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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第80話 触れそうな距離と、「覚えてるよ」

 梅雨が明けた七月の教室は、空気が重い。


 蝉はまだ本調子じゃないけれど、窓の外の陽射しだけは真夏を先取りしている。


 期末テストが終わって三日。


 成績表の配布と終業式を残すだけになった放課後は、妙にぽっかりと時間が空いていた。


 僕は窓際の最後列で、机の上にファイルを広げていた。


 クリアファイルの中身は、去年一年間で作った学級新聞のバックナンバーと、スマホから印刷した写真の束。


 卒業文集の素材整理。

 今日はその第一回目だった。


「はい、全員集合ー! 文集の素材出し、始めまーす」


 西村が両手を叩いて号令をかけた。

 窓際まで響く声量は健在だ。


「始めます、じゃなくて確認だけだよ。今日は」


 佐伯が手帳を開きながら訂正する。


「いいじゃん、気分は本番!」


「気分で進めると後から巻き返しが大変になるけどね」


「サエ、冷た〜い」


 いつものやりとりを聞きながら、僕はファイルを並べていく。

 去年の五月号から始まって、六月号、体育祭号外、文化祭号、修学旅行号、十二月号、学年末号——。高二の一年間で作った新聞が全部ここにある。


 佐伯が毎号、印刷した当日にファイリングしてきたものだ。

 こういうところの几帳面さに、何度助けられたか分からない。


「すごいね、並べると圧がある……」


 桜井が僕の左隣に椅子を寄せてきた。


 自分の席からわざわざ移動してくるのは、もう何も言わなくても分かっている。

 この配置が一番作業しやすいから。

 理由はそれだけのはずだ。


 ただ、椅子を引く距離が、いつもより少しだけ近い気がした。


(……ノート一冊分もない)


 肘が触れそうで触れない距離。

 桜井のシャンプーの匂いがかすかに届く範囲。


 気にしたら負けだ。気にしていない。


「じゃあ今日は、この中から文集に使えそうな写真と記事をピックアップしていこう」


 桜井がそう言って、最初のファイルを開いた。


「佐伯さん、候補のリストある?」


「ある。号ごとに反応が良かった記事と写真に印つけてある」


 佐伯が手帳のページを開いた。

 日付と写真番号と丸印がびっしり書き込まれている。


「サエのノート、相変わらず情報量おかしいね」


「必要な分だけだよ」


 僕の役回りは、佐伯のリストと実際の写真を突き合わせて、プリントの裏にどの号のどの写真かを書き出していく係だ。

 地味だけど、誰かがやらないとあとで迷子になる。


 ◇


 作業は思ったよりスムーズだった。


 佐伯がリストで候補を絞り、西村が「これ、面白かったやつ!」と記憶ベースで引っ張り出し、桜井が紙面の文脈を確認する。


 五月号を見返しているとき、西村が声を上げた。


「あっ、五月号の湊の二択アンケート! 懐かしー! これさ、新聞の方向性が決まったきっかけだよね」


「大げさだよ……ただの二択だし」


「いやいや、あのアンケートがなかったら最初の号あんなに反応よくなかったって。ね、すみれ」


「うん。あの号で『読んでもらえるんだ』って手応えがあったんだよね」


 桜井が少し懐かしそうに目を細めた。


「安藤くん、あのとき教室の空気読んで二択にしたんだよね。回答のハードルを下げるって」


「……覚えてるんだ、そんなこと」


「覚えてるよ。全部」


 最後の二文字に力がこもっていた気がしたけれど、深追いはしない。


 ファイルを一枚ずつめくっていく。

 見覚えのある紙面と写真が順番に出てくるたびに、教室の空気が少しずつ柔らかくなっていく。一年間の記録が、そのまま四人の共有メモリみたいだ。


 文化祭号で、西村が腕を組んだ。


「この写真、すごくいいんだけど文集にはちょっと暗いかな……」


「カメラの設定で、ちょっと光が足りなかったかも」


「撮り直せないもんね、一年前だし」


「タイムマシンがあれば撮り直しに行くんだけど」


「安藤くんはタイムマシンがあっても写真を撮りに行くだけなんだ……」


「……他に何に使うの?」


「ふふ。安藤くんらしい」


 桜井が笑って、次のファイルに手を伸ばした。

 その指先が、僕の手の甲をかすめた。


 一瞬のことだ。

 触れたのか触れていないのか、判別がつかないくらいの。


 桜井はファイルを引き寄せながら、何事もなかったように次のページを開いた。


 西村がこちらを見ていた。

 にやにや、という擬態語がそのまま顔に貼り付いたような表情をしている。


「千夏。何?」


「何も〜。二人の手が近いな〜って」


「作業してるだけだよ」


「作業ね〜」


 西村の声は、前にもどこかで聞いたのと同じトーンだった。信じてません、が全身から滲んでいる。


 佐伯は視線を手帳に落としたまま、口を開かなかった。

 ただ、ペン先が手帳の隅に何か小さく書き込んでいるのが見えた。

 何を書いたのかは分からない。分からないほうがいい気がする。


 そんなやりとりをしていたら、体育祭の号外に辿り着いた。


 A4一枚のモノクロ印刷。

 端が少し黄ばみかけていて、一年という時間の手触りがそこにあった。


 佐伯がファイルから号外を抜き取り、机の真ん中に置いた。


「体育祭速報、号外」


 四人の視線が、一枚の紙に集まる。


 見出しの横に、あの写真が載っていた。


 泥だらけの手。

 くしゃくしゃの質問カード。

 回収箱の『回収』の文字が、ぎりぎりで見切れている。


 爪の隙間に入り込んだ砂の粒まで写っているその一枚は、一年経っても鮮明だった。


「この写真、やっぱり強いね」


 佐伯が短く言った。


「一枚で文脈が出る。文集にも使いたい」


「うんうん、泥の手は殿堂入りでしょ!」


 西村が頷く。


 僕はその写真を見つめた。

 あの日、テント裏で偶然シャッターを切った一枚。

 構図も計算もなく、ただ「地味だけど」と思って反射的に撮っただけのカット。


 それが号外の中心に収まって、クラスメイトの反応を変えた。


「……これ」


 桜井の声だった。


 僕の隣で、桜井が号外に視線を落としていた。

 さっきまでファイルをめくっていたテンポが、ぴたりと止まっている。


「安藤くんにしか撮れなかった写真だよね、これ」


 声が静かだった。

 さっきの軽口とは、温度が違う。


 桜井の指が、号外の写真の端にそっと触れた。

 触れるというより、なぞるに近い。

 紙面の凹凸を確かめるような動きだった。


 佐伯が視線を上げた。

 西村も、にやにやを引っ込めて桜井を見ている。


「……安藤くんは、こういう写真を撮るんだよね。ずっと前から」


 桜井はそう言って、少しだけ息を吸った。


「目立たないものを、目立たないまま、ちゃんと残す写真」


 その言い方が、写真の話だけをしているようには聞こえなかった。

 少なくとも、僕にはそう聞こえた。


 桜井の視線が、写真の上で止まったまま動かない。

 まばたきの間隔が、ほんの少しだけ長くなっている。


 何かを思い出しているのだと、僕は思った。

 何を思い出しているのかは、分からない。


 でも、そこには日常の隙間に落ちるものとは違う、厚みのある間があった。


「……どうかした?」


 僕は、できるだけ軽い声で聞いた。


 桜井が顔を上げた。


「ううん。ただ、いい写真だなって」


 笑顔だった。

 いつもの、丁寧で穏やかな笑顔。


 でも、目の奥にさっきまであった何かは、笑顔の形では隠しきれていなかった。


「……文集に載せよう、これ。ね、凛ちゃん」


「異論なし」


「決まりだね! 泥の手、殿堂入り確定!」


 西村が拳を突き上げて、場の空気を元に戻した。


 作業が再開される。

 佐伯が次の候補をリストアップし、西村がそれに突っ込み、桜井が文脈を整える。

 いつものリズムが戻ってきた。


 ——ただ、僕の視界の端で、桜井の左手が号外の端をたまに触っていた。


 無意識なのだと思う。

 指先が紙の縁を行ったり来たりしている。めくるわけでもなく、離すわけでもなく。


 その仕草が気になって、作業に集中しきれなかった。


 ◇


 佐伯が「今日はここまで」と手帳を閉じたのは、五時を少し過ぎた頃だった。


「次は夏休み明け。文集のレイアウト案を叩く。

 エッセイの締切は十一月だけど、写真の選定は九月中に終わらせたい」


「了解〜。サエの計画表、また送ってね」


「もう送ってある。未読でしょ」


「ギクッ」


 西村が鞄に手を突っ込みながらわざとらしく肩をすくめた。

 佐伯は呆れた顔をしつつも、追及はしなかった。


 桜井がファイルを揃えて、クリアケースに戻していく。

 僕も写真の束をまとめて、号外をファイルに挟もうとした。


 そのとき、号外を持ち上げた拍子に、裏面が目に入った。


 白い面。何も印刷されていない、ただの裏側。


 それだけのはずなのに——紙の白さが、別の記憶を引っ張り出した。


 去年の体育祭の前日。

 僕のメモの切れ端を、桜井が「返すね」と手渡してきた。

 あの紙の裏面にあった、消し跡。


 何かを書いて、消しゴムで強く擦った痕跡。


 ——消した言葉は、読み取ってはいけない。


 あの日、僕はそう決めた。

 彼女が引いた線を、踏み越えないのが観察者のルールだと。


 今、目の前にあるのは号外の裏であってあのメモじゃない。

 紙も違うし、場所も違う。


 でも、さっき桜井が写真を見つめて動かなくなったあの間と、あの消し跡の記憶が重なった。


(あのとき、桜井は何を書こうとしたんだろう)


 初めてだった。

 その問いが、こんなにはっきりと頭の中に浮かんだのは。


 一年前は、「読み取ってはいけない」で蓋をした。

 今も、その蓋は閉まっている。閉まっているはずだ。


 ——はずなのに、蓋の隙間から、さっきの桜井の目の奥がちらついている。


「安藤くん」


 桜井の声で、思考が途切れた。


「ん?」


「号外、しまわないの?」


 桜井が、僕の手元を見ていた。

 号外を持ったまま、ファイルに挟む手が止まっていたらしい。


「……ああ、ごめん。ぼんやりしてた」


「珍しいね、安藤くんがぼんやりするの」


「たまにはするよ」


「ふうん」


 桜井は小さく首を傾げて、それ以上は聞かなかった。


 号外をファイルに挟む。

 紙がクリアポケットに収まる音が、やけに乾いて響いた。


「じゃ、帰ろっか! 夏休み前の打ち上げ、アイス買って帰らない?」


 西村の声が、教室のドアの前から飛んできた。


「打ち上げって……まだ終業式前だけど」


「気分気分! 受験生の夏の前に糖分は正義!」


「一理ある」


 佐伯が手帳をしまいながら、珍しく即答した。


「サエがノった! じゃあ全員賛成ね、行こ行こ!」


 西村が先頭を切って廊下に出る。佐伯がそれに続き、桜井が鞄を肩にかけて立ち上がった。


 僕も立ち上がろうとして——ふと、机の上を見た。


 ファイルは閉じてある。写真も手帳もしまった。

 机の上には、もう何も残っていない。


 なのに、さっき桜井の指が号外の端をなぞっていた場所だけが、まだ温度を持っているような気がした。


「安藤くん、置いてくよー?」


 桜井がドアの前で振り返っていた。

 夕日が廊下の奥から差し込んで、桜井の横顔を橙色に染めている。


「……今行く」


 僕は鞄を肩にかけて、教室を出た。


 廊下を歩く四人の影が、窓ガラスに長く伸びている。

 西村の笑い声と、佐伯の短い相槌と、桜井の穏やかな声。


 その中に混ざりながら、僕はひとつだけ考えていた。


 号外の裏の白さが引っ張り出した、一年前の消し跡。

 あのメモの余白に残っていた、読み取れなかった文字の痕跡。

 そして、さっき桜井が写真の前で見せた、あの長い間。


 三つの断片が、まだ繋がらないまま、頭の隅で静かに光っている。

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