」
「言うよ。そういうのって、だいたいそこから転げ落ちるんだよ、人は」
陸は、テーブルの上で指を滑らせて、斜面のイメージを描く。
「最初は“観察係だから関わってるだけ”って言い訳してさ。
次に、“まあ友達だから一緒に勉強してもいいよね”って自分に言い聞かせてさ。
気づいたら、“今日話せなかったな、なんか物足りないな”って思い始めるわけ」
「具体的だな、おい」
「そういう話だけは、やたら詳しいんだよ、俺」
誇れることじゃないのに、妙な説得力があるのが腹立つ。
けれど、「今日話せなかったな」とか「何かあると、つい報告したくなる相手」とか。
そういう単語が頭に浮かんだ瞬間、自分でも、少しだけ心臓のあたりがざわついた。
(……いや、でも)
「別に、話せなかった日があっても普通だし」
「はい出た、“何もしない理由”その一」
「勝手にカウントするな」
「いいか湊」
陸は、ストローをテーブルに置いて、両手を組んだ。
「モブ志望なのはいい。
でも、“どうせ自分はモブだから”って理由で最初から何もしないのは、ただのサボり」
「サボりって」
「恋愛から逃げるときに、“モブだから”“観察係だから”って名札を盾にするのは、ずるいって話」
言い方は軽いのに、内容はやたら真っ直ぐだった。
「別に、今すぐ告れとか言わないよ」
「そもそも、好きだって認めてもないし」
「そこも含めて、急かすつもりはない」
陸は、そこで少しだけ笑い方を変えた。
「ただ、“どうせ俺なんか”、“モブだからさ”ってセリフで、最初から可能性を消すのはやめとけってだけ」
小学校のポスター事件のときのことが、また頭をよぎる。
あのとき、僕は「どうせ自分が出ていっても何も変わらない」とか、「誰かが止めてくれるだろう」とか、そういう言い訳を並べる前に動いてしまった。
(……あのときは、考える前に体が動いたんだよな)
今は、逆だ。
考えれば考えるほど、「何もしない理由」が積み上がっていく。
「……でもさ」
気づけば、小さく反論していた。
「もし本当に、相手が“物語の主役側”だったとしてさ」
「うん」
「そういう人に近づくのって、それなりに勇気いるだろ」
「それはまあ、そうだな」
「クラスの真ん中にいて、誰とでも普通にしゃべれて。
でも、本人は本人でいろいろ抱えてて。
……あいつ、完璧に見えて意外と抜けてるし、放っておくとたまに顔に出るし」
屋上で見た横顔。
雨の日の教室で見せた弱音。
自販機前で、スポドリ抱えてぐったりしていた姿。
その全部が、一気に浮かんできて、言葉が途切れた。
ハッとして顔を上げると、陸がニヤニヤしながら僕を見ていた。
「はい、やっぱり好きじゃん」
「だから、そういう雑なまとめ方やめろって」
「雑じゃないよ。“その人のこと考えるときだけ、急に語彙が増える現象”は、わりと信頼できる指標だから」
「新手の診断出してくるな」
◇
ポテトがほぼ消えたころ、陸が空になった紙袋を脇に寄せた。
「ま、今の段階で『好きです!』って自覚しろとは言わんよ」
「ならいい」
「ただし」
まただ。人差し指が立つ。
「“観察係だから”“仕事だから”って理由で、自分の感情を全部スルーするのはなし」
「……」
「“観察係として見た教室”と、“湊として見たその子”は、ちゃんと分けとけ」
思っていたより、僕には刺さった。
観察係として、教室の空気や誰かの沈黙を言語化すること。
一方で、僕個人として、その子の笑い方や、弱音や、くだらない会話をどう感じているか。
ごっちゃにしてしまえば楽だけど。
たぶん、それを続けていると、どこかでよく分からなくなる。
「……分けといた結果、“何もないな”って思うなら、それはそれでいいよ」
陸は、最後にそう付け加えた。
「そのときは、“幼なじみとして、本気でそう思ってるなら尊重します”って言う」
「一応そこまで考えてくれてるのは、ありがたいけどさ」
「逆に、“あれ、これちょっと違うな”って思ったら」
陸は、スマホを取り出して、画面をこっちに向けた。
「ちゃんと相談窓口を使え。外部相談役として」
「外部相談役って、今決まったよな、その役職」
「観察係の外側には、外部相談役が必要なんだよ。世界観的に」
「どんな世界観だよ、それ」
くだらない言葉の応酬なのに、少しだけ肩の力が抜けた。
◇
「とりあえずさ」
陸は、残り少なくなったドリンクを一気に飲み干した。
「その子とLINE交換してるなら、進展あったら実況しろ」
「なんで実況なんだよ」
「俺のラブコメ脳に栄養を与えろ」
「やだよ、人を栄養源扱いするな」
「いいじゃん、お互いウィンウィンだろ」
「どこがだよ」
「お前は気持ちの整理ができて、俺はラブコメ燃料が手に入る」
全然釣り合ってない気がする。
けれど、陸がそう言って笑うと、なんだか「まあいいか」という気にもなってしまうのがずるいところだ。
(……実況とかは、しないと思うけど)
心の中でだけ否定しておく。
とはいえ、何かあったときに真っ先に顔が浮かぶ相手がいる、というのは、それだけで少し心強かった。
◇
店を出ると、昼の太陽が思ったよりまぶしかった。
「じゃ、俺このあと塾だから」
陸が手を振る。
「またなんかあったら、いつでも呼び出せ。外部相談役だから」
「その肩書き、しばらく引きずりそうだな……」
「観察係と外部相談役。青春もの的には、だいぶいい配置だと思うけどね」
「その基準で世界見ないでくれ」
適当に悪態をつきながらも、どこかで少しだけ笑っていた。
駅前の雑踏に紛れていく陸の背中を見送りながら、ポケットの中のスマホを取り出す。
通知は来ていない。
でも、画面の中には、「桜井すみれ」という名前のトークルームがある。
(観察係と、外部相談役、か)
モブとして背景に紛れるはずだった僕の高校生活は、いつの間にか、そんなよく分からない役職で埋まり始めている。
それがこの先、物語になるのかどうかは、まだ全然分からない。
ただ、もしこの画面に通知が来たら。
そのときは、「何もしない理由」を探すより先に、指が動いてしまう気がする。
そんな予感を、ファストフード店のポテトの塩気と一緒に飲み込んで、僕は歩き出した。




