第71話 閑話 佐伯凛は、自分の笑顔を見つける
大晦日。
結論から言うと、私は自分の部屋で、スマホのメモアプリを睨んでいた。
十二月三十一日、午後三時。
階下ではテレビがつけっぱなしになっていて、母親が年越しそばの準備をしている音がする。弟はリビングのソファを占拠して、配信仲間と通話中らしい。笑い声が二階まで漏れてくる。
私の部屋だけが静かだ。
机の上に、ノートパソコン。
画面には、一年分のフォルダが並んでいる。
『クラス新聞_4月号』『取材メモ_体育祭』『文化祭_構成案_v3』『修学旅行_総括メモ』『12月号_最終入稿データ』。
年末の整理。データの棚卸し。
不要なファイルを削除して、必要なものだけ残す。
これが、佐伯凛の大晦日の過ごし方だ。
……われながら、高校二年生の年末の使い方としてはどうかと思う。
でも、散らかったデータを年越しさせるほうが気持ち悪い。
フォルダを順番に開いていく。
四月の転校初日。教室の配置をメモしたテキストファイルと、担任から配られたプリントの写真。あの時はまだ誰の名前も覚えていなかった。五月の新聞第一号には「読者の反応が想定以下」と赤字のメモが残っている。
六月。体育祭の取材データ。写真のファイル数が異様に多い。ほとんどが構図テスト用で、使えたのは三枚だけだった。
効率、悪い。
でも、あの三枚は良かった。
すみれが「これ全部載せたい」と言って、紙面から溢れそうになったのを、「物理的に不可能」と返した記憶がある。
……あの頃は、まだ「すみれ」じゃなかった。「桜井さん」だった。
十月。文化祭。
このフォルダだけ、ファイル数が飛び抜けて多い。
構成案のバージョンが七まである。没になったレイアウト案。深夜に書き直したコピー。
あの期間は、正直しんどかった。
すみれとぶつかって、千夏に仲裁されて、湊に翻訳してもらって。
でも、出来上がったものは――悪くなかった。
十一月。修学旅行。
フォルダを開いた瞬間、指が止まった。
『修学旅行取材・総括メモ』。
あのバスの中で書いたメモだ。
スクロールしていくと、最後の行が目に入る。
『例外処理:安藤湊――棄却不可。採用』
……ひと月ちょっと前の私は、よくこんなことを書いたな。
削除するか。
指がメモの上で止まる。
……やめておこう。
あの時の判断は、間違っていなかった。
棄却不可。データとして正しい。
湊は例外だった。私の分析をすり抜ける唯一の人で、理屈で片づけられないノイズで。
……でも、もういい。
ノイズはノイズのまま、フォルダの奥にしまった。
名前はつけなかった。つける必要がなくなった。
あの帰りのバスで見た光景を、私はまだ覚えている。
窓ガラスに映った、湊の背中。すみれの頭がゆっくり傾いていくシルエット。
暗いバスの中で、彼は避けなかった。
あの場所は、私のものじゃない。
事実を受け入れるのは、分析屋の基本動作だ。感情で結果を捻じ曲げるのは合理的じゃないし、何より結果が落ちる。
――結果が落ちるのは、嫌。
それだけ。
そう、それだけだ。
メモアプリを閉じて、写真フォルダを開いた。
十二月の写真。
先週のイルミネーション。
タイマーで撮った四人の集合写真が、カメラロールの最後に入っている。
左から、私、千夏、すみれ、湊。
千夏はピース。すみれはコートの裾を握っていて、湊は目線がやや上にずれている。
そして私は——
「……笑ってるじゃん、私」
声に出ていた。自分の唇が動いたことに、一拍遅れて気づく。
口角が上がっている。ほんの少しだけ。
意識していなかった。千夏に腕を引っ張られて列に加わったとき、「撮る側がいい」と思っていたはずなのに。
タイマーのカウントダウンが点滅して、シャッターが切れた一瞬。
私は、笑っていた。
……計算外。
いや、もうこの言葉は今年使いすぎた。
写真を長押しして、お気に入りフォルダに移動する。
ファイル名はつけない。ただ、消さない場所に置くだけ。
そのとき、スマホが震えた。
LINE。千夏。
『明日の初詣! 朝9時に駅前集合ね!!』
スタンプが三つ連続で送られてきている。犬が跳ねているやつと、猫が「いこ!」と叫んでいるやつと、熊がマフラーを巻いているやつ。
……情報量がゼロだ。スタンプの方は。
先週のイルミネーションの帰り道で、千夏が「初詣行かない?」と言い出したとき、私は「予定を確認してから答える」と返した。
千夏は「それ『行く』って意味でしょ」と笑った。
正式には返事をしていない。
……していないのだが、千夏はもう集合時間まで決めている。
既読をつけて、三秒考える。
『朝9時は非効率。元日の朝は混む』
送信。
四秒で返信が来た。
『じゃあ何時がいいの~~?』
『10時』
『了解!! サエが時間指定してくるの珍しい~~ もう知ってるよ、それ「行く」だよね~~~』
……だから、翻訳するなと言ってるのに。
私はスマホを伏せて、カレンダーアプリを開いた。
一月一日の欄に、「初詣 10:00 駅前」と入力する。
指が迷いなく動いたことに、自分で眉が下がるのが分かった。
スマホを机に戻す。
ふと、カバンが視界に入った。
冬休みに入ってからずっと、椅子の横に置きっぱなしだ。
カバンのサイドポケットに手を入れる。
指先に、小さなプラスチックの感触。
眼鏡をかけた鹿のキーホルダー。
千夏が修学旅行のサービスエリアで買ってきた、おそろいの片割れ。
先週のイルミネーションの帰り道でも、コートのポケットに移し替えていた。指先に触れたのを覚えている。
捨てなかった。
でも、つけもしなかった。
手のひらに乗せる。
安いプラスチック。塗装が微妙にはみ出ている。鹿の眼鏡のフレームが左右で太さが違う。
どう考えても百五十円くらいの代物だ。
……なのに、ここにある。
ペンケースを取り出す。紺色の、ファスナー式。毎日学校に持っていくやつ。
ファスナーに、小さな金具のリングがついている。ストラップを通すための、最初からある輪っか。
私は眼鏡鹿のチェーンを、その輪っかに通した。
カチ、と留め具が閉まる。
ペンケースを持ち上げると、眼鏡鹿がぶら下がって、小さく揺れた。
……ファスナーの内側。
開けたときに手が触れる位置だけど、閉じていれば外からは見えない。
隠すけど、捨てない。
データはフォルダの奥に。キーホルダーはペンケースの内側に。
表に出さないけど、消去もしない。
それが、佐伯凛のやり方だ。
ペンケースをカバンに戻して、机に座り直す。
今年得たもの。
一つ。「例外」のデータ。処理に失敗して、でも壊れなかった記録。
一つ。「計算外」の友人たち。千夏の翻訳速度と、すみれの真っ直ぐさ。
一つ。自分も笑える集合写真。
来年の目標。
このチームを維持すること。三月号は十二月号を超える。それは確定事項。
あと、千夏のペースに巻き込まれすぎないこと。
……無理だろうけど。
テレビの音がふいに大きくなった。母親が「凛ー、おそばできるよー」と呼んでいる。弟が「先に食べるー!」と叫んでいる。
立ち上がる。
部屋を出る前に、振り返った。
机の上のノートパソコン。整理の終わったフォルダ。お気に入りに入った集合写真。
カバンの中のペンケースには、ファスナーの内側で眼鏡鹿が揺れている。
一年分のデータは、全部残した。
不要なファイルはなかった。
……一件も。
階段を降りながら、スマホをもう一度見る。
千夏からの追加メッセージ。
『すみれと湊にも送った! 10時でOK出た!! あとサエのおみくじうちが引いとくね!!』
勝手に引かないでほしい。私のおみくじは私が引く。
返信を打つ。
『自分で引く。勝手に代理しないで』
即レス。
『おっ サエからの正式な「行く」いただきました~~!!』
……結局、翻訳される。
画面を閉じた。
口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのは分かっていた。
直さなかった。
今日くらいは、いい。
階段の下から、年越しそばの出汁の匂いが漂ってくる。弟の笑い声。母親の「熱いから気をつけて」。
普通の大晦日だ。
去年の大晦日がどうだったか、正直あまり覚えていない。
たぶん、同じように部屋でデータを整理して、同じようにそばを食べて、同じように年を越したのだと思う。
でも去年の引き出しには、眼鏡鹿はなかった。
去年のカレンダーには、「初詣 10:00 駅前」はなかった。
去年の写真フォルダには、四人で笑っている集合写真はなかった。
年末のアーカイブ、完了。
来年のフォルダは——まだ空だ。
明日から、埋めていく。




