第78話 開かれない封筒と、手帳の一行
梅雨入りした六月の放課後は、教室の人口密度が上がる。
雨の日は部活が早く終わるか、最初から休みになる。
帰り道が億劫で教室に残る生徒も多くて、あちこちの机に問題集やスマホが広がっている。
僕は窓際の最後列で、数学の問題集を開いていた。
机の端に水筒を置いて、ペンケースを手前に出す。いつもの配置。
隣では桜井が英語の長文読解に向かい合っている。
シャーペンの先が紙の上を滑るたびに、かすかな音が規則正しく聞こえてくる。
今日のホームルームで模試の結果が返却された。
僕の封筒は開封済みで、鞄にしまってある。C判定。可もなく不可もなく。
桜井の封筒は——机の端に裏返しのまま置かれていて、封すら切られていない。
気づいてはいる。
聞かないことにしている。
雨粒が窓を叩く音と、教室のざわめきが混ざっている。
問題を二つほど解いたところで、前方から足音が近づいてきた。
◇
「安藤、ここの置換積分なんだけどさ」
大木だった。
自分の席から問題集を持ってきて、僕の机の前に立っている。
大木に数学を聞かれるのは、一年の頃から何度もある。
もはや恒例行事みたいなものだ。
「どこ?」
「ここ、途中で式が変わるとこ」
問題集を僕の机に載せてきた。
ただでさえ広くない机が、さらに狭くなる。
ペンケースが端に押しやられて、水筒が少しだけ奥にずれた。
「ここ、tに置き換えてから分母を整理すると——」
大木のノートの端にペンを走らせる。
説明していると集中が問題集に寄っていく。
自分の勉強は進まないけれど、聞かれた以上は手を抜けない。
「おー、なるほど。サンキュ」
大木が納得して、問題集を引き上げた。
入れ替わるように、別の声がかかった。
「安藤くん、俺もいい? 英語の構文なんだけど」
中村だった。プリントを片手に立っている。
さっき大木が教わっているのを見て、タイミングを待っていたらしい。
「……まあ、いいけど」
断るタイミングを逃した。
中村は僕の前の席の椅子をくるりと反転させて座った。
英語の構文を説明する。
主語と動詞の関係を図に描いて、修飾の流れを矢印で繋いでいく。
——隣から聞こえていたシャーペンの音が、いつの間にか途切れている。
気にはなったけれど、中村のプリントに視線を戻した。
「安藤くんの説明、教科書よりよっぽど分かりやすいな」
「それは教科書を読んでないだけでは……」
ツッコミを入れつつ、もう一問さばく。
ここまでで、自分の問題集は一ページも進んでいない。
中村がプリントをまとめながら言った。
「助かった。——なあ安藤くん、明日の昼も少しだけ見てもらっていい?」
その瞬間だった。
「明日の昼は、わたしと打ち合わせがあるから」
桜井の声だった。
テキストに目を落としたまま、姿勢は変わっていない。
さっき止まっていたはずのシャーペンが、何事もなかったように動いている。
ただ、声だけが——静かに、けれど隙間なく割り込んできた。
中村が「え、そうなの?」と僕を見た。
僕も知らない。
「……そうだっけ?」
桜井がようやく顔を上げた。
表情はいつもの穏やかなもの——に見えるけれど、唇の端がわずかに引き結ばれている。
「あるの。さっき決めた」
「さっきって、いつ——」
「今。今決めた」
言い切った。
中村が「あ、了解。じゃあまた今度な」と手を上げて、椅子を元の向きに戻して離れた。
僕の机の上が、急に静かになった。
「……桜井さん、今のはちょっと強引じゃない?」
「強引じゃないよ。文集の打ち合わせはいつやってもいいんだから、明日の昼に入れても問題ないでしょ」
理屈は通っている。
通っているけど、明日の昼に打ち合わせを入れる必然性はゼロだ。
「佐伯さんのスケジュール表だと、次の打ち合わせは木曜の放課後だけど」
「それとは別。安藤くんとわたしの、個別の確認事項」
「個別の確認事項って何?」
「明日までに考えておく」
(……議題がまだないのに、打ち合わせだけ先に確定した)
ツッコむべきなのかもしれないけど、桜井がシャーペンを握り直して長文に戻った横顔が妙に真剣だったので、それ以上は聞けなかった。
◇
「すみれ、さっきの何?」
西村が、にやにやしながらこちらへ歩いてきた。
さっきのやりとりをしっかり見ていたらしい。
「何って、文集の予定調整だけど」
「予定調整ね〜」
西村の声には、明らかに「信じてません」が乗っている。
ふと気配がして視線を動かすと、佐伯も鞄を肩にかけてこちらへ来るところだった。
牛乳パックのストローを咥えたまま、口を開く。
「それ、時間の問題じゃなくて——」
「サエ、ストップ」
西村が人差し指を立てて制した。佐伯の口がぴたりと止まる。
「本人の前でネタバレしちゃダメでしょ」
「……保留」
佐伯は不服そうにストローを咥え直した。
桜井は首を傾げている。僕もよく分からなかったから、たぶん同じ顔をしていたと思う。
◇
五時を回ると、教室に残る生徒はまばらになった。
西村が「うち先帰るね〜」と鞄を肩にかけて手を振り、佐伯も「お先に」とノートを閉じて出て行った。
窓際の最後列には、僕と桜井だけが残っている。
雨はまだ降っていた。
蛍光灯の白い光が机の上だけを切り取っていて、窓の外は薄暗い。
桜井の模試の封筒は、同じ場所に置かれたまま、まだ開かれていなかった。
いつもの桜井なら、結果はすぐに確認するタイプだ。
推薦入試に向けて成績を管理しているなら、なおさら後回しにする理由がない。
僕は聞かなかった。
代わりに、ペンケースから付箋を一枚抜いた。
何を書くか、少しだけ迷う。
「大丈夫」は無責任だ。根拠がない。
「頑張れ」は、今の桜井にはたぶん重い。
点数の話はもっと違う。
結局、一行だけ書いた。
『充電日。明日また拾えばいい』
封筒の横に、そっと貼った。
桜井の手が止まった。
テキストから目が外れて、付箋に落ちる。
文字をなぞるように読んでいるのが分かった。
三秒。五秒。
桜井は付箋を丁寧に剥がして、手帳の内側に貼り直した。
粘着面を傷めないように、指先でそっと押さえている。
「……安藤くんってさ」
「ん?」
「たまに、ずるいよね」
声が小さかった。
さっき「今決めた」と言い切ったのと同じ人の声とは思えないくらい、小さかった。
「……隣にいたら気づくだけだよ」
「……それがずるいんだって」
桜井が僕を見た。
目尻が少しだけ下がっていて、口元はかすかに笑っている。
でもその笑い方は、教室の真ん中で見せるものとは違っていた。
手帳を閉じて、鞄にしまう。
模試の封筒も、そのまま鞄に入れた。まだ開けていない。
でも、手帳と同じ場所にしまったということは——たぶん、明日には開けるつもりなのだと思う。
「ねえ、安藤くん」
桜井が鞄のファスナーを閉めながら言った。
「わたし、ちょっと寄るところがあるから先に出るね。
——明日の昼、よろしくね? 打ち合わせだから」
「……議題、考えてくるんだよね?」
「考えてくる。……たぶん」
その「たぶん」に力がなくて、少しだけ笑えた。
「明日も雨っぽいよ」
「うん。知ってる」
桜井は傘を取り出して、小さく笑った。
「じゃあね、安藤くん。また明日」
足音が遠ざかって、教室のドアが閉まった。
窓際の最後列に、僕だけが残った。
机の上にはシャーペンと問題集と、一枚減った付箋の束。
あの一行は、もう桜井のものになった。
僕の頭の中で、明日の昼が埋まった。
窓の外では、雨が降り続けていた。




