第77話 白紙の進路と、君までの沿線図
五月の連休明けというのは、学校全体の空気がぬるくなる。
休み疲れの残る生徒と、休みボケを叩き直そうとする教師の間にある温度差が、教室を微妙に重くしている。
そこに追い打ちをかけるのが、担任から配られた一枚のプリントだった。
進路調査票。
第一志望から第三志望まで、大学名と学部と入試方式を書く欄がある。裏面には「志望理由(簡潔に)」の記入欄。
配られた瞬間、教室のあちこちで小さなため息が漏れた。
五月でこれか、という空気。
僕は窓際の最後列——隣が桜井になってもう一ヶ月が経つ——から、そのプリントを眺めていた。
◇
昼休み。
購買のパンと進路調査票を囲んで、四人が集まった。
「てかさ、もう進路調査票? 早くない?」
西村が焼きそばパンを片手に言った。
「三者面談が六月。逆算すると妥当」
佐伯はもう三行ほど記入済みだ。
「サエ、仕事早すぎでしょ……」
僕も白紙のまま。桜井が、自分のプリントをテーブルの上で少し回した。
「わたし、今朝の面談で公募推薦を勧められた。
都内の大学。……遠いけど、文学部の教授陣がすごいらしくて」
回されたプリントを見る。
桜井の志望先は、都内の難関大学の文学部だった。
——都内。
その二文字だけが、妙に残った。
「推薦だけど、評定と小論文の一次選考があって、共通テストの点数が二次で加味されるんだって」
「……要するに、落ちる可能性がある推薦。一般に近い実力も求められる」
佐伯が補足した。
「え、推薦って落ちんの?」
「公募はね。指定校とは別物」
「すみれ、評定と小論文と共テ全部やるって、普通に地獄じゃない?」
西村が率直に言った。
桜井は少しだけ黙った。
指先がメモ帳の角をなぞっている。
「……うん、大変だとは思う。でも、小論文は——わたしには文章があるから」
その声は、いつもの「クラスの桜井」のトーンより、少し低かった。
西村が口を開きかけて、閉じた。
佐伯はストローを咥えたまま、何も言わない。
桜井が「文章がある」と言ったとき、僕の頭にはこの二年間の新聞記事が浮かんだ。
でも、たぶんそれだけじゃない。
桜井がペンを握るときの集中——放課後の教室で、一人きりでノートに向かっていたあの横顔——を思い出すと、記事の文章力とはまた違う何かが、その言葉の奥にある気がした。
「安藤くんは?」
桜井がこちらを向いた。
白紙のプリントを指で示している。
「とりあえず、家から通える大学かな。学部はまだ決めてないけど」
「湊らしい。手堅い」
佐伯が言った。
「褒めてるんだか貶してるんだか分かんないんだけど」
「事実」
西村が「出た出た」と笑った。
桜井は何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、僕のプリントの白紙に目を落として、すぐに自分のメモ帳に戻した。
その動きが妙に引っかかったけれど、チャイムがそれ以上を塞いだ。
◇
放課後。
校門を出て、駅までの坂道を歩く。
五月の夕方は、まだ明るい。
改札を抜けてホームに上がると、桜井がいた。
今日は一人みたいだ。
「あれ、桜井さん、みんなと帰ったんじゃないの?」
「千夏は急用ができたみたいで、凛ちゃんは図書室に行って、私一人なんだ」
そんな会話をしていたら、各駅停車が滑り込んできた。
二人で並んで乗り込む。
車内は混雑していて、ドア横のスペースに二人で押し込まれる形になった。
肩が触れそうな距離。呼吸の音さえ聞こえそうだ。
桜井は何か言いたそうに口を開きかけたが、周りの喧騒のせいか、あるいは近すぎる距離のせいか、結局何も言わずに口を閉じた。
言葉はなかったけれど、居心地は悪くなかった。
そのままお互いの最寄り駅に着くまで、どちらもほとんど喋らなかった。
少したって、僕たちの降りる駅に着いて、改札を出る。
駅前のロータリーから住宅街へ向かう道。
並木のケヤキが葉を揺らすたびに、木漏れ日のパターンが変わる。
ここからは、いつもの帰り道だ。
肩と肩の間は、腕一本分くらい。
教室で隣の席に座っているときより距離は遠いはずなのに、横を歩いているという事実だけで妙に意識する。
遠くで野球部のノックの音がしている——この辺りにある中学校のグラウンドだろう。
「安藤くん」
桜井が、前を向いたまま口を開いた。
「さっきの話の続き、聞いてもらっていい?」
「……推薦の?」
「うん。電車だと、ちょっと言いにくかったから」
歩調が少しだけ落ちた。
僕もそれに合わせる。
「小論文のテーマが気になってて。
過去問見てたら、『ある社会的事象について、自分の体験をもとに論じよ』みたいな傾向があるの」
「自分の体験をもとに、か」
「新聞の記事を書いてたおかげで、クラスの空気を拾って、文章にすることはできたと思う。
でも、『あなた自身の視点で論じなさい』って言われると……わたしの視点って、教室の中だけのものかもって」
桜井の視線は、並木道の先に向いていた。
「それを外の世界に持ち出したとき、通用するのかなって。
考え始めたら、止まらなくなっちゃって」
声はいつもの張りがない。
教室の真ん中で笑っているときとは、別の周波数だった。
僕は少し考えた。
桜井の文章力のことは、この二年間ずっと近くで見てきた。
取材のときの質問の切り口。一文ごとに読む人の感情を動かす構成力。
それを小論文に変換できるかは分からない。
でも、ひとつだけ確信していることがある。
「桜井さんの言葉は、もうずっと前から形になってると思うけど」
桜井の歩みが、半歩だけ遅れた。
「……僕が言うのは変かもしれないけど」
言葉を選ぶ。
踏み込みすぎず、でも、曖昧にもしない。
「あの新聞記事の観察力で書ける人が、小論文で負ける姿が想像できない」
三歩分の沈黙。
並木道の影が、二人の足元を横切っていく。
ふいに、袖が引かれた。
桜井の指先が、僕の制服の袖をそっと摘んでいた。
肌には触れない。
それなのに、そこだけ重力が変わったみたいに、僕の意識は袖口の一点に吸い寄せられた。
足が、縫い止められたように動かなくなる。
「……安藤くんがそう言うなら、大丈夫な気がする」
声は小さかった。
隣を歩いていなければ、聞き逃していたくらいの小さい声。
どう返事をすればいいのか迷っているうちに、桜井の指は静かに離れた。
何事もなかったみたいに、桜井は歩き出した。
「……よし。帰ったらもうちょっと過去問見てみる」
「うん。……頑張って」
「頑張る。あ、安藤くんも——白紙のまま提出したら、担任の先生の小言コースだからね?」
「……それは確かに」
桜井が口の端だけで笑った。
注意の仕方が、少し遠回りに心配するような言い方だった。
家の方向が分かれる十字路。
ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左の道。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
桜井が左の道に折れて、小さく手を振った。
僕はまっすぐの道を、そのまま少し早足で歩いた。
袖に残ったわずかな重さが、なかなか消えなかった。
◇
自分の部屋に帰って、机の上にカバンを放り出す。
進路調査票を取り出した。
第一志望の欄は、まだ白紙だ。
ペンを手に取って、志望校の名前を書いた。
家から通える大学。一般入試。
無難で、手堅い選択。
——それで終わりのはずだった。
なのに、気づけばPCを開いていた。
検索バーに、桜井の第一志望の大学の名前を打ち込んでいる。
エンターキーを叩く。キャンパスの所在地。路線図。
そこからリンクを辿って、同じ沿線の大学を一つ、また一つと開いていく。
ブラウザのタブが増えるたびに、椅子の背にもたれていた背中がじわじわと前のめりになる。
どの大学も、桜井の志望校から電車で三十分以内にある。
同じ大学を受けるのは、さすがに理由が思いつかない。
学部も違う。偏差値も違う。
僕がそこを目指す動機を、担任に説明できる言葉がない。
でも。
タブを閉じようとして、指が止まった。
せめて——噂が聞こえるくらいの距離には、いたい。
その「せめて」が、いつの間にか沿線図という形になっていた。
僕はPCの画面を見つめたまま、調査票の「第一志望」の文字をなぞった。
ブラウザのタブは閉じなかった。
閉じる理由を、まだ見つけていないから。




