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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第84話 名前のない「誰か」になる日

 十一月に入ると、図書室の空気が変わる。


 夏の間は参考書を開きながら雑談するグループもちらほらいたのに、今は私語がほとんどない。

 机の上に積まれた問題集の高さと、シャーペンの走る速度だけが、十月とは明確に違っていた。


 放課後の図書室。

 僕は窓際の席で、卒業文集の原稿用紙を前にしていた。


 と言っても、僕のほうはもう終わりかけている。


 『三年間を振り返って』という、テーマ名からして無難な作文。

 八百字の枠に収まる程度の、当たり障りのない思い出話。

 窓際の席から見えた景色のことを少し書いて、クラスメイトへの感謝を添えて、「三年間、ありがとうございました」で締めた。


 推敲する。句読点の位置を二箇所直して、一文だけ語順を入れ替える。それで完成だ。

 たぶん、クラスの誰が読んでも引っかからない文章。

 誰の記憶にも残らない、安全な八百字。


 ——それでいい。僕の文集原稿は、これでいい。


 原稿用紙をクリアファイルにしまって、鞄に入れる。

 窓の外では、イチョウの葉が風に揺れていた。

 黄色が少しずつ深くなって、来週あたりには落ち始めるだろう。


 図書室を出て、昇降口に向かう。


 文化祭が終わってから一週間ちょっとが経っていた。


 あの日——教室にひとり残って感じた、桜井の「もう一つ」を知りたいという衝動。

 あれは一週間経っても消えなかった。

 消えないまま、日常の底に沈んで、ふとした瞬間に浮上してくる。


 桜井がシャーペンのキャップを回す手が止まったとき。

 昼休み、四人で机を囲んでいるのにシャーペンだけ動いていないのを見つけたとき。


 ——書き始めたのか、まだなのか。


 聞けない。聞く理由がない。

 観察係は求められるまで待つのが仕事で、こっちから「あの件どうなった?」と催促するのは契約外だ。


 上履きからスニーカーに履き替えて、校門に向かう。

 十一月の夕方は日が短い。

 五時前なのに、空はもう茜色に傾き始めている。


 校門の手前で、足が止まった。


 桜井がいた。


 鞄を肩にかけて、スマホをしまうところだった。

 校舎のほうから歩いてきたところらしく、息が微かに速い。


「あ、安藤くん」


 目が合って、桜井がまばたきした。


「まだいたの?」


「文集の原稿、図書室で仕上げてた。桜井さんは?」


「担任と面談。推薦の志望理由書の方向性のすり合わせ……ってやつ」


 桜井がため息まじりに首を傾げた。


「十二月の一次選考に向けて、もうちょっと具体性を入れろって言われて。もう三回目なんだけど」


「三回はきついね」


「でしょ。毎回『もう一歩踏み込んで』って同じこと言われるの」


 校門をくぐって、駅へ向かう道に出る。

 自然と並んで歩いていた。


 夕焼けの色が、道路のアスファルトにうっすら映っている。

 電線に止まったカラスが一羽、こちらを見てからどこかへ飛んでいった。


「安藤くんの文集、もう出来たんだ。早いね」


「中身がないから速いだけだよ。無難な挨拶文」


「安藤くんって、自分のことになると急にやる気なくなるよね」


「やる気がないんじゃなくて、八百字で書けることに限りがあるだけ」


「観察係の本領はもっと長文で発揮される、と」


「そこまでは言ってない」


 掛け合いのリズムは、いつも通りだ。

 二年半かけて出来上がったテンポ。

 何も考えなくても噛み合うし、噛み合うことに意味を求めなくていい。


 ——はずなのに。


 文化祭の夜から、このリズムの裏側にうっすらと別の音が混じっている気がする。

 空耳かもしれない。空耳であってほしいとも、そうじゃなくてほしいとも思う。


 どっちだよ、と自分で自分にツッコむ。


 坂道を下り始めたところで、桜井の歩調がほんの少しだけ落ちた。


「……ねえ、安藤くん」


「うん」


「もう一つのほう。書き始めた」


 足音が一つ分、ずれた。

 僕の方が一歩先に出て、すぐ速度を落とす。


 一週間、聞けなかった言葉だ。

 聞けなかったのに、聞いた瞬間に胸の底がどくんと鳴った。


 嬉しい、のだと思う。たぶん。

 でもそれは観察係として——いや、違う。

 僕自身が、桜井の「もう一つ」に触れたいと思っていたからだ。


 それ以上は考えない。

 考えても、今の僕にはどうしようもない。

 隣にいても恥ずかしくない自分には、まだなれていない。


「……タイトル、決まったの?」


 声は平静だったと思う。

 歩きながらの会話は便利だ。横を向かなくても成立するから、表情を管理しなくていい。


「うん」


 桜井が少し間を置いた。

 隣の気配が、ほんの一瞬だけ硬くなる。


「『観察者のいる教室』」


 ——知っている。


 高二の三月。写真選定のとき、桜井のスマホに一瞬だけ映った文字列。

 「見ないで」と言われて、「忘れないでくれたら書ける気がする」と言われた、あのタイトル。


 忘れていない。ノートにも書いた。


「……覚えてた?」


 桜井の声が、少しだけ上ずっていた。


「覚えてるよ。忘れないでって言われたから」


 桜井の靴音が一拍飛んだ。

 半歩だけ遅れて、すぐに追いついてくる。


「……律儀だなあ」


「忘れないのは得意なので」


「それは知ってる」


 沈黙が三秒。

 それから桜井が息を吸う音が聞こえた。


「構想、聞いてくれる?」


「うん」


「教室の端っこの席に、一人の生徒がいるの」


 桜井の声が変わった。

 さっきまでの軽い掛け合いのトーンから、一段だけ低く、落ち着いた響きに。


 ——このモードの桜井を、僕は知っている。

 エッセイの構想を話すときの声だ。

 高一の屋上で初めて聞いて、それからずっと。

 文章のことを考えているとき、桜井の周波数はこうなる。


「目立たなくて、手を挙げることもなくて。

 教室の真ん中にいる人たちとは、ぜんぜん違う位置にいる」


 駅に向かう坂道を、ゆっくりと下りていく。


「でもね、その人がいると、教室の空気がほんの少しだけ柔らかくなるの。

 誰も気づかないくらいの変化だけど——その人が休んだ日だけ、なんとなく教室が硬い」


 並木道の街灯がぽつぽつと点き始めている。

 桜井は前を向いたまま話していて、その横顔に橙色の光が薄くかかっていた。


「書き手は、最初はそのことに気づいてないの。

 何度も教室を眺めて、何度も文章にして、ようやく分かる。

 ——ああ、この教室の空気を作ってたのは、主役たちじゃなかったんだ、って」


 具体的だ、と思った。


 構想というには、輪郭がはっきりしすぎている。

 「教室の端っこの席」、「目立たない」、「空気を柔らかくする」。

 一つ一つの描写が、どこかで見たことのある風景を指している。


「——それ、僕のこと?」


 聞いた。聞いてしまった。


 掛け合いの延長みたいな口調で言えたはずだった。

 軽く。笑いながら。

 でも、声が少し低くなったのは、自分でも分かった。


 桜井の足が止まった。


 僕も、二歩先で止まる。

 振り返ると、桜井が坂道の途中に立っていた。

 街灯の光が斜めに差して、表情の半分だけが見えている。


「……モデルはね」


 声が小さかった。


「でも、名前は出さないよ。最後まで『誰か』のまま書く」


 その言葉が、妙に引っかかった。


 名前を出さない。特定の誰かだと明言しない。

 そうやって「誰か」という記号の中に閉じ込めておかないと、あふれてしまう何かがあるみたいに聞こえたからだ。


 けれど——その「何か」の正体を、都合よく翻訳してはいけない。

 モデルに選ばれたからといって、僕自身が特別だとは限らない。

 あくまで物語に必要なパーツとして、僕という「素材」が適任だっただけかもしれない。


 書き手としての「採用」と、個人としての「特別」を混同してはいけない。

 そこで足を踏み外して、期待して、違ったら。今ある全部が壊れる。


「……なるほど。そのほうが、読む人は自分の教室に重ねやすいと思う」


 観察係として、もっとも当たり障りのない返しを選んだ。


 桜井が歩き出した。

 僕の横に並んで、また同じ速度で坂を下る。


「安藤くんてさ」


「ん?」


「いつもそうだよね。

 すごく的確なこと言ってくれるんだけど——自分のことだとは思ってないでしょ」


「……構成の話をしただけだよ」


「そういうところ……だよ」


 桜井の声に、かすかな苛立ちのような——いや、何だったんだろう。

 一瞬で消えて、いつもの穏やかなトーンに戻ってしまった。


 僕には、その一瞬の正体が分からなかった。



 駅までの残りの道で、桜井は構想の続きを話してくれた。


 教室の窓から見える景色が季節ごとに変わること。

 「誰か」が文化祭の裏方で椅子を直していたこと。

 体育祭の前日に、ホワイトボードに書かれた短い一行のこと。


 どれも——僕の記憶にある出来事だった。


 でも、桜井の言葉を通すと、それは僕が覚えているのとは違うものになっていた。

 僕よりずっと温かくて、僕よりずっと大きな存在として語られている。


 不思議な感覚だった。

 自分のことなのに、自分じゃないみたいだ。

 桜井のフィルターを通した「安藤湊」は、僕の知らない誰かだ。


「……すごいね。そこまで見えてたんだ」


 言ってから、少し後悔した。

 褒めたかったわけじゃない。

 ただ、率直にそう思っただけだ。


「見えてたんじゃなくて、書こうとして初めて気づいたの。

 ——あ、ここにいたんだ、って」


 桜井がそう言ったとき、声の温度が一瞬だけ上がった。


 構想を語っているだけなのに、その語り口が——なんというか、書き手の興奮にしては、どこか切実だった。

 文章の構造を説明するときの冷静さとは違う、別の熱が混じっている。


 もしかして。


 ——その「もしかして」の先を、僕は考えなかった。


 考えたら、期待してしまう。

 期待して、違ったら。

 この帰り道の空気も、二年半の距離感も、全部壊れる。


 それに、今の僕にその先を考える資格はない。

 赤本はまだ三周目の途中だし、模試の判定も足りていない。

 桜井の隣に立てるような場所には、まだ手が届いていない。


 だから——桜井は書き手として昂っているだけだ。

 ……いや、そう定義しておかないと、僕の足が止まってしまう。


 今、この熱の名前を突き詰めてしまったら、僕は赤本を放り出して、その「答え」にすがりついてしまうだろう。

 だから、これは創作への燃料だ。

 そういうことにしておく。


 駅の改札をくぐって、各駅停車に乗った。

 ドア横に並んで立つ。

 混んではいないけれど座るほどでもない微妙な車内で、桜井は吊革を持ってぼんやりと窓の外を見ていた。


 電車の揺れで、肩が時々触れそうになる。けど、触れない。


 数駅で最寄りに着いた。



 改札を出て、住宅街に入る。


 ケヤキ並木の葉が、街灯の光を受けて暗い黄色に見えた。

 足元に落ちた葉を踏むと、かさ、と乾いた音がする。


 あの十字路が近づいてくる。

 ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。


「ねえ、安藤くん」


 桜井が、十字路の手前で足を止めた。


「前に言ったの、覚えてる?」


「どれのこと?」


「……書き上がったら、一番最初に読んでほしいって」


 高二の三月。

 あの教室で、桜井がまっすぐこちらを見て言った言葉。


「覚えてるよ」


「……覚えてるんだ」


 桜井が小さく笑った。

 笑ったけれど、いつもの完璧な笑顔じゃない。

 嬉しさが先に溢れて、表情を作るのが追いつかなかった——そんな、子供みたいに無防備な顔だった。


「書くよ。ちゃんと書く」


 迷いのない、静かな音だった。

 教室でみんなに向ける声とは違う。

 僕にだけ届く、低くて熱い——書き手としての彼女の声だ。


「うん。——待ってるよ」


 高二の三月にも、同じことを言った。

 同じ言葉だ。なのに今、自分の喉から出てきた音は、あのときとは違う重さを持っていた。


 あのときの「待ってる」は、桜井の書き手としての決心に寄り添う言葉だったはずだ。


 今の「待ってる」に、何が混じっているのか——自分では、うまく掴めなかった。


「じゃあね。また明日」


 桜井が左に曲がっていく。

 三歩。五歩。


 ——振り返らなかった。


 いつもなら片手くらい振ってくれるのに。

 今日は一度も。


 ケヤキの枝の隙間から、薄い月が見えていた。

 桜井の背中が角を曲がって、見えなくなる。


 僕はまっすぐの道を歩いた。



 自分の部屋に戻って、机の前に座った。


 引き出しを開ける。

 奥のほうに、一冊のノートがある。

 高二の後半から使っているやつだ。


 ページをめくって、三月の日付を見つけた。


 『観察者のいる教室』

 (見ないで、って言われたやつ)


 あのとき書いた文字が、そのまま残っている。


 同じタイトルだ。

 八ヶ月前にスマホの画面で見たものと、さっき桜井の口から聞いたもの。

 文字列は変わっていない。


 なのに、重さが違う。


 あのときは「構想だけ。中身は空っぽ」だった。

 今は違う。

 桜井は書き始めている。

 空っぽだった器に言葉を注いでいて、その言葉の中に「僕」がいる。名前のない形で。


 重さが違うのは——たぶん、桜井が変わったからだけじゃない。

 僕のほうが変わったからだ。


 あの頃は「待ってる」と言えば、それで済んだ。

 観察係として、裏方として、桜井の創作を見守る。

 それが自分の役割で、それ以上は必要なかった。


 今は「待ってる」の中に、別のものが混じっている。

 自覚はある。

 あるけれど、それに名前をつけるのは——まだ早い。


 本棚の端に、志望校の赤本が並んでいる。

 背表紙が擦り切れてきたけれど、まだ三周目の途中だ。

 隣にいても恥ずかしくない自分には、まだ距離がある。


 ノートを閉じた。


 引き出しに戻す代わりに、机の上に出しておいた。

 赤本の隣に。


 デスクライトの白い光が、ノートと赤本を等しく照らしている。


 ——やることは、変わらない。机に向かうだけだ。


 シャーペンを手に取った。

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