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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第83話 最後の文化祭と、知りたい気持ち

 十月最後の土曜日。


 二ヶ月近く前の八月は、エアコンの効いた講習棟で四人並んでアイスを食べていた。

 百八十日、と佐伯が呟いた数字が頭の隅にまだ残っている。


 あの夏から季節が二つ進んで——僕は今、教室の入り口に立っている。


 廊下から流れてくるのは焼きそばの匂いと、どこかのクラスのBGMと、体育館のほうから響く軽音のベースライン。

 校舎全体が浮き足立つこの空気は、高一のときも高二のときも変わらない。


 けれど、三回目の文化祭は、同じ匂いでも少しだけ色が薄い。


 クラスの半分近くが「受験優先」で出し物の準備を最低限に絞っていたし、教室カフェのような大がかりな企画は最初から候補にすら上がらなかった。


 三年A組の出し物は「教室展示」。

 壁に貼った写真パネルと、テーブルに並べた冊子のみ。


 ——ただし、その冊子が問題だった。


「安藤くん、こっち足りない」


 『ご自由にお持ちください』のポップが置かれた受付テーブルから、桜井が手招きした。


 展示の目玉は、一年から三年までの「クラスだより縮刷版」だ。


 高一のスタッフブック、高二の新聞各号、そして僕たち文集委員が夏休み中にまとめた「三年間のアーカイブ」。


 佐伯が去年のバックナンバーを全部保管していたおかげで、体裁だけは妙に立派な仕上がりになっていた。

 クラスの出し物だけど、実質的にはこの冊子が展示の柱になっている。


「部数、やっぱり刷りすぎたかも」


 テーブルに積まれた冊子を補充しながら、僕は言った。


「百五十部は多いって言ったのに」


「百でいいって言ったのは湊だけだよ。すみれと千夏は二百って言ってたからね。百五十は妥協案」


 佐伯が受付に座ったまま、淡々と返した。


「あれ、まだ減ってる。さっき補充したのにもうないじゃん」


 西村が教室の入り口から戻ってきて、テーブルの上を覗き込んだ。


「いや、今補充したよ。たぶん持っていくペースが思ったより速いだけで——」


 僕の言葉が途切れた。


 中学生くらいの女の子が二人と、その保護者らしき女性が二人、入ってきた。

 受付を済ませ、冊子をとって、ぱらぱらとめくっている。

 うちの学校の制服じゃない。学校見学がてら文化祭に来たのかもしれない。


「ねえこれ、すごくない? クラスの人が書いたんでしょ?」


「えー、なにこれ、文化祭のレポート? ……あ、これ面白い。『皿洗いの哲学』だって」


 二人がくすくす笑いながら読み進めている。


 一緒に来た保護者も、冊子を手に取って立ち読みしていた。

 ページをめくりながら、小さく頷いている。


「——いいクラスだね、ここ」


 女性がぽつりと呟いた。

 連れの別の保護者に向けた言葉だったけれど、僕の耳にはっきり届いた。


 受付テーブルで補充用の冊子に手を伸ばしていた桜井の動きが、ぴたりと止まった。


 空調の風が紙の束をかすかに揺らしているのに、彼女の指先だけが縫い留められたように動かない。

 横顔しか見えなかったけれど、桜井が小さく息を呑んだのがわかった。


 『わたしの視点って、教室の中だけのものかも』

 『外の世界に持ち出したとき、通用するのかな』


 春の終わりに、彼女が帰り道でこぼした不安。

 その答えが今、まったく知らない誰かの何気ない一言として、この教室に落ちた。

 内輪向けの思い出としてではなく、「外の世界」に彼女たちの書いた言葉の手触りが、たしかに届いた瞬間だった。


 桜井はゆっくりと瞬きをして、それから、テーブルに置かれた冊子の表紙を、壊れ物でも触るようにそっと指の腹でなぞった。

 その目元が、ほんの少しだけ潤んでいるように見えたのは、西日のせいだけじゃないと思う。


 結局その四人は、一冊の冊子を大切そうに鞄にしまい、受付の桜井に軽く会釈を残して教室から出て行った。


 そのタイミングで僕は桜井に声をかけた。


「……聞こえた?」


 桜井はゆっくり頷いた。


「うん。——聞こえた」


 その声が、教室の真ん中にいるときの桜井よりほんの少しだけ低い。

 みんなの前で笑うときの周波数とは、違う音だった。


「今の『いいクラス』ってやつ、記録しとく」


 佐伯が手帳を開いて、ペンを走らせていた。

 反射的にメモする癖は、相変わらず健在だ。


「凛ちゃん、まだ記録してるの……」


「外部からの一次評価データは貴重だからね。文集の巻末に使える」


 佐伯が顔を上げずに言った。


「……私たちのクラスの話なのに」


 桜井が、冊子を手に取って呟いた。


「知らない人に、届いてるんだね」


「……はい、今の空気も記録した」


 佐伯の声が、現実に引き戻す。


「え、なに記録したの」


「事実だけ。誰が何を言ったか」


「サエ……たまにほんと怖い」


 西村が腕を組んで首を振った。



 午後三時。閉会のアナウンスが流れると、廊下の人の密度が一気に減った。


 文化祭が終わる。三回目の、最後の。


 教室の窓には西日が差し込んで、パネルの写真を斜めに照らしている。

 壁に貼ったまま剥がしていないポスターが、エアコンの風でかさかさと揺れていた。


 テーブルの上の冊子は、十五部ほど残っている。

 百五十部のうち、百三十五部が誰かの手に渡った計算になる。


 僕はガムテープを剥がしながら、横目で教室を見渡した。


 クラスメイトの大半はすでに着替えて帰り始めている。

 「お疲れー」「打ち上げどうする?」「先に駅前行ってるね」。

 そんな声が廊下に流れていって、教室に残っているのは——。


「……終わるって、こういう感じか」


 西村が、テーブルの脚を折りたたみながら言った。


 明るい声なのに、語尾だけがすとんと落ちる。


「高一のときはさ、片付けてるとき『来年もやろう』って話してたじゃん。高二は『来年はもっとすごいの作ろう』だったし」


 テーブルを壁際に寄せて、西村は両手を腰に当てた。


「今年は……『来年』がないんだよね」


「……数字にすると、今日を含めて残り百二十八日」


 佐伯が窓際のポスターを丁寧に剥がしながら、静かに言った。


「やめて。また数えた」


「聞かれる前に言っておいたほうが効率的だから」


「効率の話じゃないのよ……」


 西村が顔をしかめたが、その口元は少し笑っていた。


 僕はガムテープの残骸をゴミ袋に入れながら、思った。


 百八十日が百二十八日になった。


 数字が減った分だけ、何かが具体的になっている。

 受験の日程表、志望校の出願期間、推薦書類の締切日。


 夏の間はぼんやりしていた輪郭が、秋になってくっきりしてきた。


 そして——この四人でいられる時間にも、輪郭が出てきている。


「……残った冊子、どうする?」


 佐伯が、テーブルに残った十五部を指した。


「一人一部ずつ持って帰ろうよ。記念に」


 西村がすぐに一冊手に取った。


「残りは教室に置いといて。欲しい人が持ってけるようにしとけばいいんじゃない?」


「了解。じゃあ、教室の棚に入れとく」


 佐伯が冊子を揃えて棚に収めた。


 僕も一冊手に取った。

 表紙には、佐伯がデザインしたシンプルなロゴと、「三年間のアーカイブ」の文字が印刷されている。

 その下に、小さく四人の名前。


 桜井すみれ。西村千夏。佐伯凛。安藤湊。


 『編集・執筆:桜井すみれ 企画・構成:安藤湊 写真・データ管理:佐伯凛 広報・渉外:西村千夏』


 文集委員としてのクレジット。

 高一のスタッフブックにも、高二の新聞にも、この冊子にも——三年間、僕の名前がこういう形で残っている。


 ——その事実が、今日は少しだけ重たかった。


「私はデータのバックアップを取りたいから、PC室に寄る」


 佐伯がファイルを抱えて立ち上がった。


「じゃ、わたしもサエについてくわ。ファイル持つよ」


 西村が佐伯のほうを向いた。


「べつに一人で持てるけど」


「いいからいいから。ついでに自販機寄ろ」


 西村が佐伯の腕を引っ張って、教室のドアに向かう。


 自然と——教室に二人が残った。



 窓の外では、校庭に伸びた西日の影が長くなっている。

 どこかのクラスの片付けの音が、壁越しにくぐもって聞こえていた。


 桜井は、自分の席に座って冊子をめくっていた。


 高一の号のページを開いて、何かを読み返している。

 そのまま高二、高三と進んで——最後のページで手を止めた。


「……卒業文集の原稿、十二月締切なんだよね」


 ぽつりと、桜井が言った。


 窓から差し込む光が、彼女の横顔を半分だけ照らしている。


「担任が先週言ってた。十二月の第二週までに提出って」


「うん。知ってる。

 ……文集のやつは、もう書けちゃうんだよね」


 桜井はページから目を上げず、指先で冊子の角をなぞっていた。


「当たり障りないやつなら。『三年間ありがとうございました』みたいな、無難な挨拶文」


「……じゃあ、問題は?」


 自然と出た問いだった。

 桜井が「書ける」と言うとき、その裏には必ず「でも」がある。

 二年半そばで見てきた経験則が、勝手に口を動かした。


 桜井の指が止まった。

 ゆっくりと顔を上げ、西日の差し込む窓の外へ視線を向ける。

 その横顔は、さっき来場者の言葉を聞いて潤んでいたときより、ずっと静かだった。


「……もう一つ、書きたいのがあるの」


 声のトーンが変わった。

 教室で笑うときの声でも、編集会議で方針を決めるときの声でもない。


 僕に——だけ聞かせる声。


「でもそっちは、まだ全然まとまらなくて」


 桜井が手元の冊子を閉じた。

 両手で表紙を押さえるようにして、膝の上に置いた。


「……書きたいのに、書けない?」


「書き始めると、止まらなくなりそうで怖いの」


 その言葉に、高二の三月——スマホの画面に映った『観察者のいる教室』という文字列が、頭の奥でちかりと光った。


 あのとき桜井は言った。「ここから先は、怖いから」と。


 半年以上経って、まだ同じ場所にいるのか。

 それとも——少しだけ、先に進んでいるのか。


「……急がなくていいと思うよ」


 僕は、窓枠にもたれかかりながら言った。


「締切は文集のほうだけ守ればいい。もう一つのほうは——桜井さんが書けるタイミングで書けばいい」


 桜井が顔を上げた。


 夕日の角度が変わって、さっきまで影だった側の頬が薄く照らされている。


「……安藤くんは」


「ん?」


「もし書き上がったら——読んでくれる?」


「前にも言ったよ。待ってる」


 桜井は数秒だけ黙って、それから小さく息を吐いた。


「……うん。覚えてる」


 冊子を鞄にしまって、椅子から立ち上がる。


「じゃあ、先に行くね。千夏が待ってると思うから」


「うん。お疲れ」


「——お疲れさま。安藤くんも」


 桜井はドアの手前で一度だけ振り返った。

 何か言いかけて、やめて、代わりに片手だけ小さく振った。


 ドアが閉まり、桜井の足音が遠ざかっていった。



 一人になった教室は、やけに広い。


 壁に残ったポスターの跡。剥がし忘れたガムテープ。窓際の棚に収まった残部の冊子。


 僕はそのまま自分の席——窓際の最後列に座った。


 鞄の中から冊子を取り出して、最後のページを開く。

 四人の名前の下に、小さく印刷されたクレジット。


 高一で「背景」を名乗った僕の名前が、桜井が書いた文章の隣に、「安藤湊」として刻まれている。


 ——でも。


 桜井が「もう一つ書きたい」と言ったもの。

 あの声の温度。

 冊子の角をなぞっていた指先。

 「怖い」という言葉。


 僕はそれを「知りたい」と思った。


 観察係として報告すべき案件だから、ではなく。

 文集委員の仲間として把握しておくべきだから、でもなく。


 ただ——知りたい。


 その衝動が胸の奥で小さく灯って、消えなかった。


 窓の外では、文化祭の後片付けをする生徒たちの声が、夕暮れの空気に溶けていく。


 最後の祭りが終わった教室で、僕は冊子を鞄にしまい直した。


 桜井の「もう一つ」が形になるのか、ならないのか。


 その答えを待つ時間が——百二十八日のなかで、一番長く感じる時間になる気がした。

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