第8話 二人きりの自販機前
期末テスト最終日のチャイムは、いつもより音が軽く聞こえた。
「はい、答案回収して終わりなー。机の上に出して、前の席から集めてくれ」
中村先生の声も、少しだけ力が抜けたように聞こえた。
教室のあちこちで、一斉にため息が落ちた。
「終わった……」
「問三、あれ何……?」
「英語の長文、時間足りなさすぎじゃない?」
テストが返ってくる前だというのに、すでに「被害者の会」がいくつも発足している。
(……このタイミングで答え合わせ始めるタイプの人たち、ほんとすごいと思う)
僕は答案を前に回してから、机の上に散らばった筆記用具をカバンにねじ込み、そっと席を立った。
今「ここ、何て書いた?」って聞かれても、
正直、もう二度と問題文と向き合いたくない。
そういうタイプも、この教室には一定数いる。
◇
廊下に出ると、さっきまでのざわざわが嘘みたいに静かになった。
教室に残っているのは、答案の感想戦を続けている組と、
帰り支度をもたもたしている数人くらい。
廊下を歩きながら、自分の喉の渇きに気づく。
(……なんか、妙に口の中カラカラだな)
テスト中、集中してるつもりで案外力が入っていたらしい。
校舎の一階、体育館へ続く渡り廊下の途中に、自販機コーナーがある。
放課後は部活組で混み合う場所だけど、今の時間ならまだそこまでじゃないはずだ。
階段を降りて、曲がり角を曲がる。
自販機の前に、先客が一人いた。
壁にもたれかかって、スポーツドリンクのペットボトルを両手で持っている背中。
(……あ)
桜井だった。
いつもより少しラフに見えるのは、きっとテスト明けで力が抜けているせいだ。
ペットボトルは半分くらい減っていて、ラベルのところに指の跡がくっきり残っている。
自販機の周りには、他に人はいない。
渡り廊下の窓から、グラウンドの土の匂いと、遠くの部活の掛け声だけがかすかに届いていた。
「……おつかれ」
自然と、声が出た。
桜井が、ゆっくり顔を上げる。
「あ、安藤くん」
テスト前のきりっとした顔でも、
教室の中心モードの明るい笑顔でもなくて。
単純に「疲れた高校生」の表情だった。
ちょっとおもしろくて、ちょっと安心する。
「テストおつかれ。
エッセイ的には、今週は“テストの愚痴特集”?」
自販機に小銭を入れながら、なんとなくそう振ってみる。
桜井は「愚痴特集」という単語に、かすかに口元をゆるめた。
「それもいいけどさ」
ペットボトルを持ち上げて、一口飲む。
「“誰も見てないのにノートめちゃくちゃ綺麗な人特集”も捨てがたいんだよね」
「ピンポイントだな」
「今日のテスト週間、ずっと観察してたからね」
さらっと言う。
僕は、思わず苦笑いしながら口を開いた。
「“誰も見てないのに”って言うけど、少なくとも一人はがっつり見てたわけで。
観察係の上位互換みたいなこと言わないでくれる?」
「いやいや、観察係は“教室全体を見る係”でしょ。
こっちは“ノートの上だけ見てる係”だから、担当分野が違う」
そんな分担あった覚えないんだけど。
「具体的には?」
「具体的にはね……」
桜井は、ペットボトルのキャップを指でいじりながら、少し目を細めた。
「毎時間ちゃんと板書写してるのに、先生が一回も褒めたことない子とか。
テスト返却の日だけ、“もっと発言しろよ〜”って言われるタイプの人とか」
「ああ……」
なんとなく、心当たりはある。
真ん中の席からは見えない角度で、黙々とノートを埋めているやつら。
「そういう人のノートってさ、たまに覗くとめちゃくちゃ綺麗なんだよね。
線の引き方とか、色分けとか。
もはや先生の板書より読みやすいレベルで」
「……そういうのちゃんと見てるあたり、桜井さんっぽい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。多分」
桜井は、ペットボトルのラベルを指でなぞりながら、小さく笑った。
「なんかさ、自分のほうには勝手に目が集まること多いからさ、
だから余計、ああいう“誰も気づいてない努力”見ると、ちょっと得した気分になるんだよね。
“ここ、本当はすごいんだけどな〜”って」
「勝手に裏で表彰してるタイプ?」
「そうそう。心の中だけ表彰式。
“テスト前だからって、急に見られるようになった人”じゃなくてさ、
“最初からちゃんとやってた人”に“よく頑張りました”ってシール貼ってる感じ」
「人気者も大変ですね」
「ほんとだよ。こっちも人間なんだけどなあ」
と、大げさに肩を落としてみせる。
さっきまでぐったりしていたのと同じポーズなのに、
演技と地続きになっていて、なんだかおかしい。
◇
僕のスポーツドリンクが、自販機からごとんと落ちてきた。
取り出し口からそれを取りながら、ふと聞いてみる。
「テストの愚痴特集は、しないの?」
「しようと思えばいくらでも書けるけどね。
“なぜ問三は、解けなかった人の心をえぐるような配点をしてくるのか”とか」
「それは読者の傷をえぐるやつでは」
「だから、やるとしてもだいぶマイルドにするかな」
桜井は、キャップを閉めながら続けた。
「愚痴特集書くとしたら、“テスト中、謎のタイミングでトイレに立ちたくなる人たち”とか」
「いるな、それ」
「“終了五分前になって急に問題の意味が分かり始める人たち”とか」
「それはただの追い込みでは」
「“見直ししようとして、どこを見直せばいいか分からない人たち”も好き」
「分かりみが深すぎて笑えないんだけど」
自分のことを言われている気しかしない。
桜井は、そんな僕の顔をちらっと見て、にやっと笑った。
「でもね、そういう“中身の愚痴”よりもさ」
「うん?」
「“テスト終わった瞬間に答え合わせ始める人種”と、
“二度と問題見たくない人種”の温度差のほうが、書いてて楽しいかもしれない」
さっき教室で見た光景が、そのまま言葉になっている。
「前者は、さっきの大木くんたちで」
「後者は?」
「ここにいる人たち」
そう言って、自分の胸と、僕のほうを交互に指さした。
「……バレてたか」
「観察係が、テスト終わった瞬間に一番早く筆記用具しまってたからね」
桜井は、いたずらっぽく笑って続けた。
「周りが“答え合わせしよ!”ってなってる中で、安藤くんだけ“頼むから俺に話しかけるなオーラ”全開だったもん」
「……うわ、恥ずかしい」
「ふふ。でも、気持ちはすごい分かった。私もそっち側に行きたかったから」
「見てたなら止めてくれよ」
「やだよ。同士がいるって思ったら、ちょっと救われたんだから」
「救われたなら、助け舟くらい出してくれてもよくない?」
「それはそれ。必死すぎて面白かったから、つい見ちゃった」
「ひどい扱いだな」
口ではそう言いながらも、どこかで少しだけ救われている自分がいた。
テストの出来そのものは、正直自信ない。
でも、今こうやってネタにされている分には、まだ笑っていられる。
◇
「……にしてもさ」
桜井が、ふと真顔で空を見上げた。
渡り廊下の窓から見える空は、雲一つない青だった。
「テスト終わった瞬間って、“解放された〜!”っていうより、まず“燃え尽きた……”なんだよね」
「スポドリじゃ回復しきらないタイプの疲れ?」
「そうそう。心のスタミナゲージが赤のまま」
ペットボトルを軽く振って、中身を確認する。
「エッセイ的にはさ。
“終わった瞬間の教室”も書きたいし、
“こうやって自販機前でぐったりしてる自分”も、ちょっとネタにしたい気持ちはあるんだけど」
「自分のこともちゃんと書きたいって言ってたもんな」
「言ってた。……言ってたよね、屋上で」
屋上の夕焼けが、一瞬だけフラッシュバックした。
【主役にされる側のしんどさ】を、ちゃんと書きたいって言っていたあの横顔。
「でもさ」
桜井は、ペットボトルのふちを指でなぞりながら続けた。
「“テスト後に自販機前でぐったりしてる人気者”って、そのまま書いたらだいぶダサいじゃん」
「正直否定はできない」
「だから、“その場にたまたま居合わせた観察係とくだらない話をしてた”ってところまでセットで書きたいなって」
「だいぶピンポイントな条件付けてきたな」
「セット売りのほうが、お得感あるでしょ」
「誰にとってのお得なんだよ、それ」
とは言いつつ、心のどこかで「たしかに」と思ってしまった。
自販機前でぐったりしている桜井一人だけの絵よりも、
隣でスポーツドリンクを持ってくだらない会話をしている自分も一緒にいるほうが、
なんとなく、救われる感じがある。
主役側の疲れも、
モブ側の疲れも、
同じフレームの中で並んでいる感じがして。
◇
「……っていうかさ」
ふと、桜井がこっちを見た。
「安藤くん、今日わりと普通に“テストおつかれ”とか言ってきたよね」
「え、そこ?」
「いや、なんかさ。最初のころに比べると、“モブ志望です”感がちょっと薄れてきたなーって」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。多分」
多分って付けるあたりが、いかにも桜井らしい。
「モブ志望の観察係が、自販機前で人気者に“エッセイ的にはどう?”とか聞いてくるの、わりとレアだからさ」
「レアキャラ扱いされてない?」
「されてる。ノート綺麗な人特集の次くらいに、特集したいかもしれない」
「ラインナップに入れられるの、複雑だな……」
そう言いながら、自分でも気づいていた。
たぶん少しずつ、距離の取り方が変わってきていることに。
最初は、「主役側」ってラベルを貼って遠くから見ていた相手に、
テストの愚痴とか、エッセイのネタとか、
わりとどうでもいい話題で軽くツッコめるようになっている。
その事実が、スポーツドリンクよりじわっと効いてくる。
◇
「よし」
桜井が、ペットボトルの残りを一気に飲み干した。
「とりあえず、今日のところは“愚痴特集”は心の中だけにしとく」
「書かないの?」
「書いたら、またテストのこと思い出してつらくなるじゃん」
「それはたしかに」
「そのかわり、“誰も見てないのにノート綺麗な人特集”は、どこかでちゃんと書いとく」
そう言って、いたずらっぽく片目をつぶってみせる。
「そのとき、“観察係の観察メモ協力:安藤”って小さく書いとくね」
「クレジットいらないんだけど」
「そこはほら、やりがいの一部ってことで」
「やりがい搾取、自覚あるタイプのやつだよね、それ」
「うん、自覚ある」
即答だった。
◇
「じゃ、そろそろ戻るかな」
桜井が自販機横のゴミ箱に、空のペットボトルをぽいっと入れる。
「教室?」
「うん。カバン置きっぱなしだし。
このあと、クラスでちょっとだけ打ち上げするっぽくてさ」
「ああ、主役の人たちのイベントだ」
「そうそう。観察係は今日はオフでいいよ」
「そもそも招集かかってないけどね」
そんなことを言い合いながら、渡り廊下を並んで歩く。
階段の前で、自然と足が止まった。
「じゃ、ここで解散かな。
安藤くんは、そのまま帰る?」
「うん。一回家に倒れたいタイプなので」
「分かる。わたしも本音はそれ」
桜井は、少しだけ肩をすくめて笑った。
「じゃ、また月曜。
“テスト明けのテンションおかしい教室”で」
そう言って、桜井は一度だけ大きく息を吸って、吐いた。
パン、と自分の頬を両手で軽く叩く。
顔を上げると、さっきまでの「疲れた高校生」の顔は消えて、「クラスの人気者・桜井さん」の笑顔に戻っていた。
「……よし。行ってきます」
まるで戦場に行く兵士みたいな言い方だった。
「おつかれ、エッセイ書き」
僕が言うと、桜井は一瞬だけ素の顔でふにゃっと笑って、それから手を振った。
「おつかれ、観察係」
短い挨拶を交わして、僕たちはそれぞれ違う方向に歩き出した。
階段を下りながら、さっきまで握っていたペットボトルの冷たさを、手のひらがまだ覚えている。
(……テスト終わった実感、ようやくちょっと湧いてきたな)
教室の真ん中で盛り上がる愚痴大会でもなく、
家で一人で布団に倒れ込むでもなく。
自販機前でスポドリ片手に、くだらない特集案を話して笑っている時間。
モブとして背景に紛れ込むはずだった僕の高校一年は、
そういう「二人きりのどうでもいい会話」を、
少しずつ、当たり前みたいに増やし始めている。
そのことを、階段を一段ずつ降りながら、
なんとなく実感したテスト最終日の午後だった。




