第79話 返品不可の言葉と、小さな相合い傘
六月の下旬。梅雨はまだ明ける気配がない。
あの日——桜井が封筒を開けずに手帳と一緒にしまった日から、一週間ほどが経っていた。
翌日の昼、議題のない打ち合わせは本当に実行された。
桜井は「文集の方向性について」という曖昧なテーマを持ってきて、僕と二人で三十分ほど話し合った。
佐伯のスケジュール表にはない、完全なイレギュラー。
議題の半分は雑談だったけれど、桜井は帰り際に「やっぱり予定入れてよかった」と小さく言った。
あのとき開かれなかった封筒の中身は、知らない。
聞いていない。
ただ、最近の桜井は笑顔の回数が少しだけ増えて、そのぶん一つひとつが浅くなった——ような気がしている。
◇
昼休み。
模試の結果が返却されたのは先週だけれど、教室ではまだその話題が尾を引いている。
三者面談を控えた六月は、否応なく数字に向き合わされる月だ。
「桜井さん、模試どうだった?」
前の席の女子が、振り返るようにして桜井に話しかけた。
隣の席にいる僕には、桜井の横顔がよく見える。
一拍だけ間を置いてから、桜井は笑った。
「まあまあかな。もうちょっと頑張らなきゃって感じ」
声のトーンは完璧だった。
明るすぎず、暗すぎず。自虐にも謙遜にも聞こえる絶妙な着地。
でも、笑うまでの間が速すぎる。
文化祭で来場者に対応していたときと同じだ。
あのときの桜井は、相手が話し終わる前に笑顔を用意していた。
僕が気づいたのは、たまたま隣にいたからだ。
他の誰かが見ていたら、ただの「いつもの桜井さん」で終わっていたと思う。
西村と佐伯は今日の昼、図書室で文集の資料整理をしている。
いつものメンバーでこの教室にいるのは、「クラスの桜井」を演じる桜井と、窓際の最後列からそれを見ている僕だけだった。
桜井は前の席の女子と二言三言交わして、自然な動作で会話を閉じた。
手元のテキストに視線を落とす。
シャーペンは動いていない。
◇
六限目の終わりのチャイムが鳴った頃には、窓の外は本格的な雨になっていた。
朝の時点では曇りだったから、傘を持ってきていない生徒もいる。
昇降口のあたりが渋滞するいつものパターンだ。
僕は折り畳み傘を鞄に入れてある。
梅雨の間はとりあえず入れっぱなしにしているだけの、消極的な備えだ。
昇降口まで降りて、上履きからスニーカーに履き替える。
折り畳み傘を取り出してから、ふと視線が止まった。
出入口の庇の下に、一人だけ立っている生徒がいた。
鞄を両手で体の前に抱えて、雨を眺めている。
桜井だった。
いつもなら西村と一緒に帰るか、誰かに声をかけて傘に入れてもらう選択肢があるはずだ。
なのに、一人で立っている。
声をかけるか、迷った。
迷っている間に、足は動いていた。
「……桜井さん」
桜井が振り向く。
目が少し見開かれた。
「傘、忘れた?」
「……うん。朝、降ってなかったから」
声が小さかった。
教室で「まあまあかな」と笑っていたときとは、周波数が違う。
僕は折り畳み傘を開いた。
黒い、何の変哲もないやつ。
「……駅まで、一緒に行こう」
桜井は二秒くらい僕の顔を見て、それから傘を見て、小さく頷いた。
「……ありがとう」
◇
校門を出て、駅までの坂道を並んで歩く。
折り畳み傘は、普通の傘よりひと回り小さい。
高校生二人が入るには窮屈で、どうしても肩が濡れる。
僕は無意識に傘を桜井のほうへ傾けていた。
桜井はそれに気づいたのか気づいていないのか、何も言わない。
雨音だけが続いた。
坂道の水たまりを避けるとき、自然と歩幅が揃う。
五十歩くらい無言で歩いたところで、桜井が口を開いた。
「……ねぇ、安藤くん」
「うん」
「私ってさ、『頑張れば大丈夫』って顔してるでしょ」
横を向くと、桜井は前を見たままだった。
濡れた坂道のアスファルトに視線を落としている。
「……うん。してる」
否定はしなかった。
嘘をつくほうが、今の桜井には不誠実だと思った。
桜井の唇が、かすかに震えた。
「……なのに、今日は頑張れなかったんだ」
声が途切れる。
「頑張り方が、分からなくなっちゃった」
雨が傘を叩く音が、一段大きくなった気がした。
実際には変わっていない。僕の中の音量が変わっただけだ。
偏差値の話をすべきじゃない、と思った。
判定の話も。対策の話も。
桜井が今欲しいのは、そういう種類の言葉じゃない。
数歩分の沈黙の間に、頭の中を一つの記憶がよぎった。
高二の五月。
学級新聞の五月号を出した直後の、教室の裏手での会話。
桜井がメモ帳を折りながら、少し困ったように笑っていた場面。
「……桜井さんってさ」
僕は前を向いたまま言った。
「書くときに、『熱が上がる』って言ってたよね。ブレーキが欲しいって」
桜井の歩みが、半歩だけ遅れた。
「……うん。言った」
少しの間。
「……なんでそれ、今?」
「ブレーキが必要なくらい走れる人って、止まったあとでもちゃんと進める人だと思う」
言葉を選びながら、一つずつ置いていく。
「……今は止まってるだけで、エンジンが壊れたわけじゃない」
傘を持つ手に力が入った。
偉そうなことを言っている自覚はある。模試の結果も知らないくせに。
でも、これだけは確信があった。
二年間、隣でこの人の文章を読んできた。
書き始めたら止まらなくなるくらいの熱量を、何度も見てきた。
桜井が立ち止まった。
僕も足を止める。
傘が傾いて、雨粒が桜井の肩口をかすめた。慌てて角度を直す。
桜井の瞬きが速くなっていた。
唇をきつく結んで、顎が微かに震えている。
目元がじわりと赤みを帯びていくのが、この距離だと分かってしまう。
「……安藤くんてさ」
声が掠れていた。
「たまに、ずるいよね」
——先週も、同じことを言われた。
「欲しい言葉だけ、ピンポイントで置いてくる」
「……観察係なので」
それしか返せなかった。
でも桜井は、その答えで十分だったみたいに、小さく息を吐いて歩き出した。
傘の中に、二人分の湿った空気が戻ってくる。
肩と肩の間は拳一つ分。
触れてはいない。
触れてはいないのに、右腕に桜井の体温がぼんやりと伝わっている。
◇
坂道を下りきる手前で、桜井が鞄の位置を直した。
そのとき、ファスナーの隙間から一冊のテキストがちらりと見えた。
古文のテキストだ。
薄いグリーンの表紙に、付箋がびっしりと貼られている。
ページの端から色とりどりの紙片がはみ出していて、テキストの厚みが倍くらいになっている。
英語や小論文に関しては、桜井は元々強い。
でも古文は——あの量の付箋は、得意な科目のものじゃない。
「……古文、苦戦してるんだね」
口をついて出た、という方が正確だ。
桜井がこちらを見た。
「……見えた?」
「ちょっとだけ」
「……恥ずかしいんだけど」
桜井は鞄のファスナーを少し引いて、テキストを隠した。
「付箋が多いのって、分からないところが多いってことだから」
「逆じゃない? 分からないところに印をつけてるなら、ちゃんと向き合ってるってことだと思うけど」
「……安藤くんの解釈、いつも優しすぎない?」
「事実を言ってるだけだよ」
桜井は少しだけ口元を緩めた。
昼休みに見せていた営業用の笑顔とは違う。
もっと不格好で、もっと近い。
◇
駅の改札をくぐって、各駅停車に乗った。
車内では傘を閉じて、ドア横のスペースに並ぶ。
お互いに何も言わなかったけれど、さっきの相合い傘の距離感がまだ残っていて、肩の間隔がいつもより狭い。
数駅で、僕たちの最寄りに着いた。
改札を出ると、雨はまだ降っていた。
ロータリーから住宅街に入るケヤキ並木の下を、また相合い傘で歩く。
桜井が、時々僕のほうをちらりと見る。
視線が合うと、すっと前に戻す。
十字路が近づいてきた。
ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。
僕は傘を、桜井に差し出した。
「これ、持っていって。ここからは別の道だし」
桜井が目を丸くした。
「え——安藤くんは?」
「家まで近いし、走れば平気」
「近くないでしょ。嘘つかないでよ」
「……まあ、走っても濡れるけど」
「じゃあダメじゃん」
「桜井さんの鞄の中、古文のテキスト入ってるでしょ。付箋ごと濡らしたら、また最初から貼り直しになる」
桜井の口が開いて、閉じた。
数秒の間があって、両手で折り畳み傘を受け取った。
「……ずるい」
「今日三回目だよ、それ」
「三回目でも、ずるいものはずるいの」
桜井は傘を開いた。
僕の黒い折り畳み傘が、桜井の頭の上に広がる。
サイズが合っていないのが、ちょっとだけおかしかった。
「明日、ちゃんと返すね」
「うん」
「……でも、さっきの言葉は返品不可だからね」
そう言って、雨の中を歩いていった。
僕はまっすぐの道を、走って帰った。
頭の中に、あの古文テキストの付箋が残っている。
色とりどりの紙片が、ページの端から溢れていた映像。
書くときの熱は消えていない。
でも今、あの人が苦しんでいるのは、書く以外の場所だ。
僕にできることは——たぶん、まだある。
濡れたシャツが、冷たく肌に張り付いていた。




