第75話 原状復帰と、「契約更新」
修了式が終わると、教室はいつもと違う種類の騒がしさに包まれた。
春休みの予定。
受験か、部活引退か、あるいはもっと曖昧な「三年生になる」という響きへの感想。
そういうものが、あちこちのグループから断片的に聞こえてくる。
僕はいつもの窓際の席から、そのざわめきを聞いていた。
あの日から、二週間が経っている。
桜井のスマホに映った一行——『観察者のいる教室』。
あの文字列は、まぶたの裏に焼きついたまま消えない。
忘れてくれなくていいから、と桜井は言った。
忘れるわけが、なかった。
ただ、それについて二人の間で何かが変わったかというと、変わっていない。
翌週も、その次の週も、いつも通り放課後に集まって、いつも通りレイアウトの確認をして、そのまま帰った。
桜井も僕も、あの日のことには触れなかった。
触れないまま、高校二年生が終わろうとしている。
◇
「はーい、編集部(仮)最後の業務でーす。授業モードに復帰。机、戻していこー」
西村が両手をパンと叩いた。乾いた音が、放課後の教室にやけに響く。
「授業モードって何」
「先生に怒られない配置のこと。ほら、戻すよ~」
放課後の教室に残っているのは四人だけだった。
他のクラスメイトはとっくに帰ったか、部活に向かっている。
「編集部(仮)」――僕たちがこの一年間、放課後だけ開いていた作業スペース。
自分たちの席に前の列の机を二つ回してくっつけた、四人分の即席の編集基地だ。
組み立てて、作って、笑って、悩んで、最後に元に戻す。
それを一年、繰り返してきた。
西村と二人で机を持ち上げ、前の列へ運ぶ。
脚が床をきしませて、春休み前の埃がふわっと立った。
「よし、返却完了?」
「うん。席順どおりに」
「一年間ありがとうございました」と机に向かって小声で言ったら、西村に「机にお礼言ってどうすんの」と笑われた。
そんな中、佐伯が机の上でファイルの背を揃えていた。
透明な表紙の中に、一年分の放課後が静かに圧縮されている。
バックナンバー。
一年間に発行した新聞の控えが、クリアファイルに一号ずつ収められている。
佐伯が毎号、印刷した当日に淡々とファイリングしてきたものだ。
五月号、六月号、体育祭特別号、文化祭号、修学旅行号、十二月号、学年末号——。
一枚一枚に、放課後の記憶がくっついている。
西村が最初の五月号を手に取って、ぺらぺらとめくった。
「うわ、懐かしい。レイアウトひどくない? 余白が事故ってる」
「初号だからね。精度が足りてなかった」
佐伯が淡々と言う。
自分の過去の仕事にその言い方ができるのは、今のクオリティに手応えがあるからだ。
「てかさ」
西村がファイルを閉じて、窓の外に目をやった。
校庭では、帰りがけの生徒たちが散らばっている。
桜はまだ咲いていない。
三月下旬の陽射しは暖かいけれど、木々はまだ冬の名残を引きずっていた。
「ま、クラスは持ち上がりだけどさ」
西村の声が、さっきまでの軽さから半音だけ低くなった。
「三年になったら、新聞係なんてなくなるよね。受験だし」
誰も即答しなかった。
分かっていたことだ。
学級新聞は二年生の国語の課題として始まったもので、三年にはない。
来年度は受験がある。模試がある。面談がある。
放課後に集まって新聞を作る時間も理由も、制度的にはなくなる。
佐伯がバックナンバーのファイルを揃えて、机の上に置いた。
「合理的判断としては、続けるのは難しいね」
声に感情がない。
佐伯はいつも、事実を事実として置く。
でも、その後に続いた言葉は、いつもの佐伯とは少しだけ違った。
「……三年は文集委員に滑り込めば、口実は残る」
小さな声だった。
バックナンバーに視線を落としたまま、ファイルの角を指先で整えている。
口実、という言葉を佐伯が使った。
合理性の人が、合理的でない理由を探している。
西村がちらっと佐伯を見て、何か言いかけて、やめた。
代わりに「あー、文集ね。あるかもね」とだけ返して、机の上に頬杖をついた。
僕は自分の席の周りを片付け終えて、椅子を机の下に押し込んだ。
僕の席。窓際の後ろから二番目。
この一年間、ここに座って黒板を見て、教室を見て、桜井の背中を見て——いろいろなものを見てきた。
片付いた机の上には、もう何もない。
プリントも、赤ペンも、ファイルも。
祭りのあとの舞台みたいに、がらんとしている。
その、何もなくなった僕の席の横に、桜井が立った。
いつの間にか、自分のカバンを肩にかけた状態で、こちらに来ていた。
一歩分の距離。腕を伸ばせば触れるくらい。
「……ねえ、安藤くん」
桜井の声は静かだった。
教室の中心で誰にでも向ける笑顔じゃなくて、新聞の打ち合わせで原稿の話をするときの——あの、少しだけ本気が混じる目。
「新聞がなくなっても、文集委員じゃなくても」
桜井が、ほんの一瞬だけ言葉を切った。
カバンの肩紐を握る指先に、力がこもったのが見えた。
「……だとしても。私は、安藤くんに見ていてほしい」
教室の空気の密度が、一段だけ上がった。
「契約更新」
桜井が言った。
声はまっすぐだった。
でも、耳の縁がうっすらと色づいているのが、斜めからの光でわかった。
「期間は、『卒業するその日まで』」
西村が小さく息を呑むのが聞こえた。
佐伯は無言だったけれど、ファイルを整える手が止まっていた。
桜井は僕だけを見ている。
高一の冬、駅前のイルミネーションの下で「独占契約を結びたい」と言った人。
高一の終業式で「来年も付き合ってもらうから」と笑った人。
高二のイルミネーションで「来年はまた私の番だね」と言った人。
そのたびに僕は、業務上の話だ、と思おうとしてきた。
でも。
桜井の目を見て、「業務上の話だ」と思い続けて良いのかわからなくなってきた。
「……うん」
声が、また少し掠れた。
最近、これが多い。
桜井の前で、声がうまく出ない。
「最後まで、付き合うよ」
桜井の肩が、ほんのわずかに下がった。
力が抜けたのだ、と思った。
それから、いつもとは少しだけ違う笑顔を浮かべた。
目尻がやわらかくなる、あの表情。
「——サエ、ほら」
西村が佐伯の腕を引っ張って、廊下のほうへ歩き出した。
「うちらも帰ろ。明日から春休みだし」
「……なに。まだファイルの最終チェックが」
「それ家でやんなよ。空気読んで」
「空気の問題じゃない。作業の問題」
「はいはい。行くよー」
バタン、と教室のドアが閉まった。
西村が振り返りざまにこちらを見た顔が、にやにやしていた。
いつもの、あの顔。
情報を拾ったときの、楽しそうな西村の顔だ。
教室に、二人が残った。
桜井は僕の隣にまだ立っていた。
「……行かなくていいの?」
「もうちょっとだけ」
桜井が窓の外を見た。
三月の午後は長い。
空はまだ明るくて、校庭の端に植えられた桜の木が、つぼみをつけているのがここからでも見えた。
「来年、咲くかな」
「桜? 咲くんじゃない。毎年咲いてるし」
「そうだよね。……毎年、ちゃんと咲くんだよね」
桜井が小さく笑って、僕のほうを向いた。
「よろしくね、観察係さん」
ほとんど声になっていなかった。
唇の動きで読み取れたくらいの、小さな声。
でも、確かに聞こえた。
この呼び名を、桜井が口にしたのは久しぶりだった。
いつもは僕の頭の中にだけある言葉だ。
「……了解」
それだけ返すのが精一杯だった。
桜井はカバンを肩にかけ直して、「じゃあ、また四月にね」と言った。
教室を出ていく。
ドアが閉まる直前に、一度だけ振り返って手を振った。
廊下の向こうから、西村の「すみれー! 早くしないと置いてくよー!」が聞こえた。
帰ると言いながら、ちゃんと待っていたらしい。
僕も、遅れて教室を出た。
廊下の窓際に立つ。
校庭の端の桜の木は、まだつぼみで、でも確実に春の準備をしていた。
三月の光は長くて、やさしいくせに、やけに現実的だ。
一年前の春。
僕は「背景」を名乗っていた。
モブとして過ごすはずだった高校生活。
そのはずが、桜井の秘密を知って「観察係」になり、西村に名前で呼ばれるようになり、佐伯の「合理的」に振り回されるようになった。
気づけば放課後が埋まっていて、
気づけば誰かの原稿を読んでいて、
気づけば隣に誰かがいた。
あと一年。
指先で、カバンの肩紐を小さくなぞる。
——最後まで付き合う、と言った。
それは嘘じゃない。
でも、「付き合う」という言葉の重心が、さっきまでとは少しだけ違う気がした。
隣で結末を見届ける。
隣に立つ。
まだ遠い。
でも、歩ける距離だ。
僕は一度だけ、桜のつぼみを見上げてから、昇降口へ向かった。




