第81話 会話のいらない距離と、数え始めた残り時間
八月の教室は、エアコンが効きすぎて少し寒いくらいだった。
午前中の夏期講習が終わり、大半の生徒が帰ったあとの講習棟は静かだ。
廊下の向こうから、運動部の掛け声がかすかに聞こえてくるだけで、この階にはもう僕たちしかいない。
夏休みに入って二週間。
四人で講習後にそのまま残って勉強する、というのが定着していた。
言い出したのは佐伯だった。
「得意科目を教え合ったほうが効率がいい。教室は午後も開放してるから、場所には困らない」というのが佐伯の理屈で、西村の「一人で家に帰ると昼寝しちゃうから監視がほしい」というのが本音だった。
机を四つくっつけて、向かい合う形で座る。
僕の正面に西村、斜め向かいに佐伯。そして、隣に桜井。
この配置も、もう三回目だ。
一回目に何となくこう座って、二回目も同じで、三回目にはもう誰も確認しなくなった。
講習が終わったのは、十二時ちょっと前。
机で各々、持ってきたパンやおにぎりをかじって、空腹だけをごまかして勉強に取り掛かる。
蝉の声が窓の外から降ってくる。
シャーペンの芯が紙を引っ掻く音が、冷えた空気の中で妙に響いた。
◇
英語の長文を三題解き終えたあたりで、僕は数学に切り替えた。
解き進めていた問題で、途中式の展開が噛み合わない。
ノートの三行目を睨んだまま、手が止まった。
隣では、桜井が古文の問題集と格闘していた。
たまにシャーペンで頬を掻きながら、ページをめくっている。
ふと、桜井の左手が宙に伸びた。
視線は問題集に落ちたまま。手だけが、僕のほうに差し出されている。
指先が軽く開いて、何かを待つような形をしていた。
書き損じ……かな。
僕は手元の消しゴムを取って、その手に載せた。
視線は自分のノートに向けたまま。
桜井は受け取ると、問題集の横に書いていた書き込みをしゅっと消して、消しゴムを僕の机の端に戻した。
僕はそれをペンケースの横に置く。
また、しばらく静寂が続いた。
数学に戻る。三行目の式をもう一度追うが、やっぱり合わない。
どこかで符号を間違えている気がするのに、場所が見つからない。
——隣の気配が動いた。
桜井が顔を上げて、僕のノートをちらっと覗き込んだ。
二秒、いや一秒くらい。それだけ見て、指先がすっと伸びてきて、三行目の一箇所をトンと叩いた。
それだけだった。
桜井はすぐに自分の古文に視線を戻した。
指で示された箇所を見直す。符号が——逆だ。
「……あ、そっか」
書き直すと、そこから先がするすると繋がった。
「……ねえ」
向かいから、西村の声がした。
顔を上げると、西村がシャーペンを止めたまま、こっちを凝視していた。
隣の佐伯も、手帳に書き込んでいた手を止めている。
「今の、会話ゼロで成立したの怖すぎない?」
「え? 何が?」
桜井が、きょとんとした顔で顔を上げた。
「何がじゃないよ! 消しゴムのやつ! あと今の!
すみれ、湊のノート一瞬見ただけだよね? なんでそれで分かるの?」
「え、だって安藤くんずっと同じところ見てたから。
手が止まるときって、だいたい計算ミスなの」
「だいたい、で当たるんだ……」
西村がシャーペンを机に置いて、両手で頭を抱えた。
「……ラグなしだね、完全に」
佐伯が、感情の読みにくい声で言った。
「ていうかさ、消しゴムのほうがやばくない?
すみれ、顔も上げないで手だけ出したよね。
なのに湊、迷いゼロで渡したよね。目も合わせてないよね?」
「……隣にいたら分かるよ。手の動きで」
僕は自分で言ってから、それが普通の感覚ではないかもしれないことに気づいた。
桜井も少し首を傾げて、
「わたしも、安藤くんの手が止まる癖、もう分かるし」
と、何でもないことのように言った。
「分かるし、じゃないの」
西村の声が裏返った。
「……データとして面白い。条件が揃うとここまで噛み合うんだ」
「凛ちゃん、分析しないで……」
桜井が頬を膨らませたが、佐伯は手帳の隅に何かを書き込んでいた。
何を記録しているのかは、知らないほうがいい。
◇
一時間ちょっと集中したところで、西村が机に突っ伏した。
「限界。休憩。アイス」
「もうちょっとで大問一つ終わるんだけど」
「サエ、人間にはガソリン補給が必要なの。わたしのタンクはもう空」
「……仕方ないね。十五分」
佐伯が手帳を閉じた。
「購買まだ開いてるよね? アイス買ってくる! 注文どうぞ!」
「カップのバニラ」
「チョコバー」
「僕はカップの抹茶で」
「了解! わたしはソーダバー! ちょっと待ってて!」
西村が財布を掴んで教室を飛び出していった。
七月の終業式の日に言い出した「アイス買って帰ろう」は、いつの間にか勉強会の休憩の定番になっていた。
講習期間中は購買が14時まで開いていて、夏場はアイスの品揃えが増える。
西村が毎回嬉々として買い出しに走るのも、もう恒例だった。
五分もしないうちに、西村がビニール袋を揺らしながら戻ってきた。
「はい、配給タイム! すみれカップのバニラ、サエはチョコバー、湊は抹茶ね」
西村にお金を渡し、各自にアイスが行き渡る。
西村本人はいつの間にか棒付きアイスを口にくわえていた。
受け取ったアイスの蓋を開けると、買ったばかりなのに表面だけがうっすら柔らかい。
教室と購買を往復する間に、八月の廊下が仕事をしたらしい。
エアコンの風を浴びながら、アイスを食べる。
こんな夏の午後に、四人で勉強して、購買のアイスを食べる時間。
たぶん受験が終わったら、真っ先に忘れるような日常だ。
なのに、この瞬間だけやたらと鮮明に感じるのは——暑さのせいだと思っておく。
「これ美味しい。……ねえ安藤くん、食べる?」
桜井がスプーンでバニラをすくって、差し出しかけて——止まった。
スプーンの先に、バニラアイスがちょこんと乗っている。
桜井が使っていた、桜井のスプーンだ。
「……あ」
桜井の動きが、中途半端な位置で固まった。
差し出すでもなく、引っ込めるでもなく。
宙に浮いたスプーンの上で、バニラアイスが少しだけ傾いた。
僕も、動けなかった。
二人で、スプーンを見つめている。
沈黙。
エアコンの送風音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……どうすんのそれ」
西村の声が、ニヤニヤを隠す気のないトーンで割り込んできた。
桜井の耳が赤くなった。
「わ、わたしのスプーンだった……!」
慌ててスプーンを引っ込めようとした桜井に、僕は自分のカップを差し出した。
「……こっちに入れてくれれば」
考えたわけじゃなかった。
スプーンの上のアイスが落ちそうだったから、受け皿を出しただけだ。
桜井が、引っ込めかけた手を止めた。
「……え?」
「スプーンそのままでいいから。僕のカップに乗せてくれれば、食べられるし」
合理的な解決策だ。
間接キスの問題は回避されるし、アイスも落ちない。
完璧だと思った。
「……それ、解決してるようで全然してないからね」
西村が、アイスの棒を咥えたまま、指をこちらに向けた。
「むしろ悪化してる」
佐伯が短く追撃した。
何がどう悪化しているのか、僕にはよく分からなかった。
桜井は何か言いたそうにもごもごしていたが、結局スプーンですくったバニラアイスを、僕の抹茶カップの上にちょん、と乗せた。
抹茶の緑の上に、白いバニラが溶けながら広がっていく。
「……どうぞ」
桜井の声が、いつもより半音高い。
視線はアイスに落ちたまま、こちらを見ない。
「ありがとう」
僕はそのまま自分のスプーンですくって、食べた。
抹茶とバニラが混ざって、少し不思議な味がする。
「……おいしいよ」
「……そ、そう。よかった」
桜井がようやく椅子に座り直した。
まだ耳の赤いのが治っていない。
「ねー、サエ。あの二人に人間の羞恥心は実装されてるの?」
「……片方には実装されてるみたいだよ。片方は初期設定のままだね」
「初期設定って、安藤くんのこと言ってる?」
「誰のこととは言ってない」
佐伯がチョコバーを一口齧って、視線を窓の外に逃がした。
その横で、西村がアイスの棒をくるくる回しながら、ふいに声のトーンを変えた。
「あーあ。この光景もあと半年か」
軽い調子だった。
エアコンの効いた教室に似合う、何気ない一言。
「契約満了、だっけ?」
桜井の手が、一瞬だけ止まった。
僕もスプーンを握ったまま、動けなかった。
「……数字にすると、残り約百八十日」
佐伯が、窓の外を見たまま言った。
「やめてよ、急にリアルにしないで」
西村が自分で振った話題なのに、眉を下げた。
「百八十日もあるじゃん。まだまだだよ」
桜井が笑った。いつもの声だった。
でも、スプーンの動きが、さっきよりぎこちないように見えた。
エアコンの風が桜井の前髪を揺らす。
そのたびに、彼女の表情が一瞬だけ影になって、読めなくなる。
百八十日。
数えたことは、なかった。
卒業まであと何日か、なんて、僕はこれまで考えたことがなかった。
この四人でいられる時間には終わりがあって、そのカウントダウンはとっくに始まっていて——頭では分かっていたはずなのに。
今日、初めてそれが、現実として迫っているのを感じた。
「……溶けるよ、桜井さん」
僕は、桜井のカップを指した。
バニラアイスが、縁からゆっくりと崩れかけている。
「あっ、やば」
桜井が慌ててスプーンを動かした。
日常が、戻ってくる。
西村がまた何か軽口を叩いて、佐伯が短く返して、桜井が笑って。
同じ午後の、同じ教室の、同じ四人。
◇
帰り道は、四人並んで歩いた。
教室を出ると、八月の空気が壁みたいにぶつかってくる。
教室との温度差に、一瞬だけ息が詰まった。
西村と佐伯が少し先を歩いている。
西村が佐伯の腕を引っ張って何か話しかけて、佐伯が迷惑そうな顔をしつつ振り払わない。いつもの光景だ。
その少し後ろを、僕と桜井が並んで歩いていた。
影が短い。真上から落ちてくる陽射しが、アスファルトを白く焼いている。
桜井がふと、呟いた。
「来年の夏って、みんなどこにいるんだろうね」
独り言みたいな声だった。
答えを求めていない、考えるために口に出しただけの音。
西村と佐伯は少し先を歩いていて、聞こえていなかったと思う。
僕は何も言えなかった。
百八十日。
受験が終わるまでの日数じゃなくて、この距離にいられる日数。
そう換算した瞬間、足元のアスファルトの照り返しが、さっきより少しだけ眩しく見えた。




