第74話 見ないで、忘れないで
学年末号の初稿が出揃ってから、一週間が経っていた。
桜井の長谷川さんへの取材は、週明けにはもう動き出していた。
放課後に彼女を捕まえて「もう一回、話を聞かせてほしい」と頭を下げたらしい。
その場には僕もいなかったし、何を聞いたのかも知らない。
ただ、数日後に届いた書き直しの原稿は、最初のものとは手触りが別物だった。
佐伯が「通す」と一言だけ言って赤を入れなかったのが、何よりの証明だ。
佐伯のレイアウト作業と並行して、今日の作業は写真の選定だった。
◇
金曜日の放課後。
教室には僕と桜井の二人だけが残っていた。
佐伯は「レイアウト案を持ち帰る」と手帳を閉じて先に出て、西村は「うち先に用事あるから行くねー」と手を振って走っていった。
写真選定は僕と桜井で済ませる手筈になっている。
桜井が自分のスマホを机に置いた。
「ここに、新聞用に撮りためてた写真入れてあるから。
一緒に見て、使えそうなの選ぼ」
「わかった」
桜井の隣に座ると、またノート一冊分もない距離になった。
前回と同じだ。むしろ前回より少し近いかもしれない。
桜井のほうから椅子を寄せてきたので、距離を決めたのは僕じゃない。
桜井がカメラロールを開いて、指先で写真を横にスワイプしていく。
「これ、体育祭の準備のやつ。みんなで段ボール運んでるの」
「いいね。裏方っぽさがある」
「でしょ。こういうのが好きなんだよね、安藤くんは」
分かってるみたいに言われて、否定できない。
僕の好みを、桜井はもう何度も見てきている。
写真が次々と流れていく。
文化祭の片付け、教室での編集会議、十二月号の印刷作業。
どれも「裏側」ばかりで、表舞台の華やかなカットがほとんどない。
「……桜井さん、ステージの写真は?」
「あんまり撮ってないかも。
凛ちゃんが十二月号のとき『反応が良かったのは数字じゃなくて手触りだ』って言ってたでしょ。
だから今回も、そっち寄りで集めてたの」
「……たしかに、そうだったね」
佐伯の分析を桜井が自分の撮影基準に落とし込んでいる。
そういうチームになっている、ということだ。
背筋が少しだけ伸びた。
「この辺が候補かな。何枚か選んで——」
桜井が画面をスワイプした。
僕は次の写真を指差そうとして、画面に手を伸ばした。
指先が、画面の下端にかすった。
ほんの一瞬のことだった。
カメラロールが消えて、画面が切り替わる。
直前まで開いていた別のアプリが、表に出てきた。
メモアプリ。
白い背景に、短い行がいくつか並んでいる。
一番上の行だけが、目に飛び込んできた。
『次作構想:観察者のいる教室』
——観察者の、いる、教室。
指が止まった。
視線が張りついたまま、動かない。
ほんの一瞬だった。
けれど、文字は読めてしまった。
「——っ」
桜井の息を呑む音が、耳のすぐ横で聞こえた。
次の瞬間、画面が真っ暗になった。
桜井がスマホを胸元に引き寄せて、両手で覆うように抱え込んでいる。
「み、見ないで!」
声が裏返っていた。
桜井の耳が、首筋まで赤く染まっている。
目がわずかに潤んでいるように見えたのは、蛍光灯の反射かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「……ごめん。わざとじゃないよ。指が画面に当たって——」
「……わかってる。わかってるけど……」
怒っているようには見えなかった。
声は震えていたけれど、棘はなかった。
自分が見せたくないものを、よりによってこの人に見られた——そういう動揺に見えた。
僕は視線を机の上に落として、両手を膝の上に置いた。
「もう見てません」という姿勢を、全身で示す。
しばらく、どちらも動かなかった。
桜井の呼吸が、少しずつ整っていく。
「……見えた?」
小さな声だった。
「……タイトルだけ」
正直に答えた。
嘘をつくことも考えたけれど、桜井に対して嘘をつくと、いつか必ず破綻する。
この一年半で学んだことだ。
「タイトル……だけ」
桜井が、ゆっくりとスマホを膝の上に下ろした。
画面は消えたままだ。
「……うん。まだ、タイトルだけなの。中身は空っぽ」
声が低くなっていた。
さっきまでの動揺が引いて、代わりにもっと静かな何かが表面に出てきているようだった。
「構想だけメモして……そこから先が、書けない」
「……」
「ここから先は、怖いから」
怖い。
桜井が、書くことを「怖い」と言ったのは初めてだった。
少なくとも、僕の前では。
「書きたい」が先に来る人だ。
衝動が先で、ブレーキが後。
それが桜井すみれという書き手だと、僕はずっと思っていた。
その人が、怖い、と言っている。
「変に名前がついたら、書けなくなる気がするの」
「名前?」
「この——今ある気持ちとか、書きたいものに、ちゃんとしたタイトルをつけちゃったら。
形にしちゃったら。
……もう後戻りできなくなる」
桜井の指が、膝の上のスマホの縁をなぞっていた。
消えた画面の向こうに、さっきの文字列がまだ残っている。
「だから、まだ構想止まり。
……ずるいよね、書きたいのに書かないの」
「ずるくないよ」
思ったより早く口が動いた。
「怖いなら、怖いまま置いておいていいと思う。
書けるときが来たら書けばいい」
編集者っぽいことを言おうとしたわけじゃない。
ただ、桜井の声に混じっていた震えが、放っておけなかっただけだ。
桜井が僕を見た。
前髪の隙間から覗く目が、少しだけ赤い。
何かを奥のほうで堪えているような、そういう目に見えた。
それから、桜井はゆっくりと息を吐いた。
肩の力が抜けるのが、隣にいると分かった。
「……ねえ、安藤くん」
「うん」
「いつか。いつか書き上がったら——」
桜井が、消えたままのスマホの画面を一度だけ見下ろした。
それからまっすぐ、僕の目を見た。
「一番最初に読んでほしい。安藤くんにだけは」
心臓が、一拍だけ飛んだ。
——安藤くんに、だけは。
その一言が、教室の空気を塗り替えた気がした。
蛍光灯の音が遠くなって、窓から差し込む夕日の角度が変わって、時計の秒針だけがやけに鮮明に刻んでいる。
「……うん」
声が少し掠れた。
咳払いをしたかったけれど、この空気を壊す気がしてできなかった。
「待ってる」
桜井の唇が、かすかに動いた。
何か言いかけて、やめた。
代わりに、小さく頷いて、スマホをカバンにしまった。
それだけだった。
それだけのはずなのに、教室の中の酸素が薄くなったみたいに、呼吸を意識しないとうまく吸えなかった。
◇
「……写真、続き選ぼうか」
桜井がカメラロールを開き直した声は、さっきより半音高かった。
僕は「うん」と頷いて、もう一度画面を覗き込む。
今度は、指が画面に触れないよう気をつけた。
写真を五枚選んで、作業を終える。
桜井は「じゃあ、月曜にレイアウト確認ね」と言って、椅子を戻した。
教室を出るとき、桜井が振り返った。
「安藤くん」
「ん?」
「さっきの——忘れてくれなくていいから」
見ないで、と言ったのとは正反対のことを、桜井は穏やかな声で言った。
「タイトルだけ、覚えててくれたら。
……それだけで、たぶん書ける気がするから」
廊下に出ていく背中を見送った。
今日は西村の「遅いー!」が聞こえなかった。
桜井は一人で、静かに帰っていった。
僕は、机の上に置きっぱなしだった自分のノートを開いた。
ペンケースからシャーペンを引っぱり出す指が、思っていたより落ち着かない。
『観察者のいる教室』
桜井のスマホで見えてしまったあの文字列を、同じように書いてみる。
一文字書くたびに、胸の奥がきゅっとなる。
覚えててくれたら、書ける気がする。
そう言ってた。
だったら、忘れないようにするのは、たぶん僕の仕事だ。
書き終えたタイトルの下に、念のため小さく追記する。
(見ないで、って言われたやつ)
自分で書いておいて、ひどい。
でも、ちょっとだけ呼吸ができるようになった。
ノートを閉じ、カバンに入れる。
教室を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。




