第72話 編集長手当と、赤い耳
年末年始は、四人で初詣に行った。
去年は、まいと並んで参拝してたら、偶然、桜井と西村に合流した。
おみくじを引いて、じゃがバタの話で騒いで。
それで、列の隙間で桜井が口だけ動かしてきた“答え合わせ”を、まだ覚えている。
今年は最初から四人で集合だった。
佐伯が加わって、参拝の列に並ぶ間もずっと賑やかだった。
おみくじは四人とも中吉で、西村だけが「全員同じって逆にレアじゃない!?」と騒いでいた。
そこから一ヶ月半。
季節はあっという間に、例のイベントまで進んでいた。
二月十四日。
教室の空気は、去年とほとんど同じだ。
男子のそわそわ。
女子の島からこぼれる包装紙のガサガサ音。
黒板の隅に書かれた行事予定に、やっぱり「バレンタイン」の文字がある。
(去年は"一年B組女子一同"の義理チョコでゼロ回避して、夜に桜井に呼び出されて公園に行った)
あの夜のことを思い出すと、今でもポケットの中の右手が勝手に握りしめられる。
冷え切った空気の中で、指先が紙袋ごしに一瞬だけ触れた感触。あの熱さ。
(……考えるな。今日はただの二月十四日だ。放課後は、いつもどおり四人で集まるだけ)
——いつもどおり、のはずなのに。
朝からずっと、鳩尾のあたりが落ち着かない。
ホームルームが終わる。
「はい、恒例の義理配布タイムでーす!
今年もクラス合同でやるから、余計な深読みしないように!」
西村が仕切る。去年と同じ光景。
ただ、仕切りの手際が格段に上がっている。二年目の貫禄だ。
僕の机にも小袋が置かれた。
今年は「二年B組女子一同」と書かれている。
「はい湊、ゼロ回避おめでとー」
「毎年ありがとう、西村さん」
「礼はうちじゃなくて女子全員に言いなよ」
西村はにっと笑って、次の席に移った。
義理チョコはものの五分で配り終わっていた。
速い。去年より確実に速い。
そのあとは授業がだらだらと続いて、教室の空気は行事予定のテンションをじわじわ失っていった。
◇
放課後のチャイムが鳴る。
帰る生徒がぱらぱらと席を立つ中、僕たち四人はいつもどおり教室に残っていた。
新聞係が放課後に居残るのは、もうすっかり恒例だ。
周りも「またやってるな」くらいの顔で横を通り過ぎていく。
最後のひとりが教室を出ると、西村が待ってましたとばかりに手を叩いた。
「よし! 編集部(仮)バレンタイン交換会、はじめまーす!」
「……名付けなくていいよ、そういうの」
佐伯が窓際の椅子から手帳に目を落としたまま言う。
「名前ないとテンション上がんないの!
はい、わたしからね」
西村が小さな袋を三つ、机の上に並べた。
透明のラッピングに、カラフルなリボン。
中身はクッキーらしい。
「ひとり三枚ね。わたしの手作り」
「おー、西村さんの手作りって珍しくない?」
「珍しいでしょ? ちなみに原価はひとり百二十円くらい」
「……それ言っちゃうんだ」
「サエに『見合ってない』って言われる前に自己申告しとく。予防線」
「……言わないよ。合理的だし」
佐伯がクッキーの袋を受け取り、一枚取り出して口に入れた。
咀嚼。三秒の沈黙。
「……バターの配分がいい。市販品より上」
「えっ、褒めてくれんの? サエが?」
西村の声が裏返った。
「事実を述べただけ」
佐伯はそう言いながら、もう一枚手を伸ばしていた。
言葉と手が一致していない。
たぶんこれが、佐伯なりの最大級の誠実さなのだろう。
「じゃ次、サエの番!」
西村が佐伯を指さす。
「……はい」
佐伯がカバンから小さな紙箱を三つ取り出した。
箱のデザインは素っ気ないが、ブランドのロゴはしっかりしている。
「補給用。……湊、最近顔が疲れてる」
佐伯が三人の前にひとつずつ箱を置いた。
「……佐伯さん、ストレートだね」
「事実だから。君が止まると新聞が止まる。糖分で回復して」
「ありがとう。……顔、そんなに疲れてるように見える?」
「鏡見たら分かるよ」
返す刀が速い。
なんとなく、想像してたとおりの渡し方だった。
「サエのチョコ、パッケージめっちゃシンプルなのに中身いいやつじゃん」
「包装にコストかけても中身は変わらない」
「出た、サエ語録」
西村と佐伯のやり取りを聞きながら、僕は箱を受け取った。
手のひらに収まる、佐伯らしい質量だった。
「ありがとう、佐伯さん」
「うん。三月号まで倒れないで」
それだけ言って、佐伯はまた手帳に視線を落とした。
西村が桜井のほうを向いた。目が笑っている。
「はい、ラスト。すみれの番」
「……うん」
桜井が、足元の紙袋に手を入れた。
最初に出てきたのは、小ぶりの袋が二つ。
リボンの色が違うだけで、大きさや包装は同じだ。
「千夏と凛ちゃんの分。いつもありがとう」
「おー、ありがと!」
「……ありがとう」
西村が嬉しそうに袋を受け取り、佐伯も手帳から顔を上げて小さく頷いた。
そして桜井は、もう一度紙袋の中に手を入れた。
出てきた箱を見て、僕は固まった。
片手に収まるくらいの大きさだけど、深い紺色の箱に、金のリボン。
さっき西村と佐伯に渡した袋とは、明らかに違う。
「……待って」
僕は思わず声を出した。
「さっきの二つと、だいぶ違わない?」
「違わないよ」
桜井が即答した。声は平坦。
淡々としたトーンに聞こえる。
「これは『編集長手当』。安藤くんが一番やってること多いから、その分だけ差をつけただけです」
「いやでも、構成とか校正とか、佐伯さんもやってるし——」
「安藤くんはそれに加えて写真選定もやってるでしょ?
差があるのは事実だよ」
理屈は通っている。
去年の「業務上の正当な報酬」から、今年は「編集長手当」。
ラベルだけ毎年変わる。けど、この箱は……。
桜井が箱を差し出す。
「はい、どうぞ」
受け取ろうとして、僕の指と桜井の指が触れた。
ほんの一瞬。
指先同士が重なった。
——去年の夜の公園と、同じ熱さだった。
桜井の手がぴくっと引っ込んだ。
そこから、桜井が変わった。
さっきまで普通に目を見て話していたのに、急に視線が泳ぎ始めた。
僕の顔の少し横——たぶん黒板の端あたり——を見たまま、まばたきが早くなっている。
箱を受け取る。
両手に、しっかりとした存在感が伝わった。
そのとき、桜井が耳にかかっていた髪をかき上げた。
何気ない仕草のはずだった。
でも——
でもその仕草のせいで、隠れていた耳が見えた。
赤い。
教室の蛍光灯の下で、誤魔化しようがないくらい、はっきりと。
首筋まで紅が差している。
(……桜井)
「……あ!」
桜井が急に立ち上がった。
椅子が軽くガタッと鳴る。
「私、用事思い出したから先帰るね。お疲れ!」
速い。
声のトーンはいつも通りなのに、カバンを掴む手の動きがちぐはぐだ。
紙袋を肩にかけ損ねて、一度やり直している。
「え、すみれ? まだ——」
西村の呼びかけは、閉まるドアの音にかき消された。
廊下を歩く足音が、小走りに変わるのが聞こえた。
静寂。
机の上には、紺色の箱。
金のリボン。
『編集長手当』
僕と西村と佐伯が、閉まったドアを見つめている。
最初に口を開いたのは、西村だった。
「……ねえ湊」
「……なに」
「今の見て『手当』って信じるなら、あんた本物のバカだからね」
西村の声に、いつもの茶化すようなトーンはなかった。
「……手当だよ。本人がそう言ってたし」
自分でも、声が上ずっているのが分かった。
「……あの子、自分がどういう顔してたか全然分かってないよ」
西村がため息混じりに呟いた。
呆れているような、微笑ましいような、どちらとも取れる声だった。
「……均衡維持のための言い訳だね」
佐伯が、手帳を閉じながら言った。
「本人は本気で『手当』だと思ってる。
でも、あの箱を選んだ時点で……合理性の範囲を超えてる、たぶん」
佐伯の声が、少しだけ柔らかかった。
西村が椅子の上であぐらをかき直す。
「あ、そういえばさ」
声の温度が、一段だけ下がった。
さりげなさを装った、情報の投下。
「この前すみれに聞いたんだけど。文化祭のとき、告白されたの断ったんだって」
心臓が跳ねた。
文化祭。
自販機コーナー。
あの廊下の角から見えた、知らない男子の横顔と、桜井の背中。
「……そうなんだ」
声が擦れる。
絞り出すように、平静を装う。
「理由がさ、すみれらしいっていうか。『今の放課後がなくなりそうだから』だって」
西村がこちらを見ている。真っすぐに。
今の放課後。
この教室。
四人で集まるこの時間。
(……それは)
胸の奥で、何かが軋んだ。
肩の力がふっと抜ける。
同時に、その脱力が悔しかった。
ほっとしていい立場じゃないのに。
『手当』を受け取っただけの人間が、何を安心しているんだ。
「……勘違いだったら、立ち直れないよ」
口をついて出た言葉は、思ったよりずっと本音だった。
西村が一瞬、目を見開いた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……バカ。本物のバカ」
二回目だ。でも今度は、声に棘がなかった。
佐伯が静かに立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
冷たい二月の風が、教室の空気を入れ替える。
「あ、もうひとつ」
西村が、思い出したように付け足した。
「すみれ、最近スマホでなんか書いてるよね」
「書いてる?」
「うん。メモアプリっぽいやつ。
でも、画面覗こうとするとめっちゃ素早く隠すの。
日記とかかなぁ。すみれってそういうの書きそうだし」
僕は何も言えなかった。
桜井が何かを書いている。
以前、「自分だけの言葉で書いてみたい」と言っていたことを思い出す。
たぶんその延長だろう。でもそれ以上踏み込む権利が僕にあるのかは、分からない。
「……たぶん、何か書きたいものがあるんだと思う」
「えー、そこ気にならないの? 鈍いなぁ」
西村が頬杖をついて、呆れたように笑った。
佐伯がカバンを肩にかけ、ドアに向かう。
「私も帰る。……湊」
「ん?」
「チョコ、ちゃんと食べて。補給も、手当も」
佐伯はそれだけ言って、教室を出た。
西村も「うちも帰るわ」と跳ねるように椅子を降り、ドアの前で振り返った。
「ねえ湊。一個だけ言っとく」
「……なに」
「すみれがあんたを選んでる理由、あんた自身が一番分かってないよ」
西村はひらひらと手を振って、廊下に消えた。
一人になった教室。
机の上には、紺色の箱。
触れると、まだ桜井の指の温度が残っている気がした。
リボンを指先でなぞる。
金色の細い紐が、蛍光灯の光を受けて鈍く光った。
心臓が早鐘を打っている。
さっきから、ずっと。
(もし、あの箱が『手当』じゃなかったら)
その仮定が、頭の中で何度もリフレインする。
(もし期待して踏み込んで、勘違いだったら)
この放課後は終わる。
四人の編集部は崩壊する。
桜井は気まずそうに笑って、僕は観察席に座ることすらできなくなる。
渡す瞬間まで、あの箱はちゃんと『手当』だったんだろう。
でも指が触れた瞬間に、何かがはみ出した。
それを見た僕に、名前をつける資格はあるのか。
(……ない。まだ、ない)
(彼女が用意してくれた『手当』という名前に、僕も乗っかるしかない)
箱を持ち上げる。
重い、確かな手応えがあった。
窓の外では、二月の夕焼けが校舎の壁を淡く染めていた。
リボンの端が、開いた窓から入る風に揺れた。
桜井の耳が赤かったこと。
目が泳いだこと。
逃げるように帰ったこと。
全部、覚えている。
観察係だから。
——いや。
観察係じゃなくても、覚えていただろう。
箱をカバンにしまう。
丁寧に、潰れないように。
帰り道で傾かないように、教科書で左右を固定した。
教室を出る。
廊下は静かだった。
放課後の喧騒はとっくに遠ざかり、窓の向こうに見える空だけが、ゆっくりと色を変えていく。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面を見る。
桜井すみれ。LINE。
『さっきはごめん、急に帰っちゃって』
『用事ってほどの用事じゃなかったかも』
『……チョコ、口に合わなかったら言って。来年の参考にするから』
来年。
また、来年の話をしている。
桜井はいつもそうだ。
『来年も』を、まるで明日の天気みたいに口にする。
僕がここにいることを、疑っていないように聞こえる。
その無防備さが、一番心臓に悪い。
返信を打つ。
指が何度か止まって、結局こうなった。
『大丈夫。まだ食べてないけど、箱を開ける前から期待値が高い』
『感想は後日、三行以内で提出します』
送信。
三秒で既読がついた。
『三行って去年と同じルールじゃん』
『覚えてるんだ』
覚えている。
あの公園のベンチも、カイロの温度も、『感想は三行まで』の小さなメモも。
全部。
『観察係なので。記録は残ってます』
『……ずるいなぁ、そういうの』
その一言のあと、十秒ほどの沈黙。
結局、送られてきたのは短い一文だった。
『来年も、よろしくね。編集長』
画面を閉じた。
帰り道、カバンの中の紺色の箱が、歩くたびにかすかに揺れる。
三行以内の感想。
約束した以上、書かないといけない。
帰宅して部屋に入り、机の上に箱を置いた。
リボンを解いて、蓋を開ける。
一粒、口に入れた。
——五分後、僕はメモ帳を前にして固まっていた。
おいしい。おいしいのだが、三行に収まらない。
「おいしかった」では足りないし、「すごくおいしかった」では語彙力が死んでいる。
そもそも味の感想を三行で伝えろというのが無理な話で——
結局その夜、僕は原稿の推敲より長い時間をかけて、チョコの感想文と格闘していた。




