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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第73話 距離、ノート一冊分

 三月に入ると、教室の窓から差し込む光が少しだけ角度を変える。


 暖房の設定温度は二月と同じはずなのに、空気が前よりも軽くなった気がする。

 春の気配というやつは、カレンダーより先に届くらしい。


 バレンタインから二週間と少し。

 あの日のことは、もう日常の中に埋まりかけている。


 ——と言いたいところだけど。


 約束通りの「三行以内の感想」を渡したのは、二月の最終週だった。

 放課後の教室で二人きりになった一瞬を見計らって、小さく折りたたんだメモ用紙を差し出した。


『一粒食べて観念しました。おいしすぎます。二粒目は、もったいなくてまだ食べてません』


 桜井はそれを読んで、五秒ほど黙った。

 それから「……二粒目、賞味期限切れる前に食べてよ」と、少しだけ声を上擦らせて言った。

 赤くなった耳を隠すように髪をかき上げたのは、バレンタイン当日とまったく同じ仕草だった。


 あの紙は、その日のうちに桜井のカバンの奥に消えた。

 捨てたのか、しまったのかは知らない。聞く度胸もない。


 ——ともかく。


 今は、そんな余韻に浸っている場合じゃなかった。


 ◇


 放課後の教室。

 窓際に寄せた四つの机の上に、A3のラフレイアウトが広がっている。


 学年末号。高二最後のクラス新聞だ。

 一月号と二月号は通常の定期号として問題なく出し終えていたから、今期の集大成はこの三月号に懸かっている。


「構成案、出す」


 佐伯が髪をまとめ直しながら、手帳を開いた。

 作業モードのスイッチが入ると、彼女の声は半音低くなる。もう何度も聞いた音だ。


「十二月号の読後アンケート。回収率六十三パーセント。『思い出の落とし物』コーナーへの反応が全体の四割を超えてる」


 佐伯が手帳のページを指先でなぞりながら、僕たちに向けて数字を並べた。


「特に、名前のない一行メモに対する共感反応が高い。『自分のことみたいで嬉しかった』が最多。次点が『普通の記事より読み返した』」


「うわ、サエ、ちゃんと数字取ってたの?」


「出したものの反応を見ない方が非効率」


 西村が「さすが」と肩をすくめた。


「で、三月号の方針」


 佐伯がペンを机に置き、僕たち三人の顔を順番に見た。


「十二月号を、超える」


 短い宣言だった。

 十二月号の完成直後、佐伯が口にした言葉が、三ヶ月の時間を経て、具体的な案を伴って戻ってきた。


「テーマは『一年の落とし物』。十二月号が修学旅行の三日間なら、今回は高二の一年間。スケールを上げる」


「いいね! 一年分の振り返りって、学年末っぽい」


 西村が身を乗り出した。


「ただし、全員のメモを集める方式は前回と同じにしない。同じ手は二度使わない」


「じゃあ、どうするの?」


 僕が聞くと、佐伯は手帳をめくった。


「今回は、四人がそれぞれ一本ずつ記事を書く。担当するクラスメイトを決めて、その人の一年間を取材して書く形式」


「……インタビュー記事ってこと?」


「近いけど、少し違う。ただの質疑応答じゃなくて、その人の一年間を『物語』として構成する。

 修学旅行号で反応が良かったのは、数字じゃなくて手触りだった。なら今回は、個人の物語に焦点を当てる」


 佐伯の目が、薄く光を帯びているようにみえた。


「四人で四本。紙面の核になる。……これで十二月号を超える」


 佐伯がそこまで言い切ったとき、桜井が小さく手を挙げた。


「わたし、もう取材先決まってるかも」


「早いね。誰?」


「……長谷川さん」


 委員長だ。

 真面目で目立たないけれど、体育祭でも文化祭でも裏方をずっと回していた人。

 クラスの柱みたいな存在だけど、表舞台には出てこない。


「長谷川さんか。いいと思う。地味だけど厚みがある」


 佐伯が頷いた。


「うちは山本にしよっかな。あいつの一年、濃いし」


「却下はしないけど、事実確認は厳密に」


「分かってるって」


 僕は少し考えてから、「大木にしようかな」と言った。

 高一のとき前の席だった、クラスメイト。

 誰とでも話すけれど、自分からは前に出ないタイプだ。


「よし。じゃあ取材開始は明日から。初稿の締切は一週間後の金曜」


 佐伯が手帳に赤丸を打って、編集会議はあっさり終わった。


 ◇


 一週間後の金曜日。


 初稿が出揃った放課後。

 四人の原稿がA4で印刷され、机の上に並んでいる。


 僕の原稿は大木の一年間を淡々と追ったもので、佐伯から「構成は堅実。面白みがないけど破綻もない」と評された。

 褒められたのか貶されたのか分からない、いつもの佐伯だ。


 西村の山本取材記事は勢いがあって読みやすく、佐伯が「事実確認が一箇所甘い」と赤を入れた以外は問題なかった。


 佐伯自身の原稿は、相変わらず隙がない。


 問題は、桜井の原稿だった。


「安藤くん、先に読んでくれない?」


 桜井がA4の束を差し出してきた。

 受け取ろうとすると、桜井は椅子ごと少し寄ってきて、僕の手元を覗き込む位置に収まった。


 肩と肩の間が、ノート一冊分もない。


「……近くない?」


「反応が見たいの。読んでるときの顔で、だいたいわかるから」


 桜井の言い分に反論する隙がない。

 僕は視線を原稿に落とした。


 近い。

 呼吸のたびに、桜井の髪から洗剤の匂いがかすかに届く。


 長谷川さんの一年間。

 目立たない委員長の、体育祭・文化祭での奔走。

 誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った裏方の一年を、桜井は丁寧に掬い上げていた。


 文章は滑らかで、読んでいて心地いい。


 でも、二度目に読み返したとき、三段目のまとまりで赤ペンの手が止まった。


 体育祭のエピソード。

 桜井はこう書いていた。


 『誰にも気づかれなくても、長谷川さんは笑顔で走り続けた』


 この文が、記憶に引っかかった。

 僕は読みながら、スマホのカメラロールを開いた。


 体育祭の日に撮った写真が何枚か残っている。

 テント裏の一枚を見つけて、拡大した。


 長谷川さんは日焼け止めを塗り直しながら、少し疲れた顔をしていた。

 「暑い」とぼやいていた——そんな空気の写真だった。


 笑顔で走り続けた、わけじゃない。

 疲れてぼやきながら、それでもやめなかった——あのときの長谷川さんは、そういう人だったはずだ。


 赤ペンのキャップを外し、もう一度つけた。外して、つけて。

 それを三回繰り返してから、口を開いた。


「桜井さん」


「ん?」


 桜井が顔を上げた。

 期待するような目だった。

 自信作を見せた後の、感想を待つ顔。


 ……けど、これは伝えなきゃいけない。


「三段目の体育祭のところなんだけど。

 長谷川さん、笑顔で走り続けてた……かな」


「……走ってた、と思うけど」


「さっき写真見返してたんだけど、テントの裏で少し疲れた顔してた写真があって。

 もちろん僕の記憶違いかもしれない……けど」


 断定しないように気をつけた。

 桜井の文章を否定したいわけじゃない。

 ただ引っかかったことは、きちんと伝えないといけないと思った。


「……長谷川さんがほんとにそうだったのか、確認したいなって。それだけ」


 桜井の指が、原稿の上で止まった。


 三秒。五秒。

 時計の針が進む音だけが聞こえる。


 桜井はゆっくりと自分の原稿を持ち上げ、内容を読み返した。


「……ここも、かも」


 桜井が自分で指を置いた。

 そこにはこう書いてあった。


『片付けを終えた長谷川さんの目には、うっすらと涙が光っていた』


「わたし……長谷川さんに、泣いてたかって聞いてない。

 聞かないまま書いちゃってる」


 声が、小さかった。


「長谷川さんの物語なのに。

 わたしが見たかった形に、いつの間にか寄せちゃってた」


 桜井が原稿をテーブルに戻して、少しだけ目を伏せた。

 それから、ふっと息を吐いた。

 唇をきゅっと結んでから、口元だけがかすかに笑った。


「……止めてくれてありがとう。

 もう一回、長谷川さんに会ってくる」


 教室が静かになった。

 西村が口を挟まずに黙っていたのは、珍しかった。


 沈黙を破ったのは、佐伯だった。


「事実と演出は違う。……湊の判断、間違ってない」


 短い言葉だった。

 佐伯は手帳に視線を落としたまま、赤ペンの先で自分の原稿をトントンと叩いていた。


「ルール四番目。覚えてる?」


 ルール四番目。

 高二の春に僕が提案した、あの掲載ルール。


「事実でも、その言葉を本人の顔を見て直接言えないなら、載せない」


 佐伯がそれだけ言って、手帳に視線を戻した。

 追い打ちはしない。

 必要な言葉だけ置いて、あとは任せる——いつもの佐伯のやり方だった。


「うん。長谷川さんの顔を見て、『体育祭であなたは笑顔で走り続けた人です』って……言えない」


 桜井は原稿を裏返し、白紙の面を上にした。


「今度は、わたしが聞きたい答えじゃなくて、長谷川さんが言いたいことをちゃんと聞いてくる」


 佐伯が小さく頷いた。それ以上は何も言わなかった。


 西村がようやく口を開く。


「すみれの文章、めちゃくちゃうまかったよ。

 だからこそ気をつけなきゃいけないってことでしょ」


「……うん」


「うちも山本の記事、やらかしてないか見直そ。

 サエ、もう一回見てくれない?」


「……いいよ。二人分まとめてチェックする」


 西村と佐伯のやり取りに、教室の空気が静かに緩んだ。

 桜井が小さく息をついて、ペンを持ち直した。


 僕は赤ペンのキャップを、今度はちゃんと閉めた。


 ◇


 帰り支度をしながら、僕は窓の外を見た。


 三月の空は、十二月よりずっと明るい。

 日が長くなっている。

 放課後に帰っても、まだ空に色が残っている季節が近づいている。


 佐伯と西村が先に教室を出て、桜井と二人きりになった。

 今日は桜井がカバンを閉めるのが遅かった。


「安藤くん」


「ん?」


「さっき言ってくれたこと。……あれ、最初から気づいてた?」


「最初は気づかなかったよ。

 一回目はすごいなって思って読んだ。

 二回目で、ちょっとだけ引っかかった」


「……二回読んでくれたんだ」


 桜井が、カバンの持ち手を両手で握ったまま、僕を見た。


「わたし、書くのが好き。

 好きすぎて、たまに暴走するから……止めてくれる人がいないと怖い」


「……うん」


「安藤くんは、いつも正しいタイミングで言ってくれる。

 体育祭の記事のときも、修学旅行号のときも。

 ……今日も」


 その言葉に、喉の奥がきゅっと詰まった。

 止めてくれる人、と言われて、心臓の位置がいつもより高いところにある気がした。


「……僕は、桜井さんの文章が好きだから。

 好きだからこそ、気になるだけだよ」


 言ってから、自分の言葉に少しだけ後悔した。


 「好き」という単語が二回も入っている。

 文章が好き、という意味だけど。

 それ以上の意味はない。ないはずだ。


 桜井は一瞬、まばたきを止めた。

 それからゆっくりと視線を落として、カバンの持ち手を握り直した。


「……ありがとう。今度もまた見てくれる?」


「うん。楽しみにしてる」


 桜井は小さく頷いて、教室のドアに向かった。


 ドアの手前で足を止め、振り返る。


「あ、安藤くん。あのチョコの感想——」


「三行で出したじゃん」


「三行じゃなくて、感想を聞きたいの。

 好きだった?」


 好きだった、と聞かれて、僕は一拍、呼吸が止まった。


「……おいしかったよ。二粒目も、ちゃんと食べた」


「賞味期限、セーフだった?」


「ギリギリ」


 桜井が、ふっと笑った。

 教室の中心にいるときの笑顔とは違った。

 もっと小さくて、なぜか目を逸らせなかった。


「よかった」


 そう言って、桜井は廊下に出た。

 足音が遠ざかっていく。

 少しして、廊下の向こうから西村の「すみれー、遅いー!」という声が反響して聞こえた。


 僕は原稿を揃えた。

 クリアファイルに挟んで、カバンに滑り込ませる。


 持ち上げると、先月より確実に重い。

 五月号から始まって、もう何号分もの紙が詰まっている。


 教室を出る。

 廊下の窓から差し込む光が、三月らしい角度で床を切っていた。


 桜井は、言葉で世界を塗り替えることができる人だ。

 僕が見ている景色も、僕自身のことも、彼女の筆にかかれば別の物語になる。


 だから僕は、ブレーキでいい。

 物語が暴走しかけたとき、「それは本当?」と問いかける係。

 観察係として見てきたものを、正しく戻す——それが、今の僕にできることだ。


 ……なのに。


 「好きだった?」


 さっきの質問が、まだ耳の奥で小さく笑っている。

 チョコの話だ。そういうことにしておけ。


 そう言い聞かせても、喉の奥の熱が、ぜんぜん引かなかった。

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