第70話 二人の記憶と、四人の写真
期末テストが終わった。
テスト期間の一週間は、あっけないくらい早く過ぎた。
あの放課後に完成させた新聞も、テスト明けに配られて、教室の後ろのコルクボードに貼り出されている。
十二月の最終週。答案返却も終わり、教室には冬休み前特有の弛緩した空気が流れていた。
黒板には先生が書いた「冬休みの課題一覧」がびっしりと並んでいるが、誰もメモを取っていない。そういう日だ。
「打ち上げ! 打ち上げしよう!」
西村が、四時間目の終了チャイムと同時に声を上げた。
「テスト明けの打ち上げ! イルミネーション見に行こ! 駅前、今年もやってるってインスタで見た!」
「……打ち上げにイルミネーション?」
「テスト頑張ったご褒美に、きれいなもの見るの。最高でしょ」
西村の理屈は毎度シンプルだ。やりたいからやる。理由は後からつける。
「サエも行くよね?」
「……今日?」
「善は急げ、ってやつ」
「急いでるのは善意じゃなくて千夏の衝動だと思うけど」
佐伯が淡々と返したが、ペンケースをカバンにしまう手は止まらなかった。
つまり、行く気はあるらしい。
「すみれは?」
「うん、行く行く。安藤くんも行くよね?」
桜井が、当然のように僕の方を向いた。
選択肢を与えない笑顔だ。
「……まあ、予定はないけど」
「決まり!」
西村が拳を突き上げる。
僕は内心、少しだけ身構えていた。
駅前のイルミネーション。去年も行った場所だ。
ただし去年は、二人だった。
◇
夕方、五時半。
駅前ロータリーは、去年と同じ白い光で埋め尽くされていた。
街路樹に巻きついたLEDが枝の形をなぞり、駅ビルのガラス面にはスノーフレークのプロジェクションが映し出されている。
簡易ツリーも健在だ。去年よりひと回り大きくなった気がする。
「おー! めっちゃきれい!」
西村がスマホを掲げた。改札を出て三秒で撮影を始めている。
「駅ビルの投影、力入ってるね。ツリーとの色の組み合わせも計算されてる」
佐伯が冷静に分析する。イルミネーションを見ても感動の前に構造が出てくるのが、この人らしい。
「去年は二人で行ったんでしょ? 今年はうちらも混ぜてよね」
西村が、カメラを構えたまま振り返った。
心臓が跳ねた。
「去年は取材だったの!」
桜井が、僕より先に声を上げた。
声が半音高い。
「あー、はいはい。取材ね。二人きりの取材ね」
「千夏、その言い方やめて」
「間違ってないよ」
佐伯がぼそりと援護射撃を入れる。味方のふりをした砲弾だ。
「凛ちゃんまで……!」
桜井がマフラーの中に顔を沈めた。
耳の先端が、イルミネーションの白い光の下でも分かるくらい色づいている。
僕は視線をツリーに逃がした。
去年のことを思い出す。まいにスーパーの袋ごと置き去りにされたこと。桜井の「ガードマン」という雑な肩書き。缶ココアの熱さ。「共犯者が必要なの」という、冬の空気によく通る声。
あれは確かに、取材だった。
取材だったのだと、僕も思っておきたい。
「はい、そこ並んで!」
西村が、突然僕と桜井の肩をそれぞれ掴んだ。
「え、なに」
「ツリーバックでツーショット撮るの! ほら、もうちょい寄って!」
「いや、別に僕は——」
「寄る!」
西村に背中を押され、桜井との距離が半歩詰まった。
コートの袖が触れる距離。桜井はマフラーに顔を埋めたまま、抵抗しなかった。
「千夏、強引すぎ……」
「はいチーズ!」
パシャ、と軽い音。
「もう一枚! 湊、顔死んでるからもうちょい自然に!」
「自然にって言われて自然にできる人間いないだろ」
「すみれー、もうちょい湊の方に寄ってー」
「……これ以上は無理だよ」
桜井の声がマフラーの中でくぐもる。
でも、離れようとはしなかった。
佐伯は僕たちから少し離れた場所に立って、自分のスマホを構えていた。
ツーショットではなく、西村が写真を撮っている僕たちを含めた全体を、引きの構図で撮っている。
記録者のポジション。
被写体の中に入らず、でも確実に残す。
「サエも入りなよ!」
西村が佐伯の腕を引っ張った。
「……いい。私は撮る側で」
「ダメ。四人で撮るの。タイマーあるでしょ」
佐伯は一瞬だけ逡巡したが、西村の手を振り払わなかった。
西村がスマホをツリー横のポールに立てかけ、タイマーをセットする。
「十秒! 走って!」
西村が佐伯を引きずるように列に加わる。
左から、佐伯、西村、桜井、僕。
タイマーのカウントダウンが点滅する。
佐伯は姿勢を正したまま、正面を見ている。
西村はピースサイン。桜井はどこに手を置けばいいか迷っているみたいに、コートの裾を握っていた。
パシャ。
「よし! いい感じ!」
西村が回収したスマホの画面を覗き込む。四人が横一列に並んだ、少しぎこちない集合写真。
「……悪くない」
佐伯が画面を一瞥して、静かに言った。
◇
人の波に流されながら、駅ビル二階のデッキに上がった。
去年と同じ場所だ。手すりに沿った青と白のライトが点滅し、眼下のロータリーには車のテールライトが赤い川を作っている。
去年は、桜井と二人で端っこに避難した場所。
今年は、四人で真ん中あたりに立っている。
「あったかいの飲みたーい」
西村が自販機の方を指差す。佐伯が「カフェオレ」とだけ言って財布を取り出した。
「桜井さん、ココアでいい?」
気づいたら、口が動いていた。
桜井が目を丸くする。
「え、いいの?」
「自販機、すぐそこだし」
去年は桜井が二缶買ってきた。「はい、給料」と言って。今年は、僕が行く番だ。
四人でいるなら、友達に飲み物を買うだけの話だ。それだけの話のはずなのに、自販機に向かう足取りが妙に早い。
温かい缶ココアを二つ——一つは自分の分——買って、戻る。
佐伯と西村はカフェオレの缶で手を温めながら、デッキの手すりに肘をついていた。
「はい」
桜井に缶を差し出す。
「ありがとう」
桜井が受け取って、笑った。
特別なことではない、という顔。いつもの笑み。
それだけだ。
それだけなのに、缶を渡した右手が、ポケットに戻しても熱を持っていた。
「……去年と逆だね」
桜井が、缶を両手で包み込みながら呟いた。
「去年は、私が買ってきたでしょ」
「覚えてるんだ」
「当たり前じゃん。『現物支給かよ』って言ったの、安藤くんだよ」
僕のセリフまで正確に覚えている。
指摘する気力はなかった。僕だって、「はい、給料」を覚えているのだから。
「今年は安藤くんがおごってくれるんだ。出世したね」
「出世というか、去年の返済というか」
「じゃあ来年はまた私の番だね」
来年。
その一語が、胸のどこかに落ちて、小さな波紋を作った。
桜井は来年の話を、さも当然のようにする。
来年もこの場所にいること。来年も僕がここにいること。それが前提になっている。
視線を逸らす。
イルミネーションの白い光が、冬の空気に滲んでぼやけて見えた。
「あ、ねえ見て。この角度だと、ツリーの上のほうの飾りが星に見える」
桜井が手すりから少し身を乗り出した。
コートの裾が揺れて、ココアの缶が傾く。
「こぼすよ」
「大丈夫、持ってるし」
大丈夫じゃない持ち方をしている。
僕は何も言わず、桜井のコートの裾を軽く引いた。
引きすぎないように。でも、手すりから落ちない程度に。
桜井が振り返る。
少し驚いた顔。でもすぐに、ふっと目尻が下がった。
「……ガードマン、健在だね」
「契約更新したんで」
桜井が「何それ」と小さく笑った。
去年、桜井が言った「独占契約」の延長線上にある言葉だ。たぶん桜井も分かっている。分かっていて、笑っている。
少し離れた場所で、佐伯がスマホの画面を見つめていた。
さっき撮った集合写真を確認しているらしい。
「……文集に使えるかも」
佐伯の呟きは、イルミネーションの喧騒にほとんどかき消された。
でも僕の耳には、不思議と届いた。
◇
デッキを降り、駅の南口から住宅街へ向かう帰り道。
いつの間にか、隊列が分かれていた。
西村と佐伯が前を歩き、僕と桜井が少し後ろ。
西村が佐伯の腕を取って何か話しかけているのが見える。佐伯は迷惑そうな顔をしているが、振り払わない。
冬の夜道は暗い。街灯がぽつぽつと並び、吐く息だけが白く浮かぶ。
「……去年より、賑やかだったね」
桜井が、前を歩く二人の背中を見ながら言った。
「……うん。でも、去年も悪くなかったよ」
僕が答えると、桜井の歩みが一瞬止まった。
半歩。ほんの半歩だけ遅れて、また歩き出す。
横を見ると、桜井はマフラーに顔を埋めていた。
目から上だけが見えている。街灯の光が、その瞳に小さく映り込んでいた。
「……うん」
マフラーの奥から、くぐもった声。
「去年も、よかった」
それだけ言って、桜井は少しだけ歩く速度を上げた。
僕の半歩前に出て、追いつかせないくらいの距離を保つ。
でも、離れていくわけでもなかった。
マフラーから覗く耳が、街灯の下で赤い。
寒さのせいだと、思っておくことにした。
前を歩く佐伯が、ふと右手をコートのポケットに入れた。
何かに触れたのか、歩みが一瞬だけ止まる。
すぐにまた歩き出して、何事もなかったように前を向いた。
ポケットの中に何があったのか、僕には分からない。
ただ、佐伯の横顔が、ほんの一瞬だけ柔らかくなったように見えた。
「ねー、年末どうする? 初詣とか行かない?」
西村の声が、夜の住宅街に響く。
「気が早いよ、千夏」
「いいじゃん。四人で行こうよ、初詣!」
「……予定を確認してから答える」
「サエ、それ『行く』って意味でしょ」
「……好きに解釈して」
前方で続く軽い口喧嘩を聞きながら、僕はポケットの中のスマホに触れた。
去年は、二人だけの時間だった。
今年は、四人の思い出になった。
どちらがいいかなんて、比べるものじゃない。
ただ——隣にいるのが同じ人なら、どちらでも悪くない。
桜井が、半歩前を歩いている。
マフラーに顔を埋めたまま、時々こちらを振り返る。目が合うと、すぐに前を向く。
その仕草が繰り返されるたびに、ポケットの中の右手が少しだけ熱くなった。
名前はまだつけない。
つけたら、この距離が変わってしまう。
でも、来年もここにいるだろうという予感だけが、冬の夜道を歩く足取りを、少しだけ軽くしていた。




