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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第82話 閑話 安藤まいは、目標を上げた兄の背中を見る

 八月の夜は、エアコンの音がやたらと響く。


 自分の部屋で寝転がって、スマホの画面をぼんやりスクロールしていた。

 タイムラインに流れてくるのは、友達の花火大会の写真と、塾の夏期講習がだるいという愚痴と、推しの配信の告知。いつもの夏休みだ。


 ——と思っていたのに、隣の部屋がうるさい。


 うるさい、というのは正確じゃない。

 音自体は小さい。

 シャーペンが紙をこする音と、たまにページをめくる音。

 それだけ。


 でも、その「それだけ」が、逆に気になる。


 だって兄ちゃんだ。


 安藤湊。わたしの兄。高校三年生。

 夏休みの夜に自分の部屋で黙々と勉強してる、なんてのは、去年までなら考えられなかった。


 高一の頃の兄ちゃんを思い出す。


 家に帰ったら自室に直行して、漫画を読むかスマホをいじるか。

 テスト前だけそれなりにやって、それ以外の日は「省エネモード」を全力で実行していた。

 学校の話を聞いても「今日も特になし」が口癖。

 部活もやらない。

 友達付き合いも最小限。将来の夢もない。


 お母さんが「湊はもうちょっと何か頑張ったら?」と言うと、「頑張らないのを頑張ってる」とか返すような人だった。


 わたしはそれを見て、ちょっとだけ安心していた。

 兄ちゃんがそうなら、わたしもそこまで頑張らなくていいかな、って。


 ——でも。


 高一の文化祭で、初めて「あれ?」と思った。


 遊びに行ったら、兄ちゃんがカフェの裏方を全力で回していた。

 あの「目立たないのが正義」の兄ちゃんが、汗だくで厨房とホールを行ったり来たりしていた。


 そして、あのスタッフブック。

 誰かが書いた文章の中に、兄ちゃんの影がくっきり映り込んでいて——わたしはあのとき思った。


 ああ、兄ちゃんのことを、ちゃんと見てる人がいるんだ、って。


 でも、普段の兄ちゃんは相変わらずだった。

 家では省エネ。「今日も特になし」。

 だからわたしは、文化祭のあれは例外だったんだろうと思っていた。


 高二になって、その「例外」が日常に染み出してきた。


 最初に気づいたのは、帰りの時間だ。

 以前は部活もないから五時前には帰ってきていたのに、六時を過ぎることが増えた。

 「新聞の作業」とか「打ち合わせ」とか言っていたけれど、兄ちゃんの口からそういう具体的な単語が出ること自体が珍しかった。


 次に気づいたのは、スマホだ。

 リビングにいても、通知が鳴るとすぐ画面を確認するようになった。

 以前は返信すら翌日に回すタイプだったのに。


 表情も変わった。

 帰ってきたときの顔が、「疲れた」じゃなくて「使い切った」みたいな顔になっていた。

 同じ疲労でも、中身が違う。


 ◇


 高三になって、変化はもっとはっきりした。


 朝、起きるのが早くなった。


 リビングのテーブルに、使い込まれた単語帳が置きっぱなしになるようになった。

 表紙がボロボロで、角が丸くなっている。

 あれは前からあったものじゃない。新しく買って、一ヶ月で使い潰したやつだ。


 夕飯のとき、お母さんが「湊、最近頑張ってるね」と言ったら、兄ちゃんは「普通だよ」と返していた。

 でも、目が下を向いていなかった。

 いつもの省エネの目じゃなくて、ちゃんと前を見ている目だった。


 ——今も、隣の部屋のシャーペンの音が途切れない。


 わたしはスマホを枕元に置いて、起き上がった。

 冷蔵庫に麦茶を取りに行くついでに、兄ちゃんの部屋に寄ってみよう。


 廊下に出ると、兄ちゃんの部屋のドアの下から、デスクライトの光が漏れている。


 ノックは省略。兄妹にプライバシーなんてない。


「兄ちゃん、麦茶いる?」


 ドアを開けると、兄ちゃんは机に向かっていた。

 参考書が三冊開きっぱなしで、ノートにびっしり計算式が並んでいる。

 シャーペンを止めて、振り返った。


「……ああ、ありがと」


 その声が、ちょっとかすれていた。

 何時間しゃべってないんだろう、この人。


 コップを渡して、兄ちゃんが飲んでいる間に、わたしは何気なく机の上を見た。


 ——あれ。


 参考書のタイトルが、前に見たときと違う。


 前は「基礎からの〜」みたいなやつだった気がする。

 今、机に載っているのは、表紙のデザインからして違う。

 たぶん、もう一段上のレベルのやつだ。


 そして、その奥。パソコンの画面。


 スリープに入りかけていたモニターが、兄ちゃんが机を揺らした拍子にぱっと点いた。


 ブラウザのタブが、ずらっと並んでいた。


 大学の名前。キャンパスの写真。偏差値の一覧表。路線図。

 タブの数が、六つか七つ。全部、同じエリアの大学だった。


 わたしは、その大学の名前に見覚えがあった。


 ——桜井さんの志望校。


 前に兄ちゃんが家で進路の話をしたとき、さらっと出てきた名前だ。

 「クラスメイトが目指してるところ」として。

 わたしが覚えているのは、兄ちゃんがその名前を口にしたときだけ、声のトーンが微妙に変わったから。


 で、今。兄ちゃんのパソコンに並んでいるのは、その大学の「周辺の大学」ばっかりだ。


 その中で一つだけ、桜井さんの志望校そのもののタブがある。

 学部紹介のページが開いている。


「……兄ちゃん」


「ん?」


「志望校、変えた?」


 兄ちゃんの手が、コップを持ったまま止まった。


「……なんで」


「パソコン、丸見えだけど」


 兄ちゃんが振り返って、画面を見て、「あ」と小さく声を漏らした。

 慌ててスリープにしようとして、マウスがずれて別のタブを開いてしまい、余計に大学のページが表示される。


「……見るなよ」


「見せてるのそっちじゃん」


 兄ちゃんは観念したように、椅子の背もたれに体を預けた。

 コップの麦茶を、一口。


「……ちょっと、目標を上げた。それだけだよ」


「ふうん」


 わたしは、兄ちゃんのベッドの端に腰を下ろした。


「ちょっと、っていうレベルじゃなくない? 前は『家から通える国公立』とか言ってたよね」


「……」


「今のタブ、全部都内じゃん。しかも一つ、桜井さんと同じとこあったけど」


 兄ちゃんは、麦茶のコップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。


 エアコンの音だけが、部屋を満たしている。


「兄ちゃんさ」


 わたしは、膝の上で手を組んだ。


「そこ目指すのって、やっぱり桜井さんに合わせるため?」


 直球。

 回りくどいのは、わたしの趣味じゃない。


 兄ちゃんは、コップの中の麦茶をじっと見つめていた。


 五秒。十秒。


 返事がないから「図星でしょ」と追い打ちをかけようとしたとき、兄ちゃんが口を開いた。


「……わからない」


 声が、さっきよりも低い。


「桜井さんに合わせてるつもりは、たぶんない。でも——」


 そこで一度、言葉が切れた。

 コップを机に戻して、ノートの端を指でなぞる。


「隣にいても恥ずかしくない自分になりたいんだ」


 わたしは、一瞬、息を止めた。


 兄ちゃんが——あの「何もしなくていい」が口癖だった兄ちゃんが——「隣にいたい」なんて言葉を、使った。


 恥ずかしくない自分。

 それはつまり、今の自分じゃ恥ずかしいって思ってるってことで。

 その「恥ずかしい」の基準に、桜井さんがいるってことで。


「……それって」


「見てるだけじゃ、届かないものもあるから」


 兄ちゃんは、パソコンの画面に視線を戻した。

 スリープに入った黒い画面に、デスクライトの光がぼんやり反射している。


「去年までは、それでいいと思ってた。遠くから見てるだけで。

 でも——」


 兄ちゃんの横顔は、デスクライトの明かりで半分だけ照らされていた。

 影になっている側の表情は見えない。

 でも、口元が少しだけ引き結ばれているのは分かった。


「同じ場所に立てなかったら、見えなくなるものがある気がして」


 ——なに言ってんの、この人。


 胸の奥が、ぎゅっと詰まった。

 泣きそう、とかじゃない。たぶん違う。

 ただ、兄ちゃんがこんなこと言う人になったんだ、っていう事実が、思ったより重かった。


 見てるだけじゃ届かない。

 同じ場所に立ちたい。


 高一の兄ちゃんは、絶対にそんなこと言わなかった。

 「目立たないのが正義」で、「期待されない位置が一番楽」で、何も始めないことで何も失わないようにしていた人が。


 今、自分から届こうとしている。


 誰かの隣に立つために、机に向かっている。


 ——主役のセリフじゃん、それ。いつから兄ちゃん、そういうこと言う人になったの。


「……なに黙ってんの」


 兄ちゃんが、居心地悪そうにこっちを見た。


「まいが黙ってると逆に怖いんだけど」


「べ、別に黙ってないし」


 声が裏返った。最悪だ。


「……ただ、その」


 立ち上がって、ドアのほうに向かう。

 振り返らない。振り返ったら、たぶん顔がおかしいことになってるから。


「がんばんなよ、兄ちゃん」


 それだけ言って、ドアを閉めた。


 自分の部屋に戻って、ベッドにダイブする。枕に顔を埋めて、両足をバタバタさせた。


 ——なんでわたしが照れてるの。意味わかんない。


 枕から顔を上げて、天井を見た。


 隣の部屋から、またシャーペンの音が聞こえてくる。

 規則正しくて、静かで、でも止まらない音。


 兄ちゃんは変わった。


 高一のときは、あの部屋からは何の音もしなかった。漫画をめくる音くらい。

 高二で、キーボードを叩く音が混ざるようになった。誰かとメッセージを打ってるみたいな、不規則なリズム。

 高三の今は、シャーペンの音がずっと続いてる。


 変えたのは、たぶん桜井さんだ。


 わたしは桜井さんのことをよく知らない。

 文化祭で会ったときの、柔らかい笑顔と、丁寧な挨拶。

 初詣で一緒におみくじを引いたときの、楽しそうな横顔。

 プールで会ったときの、日傘の下から兄ちゃんが世話を焼く姿を見て「いいね」って笑った声。


 それくらいしか知らない。


 でも、あの人が兄ちゃんの世界を変えたことだけは、隣の部屋のシャーペンの音が証明している。


 ——わたしも、がんばろ。


 自分の机の上に積んである、まだ手をつけていない夏期講習のテキストが目に入った。

 高校受験まで、あと半年ちょっと。


 兄ちゃんみたいに、理由のある勉強ができたら、もうちょっと頑張れるのかな。


 わたしにはまだ、そういう「理由」はない。

 でも、隣の部屋で誰かのために机に向かってる人がいるなら——まあ、もうちょっとだけ、やってみてもいいかもしれない。


 枕元のスマホを手に取って、タイムラインを閉じた。

 代わりに、英単語アプリを開く。


 隣の部屋の音に合わせるみたいに、指を動かし始めた。


 兄ちゃんと桜井さんを繋いでいる糸は、わたしには見えない。

 でも、確かにそこにある。


 透明で、細くて、たぶん本人たちも気づいていないくらいの——そういう糸が。


 いつかちゃんと見えるようになったとき、わたしは「やっぱりね。おめでとう」って言ってやるつもりだ。


 ——でも、それはもうちょっとだけ、先の話。

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