第76話 仕事の、話ね
三年A組。
教室番号が変わっただけで、空気の匂いはもう違う。
去年は二階の端だったのが、今年は三階の中央寄り。
窓の外に見える桜の角度が変わって、花びらが風に舞う軌道も微妙にずれている。
クラスメイトは同じだ。
クラス替えなしの持ち上がり。
それは去年の段階で分かっていたことだから、今さら感慨はない。
ただ、見慣れた顔ぶれが見慣れない教室に散っている光景は、同じ映画を別のスクリーンで観ているみたいで、少しだけ落ち着かなかった。
始業式のあとのホームルーム。
担任が教壇に立って、出席簿をめくった。
「はいはい、静かに。席の確認からするぞ」
黒板には座席表が貼り出されていた。
自分の名前を探す。
窓際の最後列——一番後ろ。
去年より一つ後ろにずれた。
窓の外の桜が、手を伸ばせば届きそうなくらい近い。
悪くない。
後ろに誰もいないから、背中を気にしなくていい。
けど、隣の名前を見て、指先が止まった。
——桜井すみれ。
去年は前方の中央寄りにいた桜井が、窓際の最後列。
僕の、右隣。
思わず桜井を見ると、席を確認しているところだった。
座席表を指で辿って、僕と同じ場所に行き着いたらしい。
一瞬だけこちらを見て、小さく目を丸くした。
それだけ。
僕はすぐに視線を戻して、席移動の準備を始めた。
◇
新しい席に着く。
隣は桜井。
去年より距離が近い。
窓からの風が、桜井の髪を揺らして、桜混じりの匂いが一瞬だけ流れてきた。
新しい教科書のインクと、春の空気。
西村は前方の中央あたりに座っていた。
去年とは離れたけれど、振り返ればこちらが見える位置。
佐伯は廊下側の中列。
窓際の僕たちとは教室の対角に近い。
担任が出席簿を閉じて、教室を見回した。
「確認事項だ。三年は卒業文集を作る。
だから、各クラスから編集委員を出す必要がある」
教室がざわついた。文集か、と誰かが呟く。
「やりたい奴いるか。四人くらい必要だ」
一瞬の沈黙。
佐伯が、迷いなく手を挙げた。
廊下側から細い腕がすっと伸びる。
声は出さない。ただ挙げただけ。
でも、その動きに躊躇がなかったから、教室の空気が少しだけ動いた。
「おー、佐伯。他には」
西村がひらひらと手を振った。
「はーい。うちもやる」
「よし。あと二人」
桜井が静かに手を挙げた。
隣の僕に目だけで「ね?」と問いかけるように。
僕も手を挙げた。
「桜井と安藤。了解。四人だな。
放課後に最初の打ち合わせやっとけよ」
担任があっさり次の連絡事項に移る。
僕は小さく息を吐いた。
——口実が、戻ってきた。
佐伯が春休み前に言った「文集委員に滑り込めば、口実は残る」。
あの声がこんなにあっさり現実になった。
しかも佐伯が真っ先に手を挙げたのは、去年の段階でこうなると見越していたからだろう。
ちらりと廊下側を見ると、佐伯はもうノートを開いて何か書き込んでいた。
表情はいつも通りだった。
◇
放課後。
教室に残ったのは四人。
初回なので机は動かさず、僕と桜井の席のあたりに椅子を寄せた。
窓際の最後列。四人分の椅子が、こぢんまりと集まる。
「卒業文集か~」
西村が椅子の背もたれに腕を乗せて、天井を仰いだ。
「新聞より、なんかこう……重みが違うよね。一回きりだし」
「構成が違う。月刊と一冊では作り方が変わる」
佐伯が、鞄からクリアファイルを取り出した。
二年生の時に作った新聞のバックナンバーだ。
修了式の日に佐伯が持ち帰ったファイルが、春休みを越えてここに戻ってきている。
「高二のバックナンバー、全部ある。号外も含めて」
「サエ、持ってきたの? 初日から?」
「初回打ち合わせで必要になると思ったから」
西村が「準備良すぎ」と笑った。
佐伯は「当然の備え」と返した。
いつものやりとりだ。
佐伯がバックナンバーを机に並べながら、静かに言った。
「提案がある」
三人の視線が集まる。
「三年間を年表にするのは退屈。それは他のクラスでもできる」
佐伯の声は平坦だったけれど、目にはうっすらと熱があった。
「空気の変遷をアーカイブする文集にしたい。
……三年間で、この教室の温度がどう変わったか。
それを残す」
「空気の変遷……」
桜井が、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「いいね、それ。
行事の羅列じゃなくて、あの時教室がどんな温度だったか、みたいなことでしょ?」
佐伯が頷いた。
「そう。事実だけじゃなくて、質感も残す」
「おー、カッコいいじゃん。うちは賛成」
西村が手を挙げた。
僕も頷いた。
佐伯の提案は、去年の新聞作りの延長線上にある。
僕たちがやってきたことの、自然な着地点だと思った。
「方針はこれで。役割の割り振りは次回」
佐伯がノートに何か書き留めた。
たぶん、今日の決定事項だ。
相変わらずやることが早い。
◇
打ち合わせが一段落して、西村と佐伯が鞄の中身を整理し始めた。
その時だった。
隣の桜井が、こちらに身を乗り出してきた。
席が隣だから、距離がほとんどない。
椅子ひとつ分も空いていない。
制服の袖が僕の腕に触れそうなくらい近い。
「ねえ」
桜井の声は、教室中央にいるときの「クラスの桜井」の声じゃなかった。
少しだけトーンが低くて、僕にだけ届けようとしている声。
「ちゃんと、集まれる場所できたよ」
桜井の目が、僕を真っ直ぐ見ていた。
「……契約、続けられるね」
僕の指先が一瞬だけ止まった。
契約更新。
春休み前に桜井が口にした言葉。
期間は卒業するその日まで。
あのとき教室に二人きりで、桜井の耳が赤かったことを、僕はまだ覚えている。
「……うん。続けられる……ね」
「じゃあ、よろしくね」
桜井が、少しだけ顔を傾けた。
髪がさらりと肩から流れる。
「安藤くん、またネタ拾いお願いね」
そこまでは、いつものトーンだった。
次の一言が、違った。
「私の『専属』なんだから」
教室の空気が、一瞬だけ止まった。
僕は思わず桜井の顔を見る。
桜井も自分の言葉に気づいたように、ほんの一拍遅れて目を見開いた。
「……仕事の、話ね」
桜井が、自分に言い聞かせるように付け足した。
「……うん。仕事」
僕も重ねた。
タイミングが完全に一致した。
互いに顔を見合わせて、それから同時に視線を逸らした。
西村が、ぷっ、と吹き出した。
「……無理。ほんと無理。あんたたち、ほんっと無理」
鞄を肩にかけたまま、口元を手で押さえている。
目が完全に笑っている。
佐伯は無言でノートを閉じた。
何を書いていたのかは分からないけれど、口元がほんのわずかに緩んでいるのが横顔から見えた。
桜井は軽く咳払いをして、身を引いた。
「……とにかく、よろしくね」
「……うん。よろしく」
桜井が前を向き直す。
隣の席。
腕を伸ばせば届く距離。
それが一年間、続く。
僕は机の下で拳を開いたり閉じたりした。
指先が、じんわりと熱い。
◇
帰り際の並木道で、ポケットのスマホが震えた。
文集委員のグループLINE。佐伯からだ。
『初回議事録。添付。確認して』
添付ファイルを開くと、今日の決定事項が箇条書きにまとめられていた。
方針、役割仮案、次回の日程。
打ち合わせが終わってそんなに時間が経っていないのに、もう議事録ができている。
佐伯らしい。
その下に、西村が返信していた。
『仕事はやっ!! サエありがとー!!』
桜井もスタンプを送っている。猫が拍手しているやつ。
僕は画面を見つめたまま、少し笑った。
四人のグループLINEに、新しい通知が灯る。
高校三年生、最後の高校生活が、もう動き出していた。




