第7話 テスト前、キャラ変する教室
期末テスト一週間前の教室は、いつもと空気の色が違う。
普段なら、真ん中の席から笑い声がひっきりなしに飛んできて、
窓際の僕の席まで、軽いBGMみたいに届いてくる。
でも今は、そのBGMが、だいぶボリュームダウンしていた。
「ここ、明日テスト出るぞー。ちゃんと線引いとけよー」
中村先生の声と、マーカーが板書をなぞる音。
ノートにシャーペンを走らせる音が、いつもよりはっきり聞こえる。
真ん中の席をちらっと見ると、桜井も前のめり気味にノートを取っていた。
いつもの「はい出ました桜井語録」のテンションではなく、
ちゃんと「テスト前の優等生モード」の顔だ。
(……ちゃんとやるときはやるよな、この人)
当たり前だけど、人気者=勉強してない、ってわけじゃない。
板書を写すスピードも速いし、
たまに先生が例題を出すと、さっと答えを出しているのを何度か見たことがある。
ただ、普段はそれをあんまり前に出さないだけだ。
(テスト前になると、みんな“隠し属性”を出してくるよな)
普段はうるさいやつが、急に黙々とワークを解き始めたり。
いつも静かなやつが、「ここ分かる?」とひそひそ声で質問してきたり。
そういう変化が、教室のあちこちで起きている。
その変化に、僕も巻き込まれていた。
◇
「安藤〜、ここ教えてくれない?」
数学の授業が終わった直後。
教科書を閉じようとしたところで、前の席の大木がくるっと振り向いてきた。
「この二次関数の、グラフの交点求めるやつ」
「ああ、そこか」
黒板の例題とはちょっと数字を変えた応用問題。
途中までは合っているけど、計算の最後でミスっているパターンだ。
「ここまではいいんだけどさ」
「それ、こっち移項するときに符号ひっくり返すだろ」
「あっ……」
「で、そのまま代入して二つ解が出るから、あとは座標にして……」
ペンを借りて、大木のノートの端にさっと計算を書いていく。
途中で、隣の席の奥野も身を乗り出してきた。
「あ、それ俺も分かんなかったとこだわ」
「じゃあ一緒に見とけば」
結局、周りの二、三人も混ざってきて、
気づけば僕の席の周りに、ちょっとした「ミニ補習コーナー」ができあがっていた。
「安藤、塾行ってんの?」
「行ってないけど」
「なんでそんな分かるんだよ」
「いや、さっきの授業でほぼ同じのやってたし」
「マジか。ちゃんと聞いてなかった自覚はある」
大木が頭をかきながら笑う。
その後ろで、奥野が「あとで写真撮らせて」とノートを指さしてきた。
「自分で書けよ」
「それはそれ、これはこれ」
適当なことを言い合いながらも、
ノートには一応みんなそれぞれ赤ペンでポイントを書き込んでいる。
(……まあ、“教える係”は嫌いじゃないんだけど)
こういうときだけ、ちょっとだけ「役に立ってる感」があるのは事実だ。
ただ、前に立って黒板を使うようなガチの説明役にされると、
それはそれで目立ちすぎてやりづらい。
今くらいの、机の周りに数人が集まる距離感が、
個人的にはいちばんちょうどいい。
ふと視線を上げると、真ん中の席のほうで、
桜井がこっちをちらっと見ているのが分かった。
目が合うと、軽く会釈してくる。
僕も、ペンを持ったまま小さく頷いて返した。
それで会話が生まれるわけでもないけど、
「お互い、テスト前モードだね」という無言の確認みたいなものはあった気がする。
◇
放課後。
テスト前ということもあって、部活の時間は少し短縮されているらしい。
それでも、運動部の連中はグラウンドに出ていって、
文化部はそれぞれの部室や教室に散っていく。
僕は、教室で数学のワークを一ページ分だけ進めたあと、
ノートを閉じた。
(……場所変えるか)
教室も悪くないけど、誰かが問題を持ってきたら、そのたびに手が止まる。
さっきの大木たちみたいに、教える側になるのは嫌いじゃない。
嫌いじゃないけど、自分の勉強もそろそろ真面目にやらないと、
テストの結果が死ぬのは僕だ。
(静かで、誰も来なさそうなとこ……)
頭の中で校内マップをめくる。
図書室は、この時間帯ならそんなに混んでないはずだ。
自習してるやつが数人いるくらいで、声をかけられる可能性も低い。
そう判断して、僕は教科書とノートをカバンに突っ込んだ。
◇
図書室の前の廊下は、思った通り静かだった。
窓の外から、グラウンドの掛け声がかすかに聞こえるくらい。
さっきまで教室にいたときより、世界の音が一段小さくなった感じがする。
ドアの前で、一応「満席だったらどうしよう」と一瞬だけ考えてから、
ノブに手をかけた。
がらり。
ひんやりした空気と、本の匂いがふわっと押し寄せてくる。
中は、ほぼ予想通りの光景だった。
本棚の間に、数人の生徒が点々と座っている。
教科書を開いているやつもいれば、小説を読んでいるやつもいる。
そして。
窓際の一番奥のテーブルに、見慣れた後ろ姿があった。
(……いた)
桜井だ。
問題集と、ノートと、シャーペン。
その三点セットだけを机の上に並べて、黙々とシャーペンを走らせている。
真ん中の島で見せる「中心モード」でもなく、
屋上や雨の日に見せた「エッセイモード」でもない。
多分これは、「テスト前の普通の高校生モード」だ。
誰に話しかけるでもなく、ただ自分の目の前の問題と向き合っている横顔。
図書室の静けさのせいもあって、教室で見るときより少し大人っぽく見えた。
僕は、どうしようか一瞬迷う。
(ここでスルーして別の席行くのも、逆に不自然だよな)
屋上で話して。
雨の日に会議の話をして。
コンビニでLINEを交換して。
そこまでしておいて「図書室では見なかったことにする」は、
さすがにモブをこじらせすぎだ。
そう自分に言い聞かせて、足をそっちに向けた。
近づく途中で、桜井がふっと顔を上げる。
目が合った。
「あ、安藤くん」
小声なのに、ちゃんと届くくらいのボリュームで。
「ここ、穴場なんだよ」
開口一番が、それだった。
「穴場?」
「うん。みんな“勉強しなきゃ”って言いながら、結局教室か、ファミレスか、家でやるじゃん」
「まあ、そうだね」
「図書室は“真面目に勉強してそうな人しかいない”ってイメージあるから、逆に近寄ってこないんだよね〜」
指先で問題集の角をつんつんしながら、桜井は笑う。
「だから、集中したいときはここ来ること多いかも」
「人気者の隠れ家ってやつ?」
「隠れ家ってほどオシャレじゃないけどね」
そう言ってから、隣の席を軽く顎で示した。
「座る?」
「いいの?」
「図書室でまで“観察係一人でぽつん”は、さすがにネタになりそうだから」
「ネタになる基準がよく分からないんだけど」
口ではそう言いながら、僕はその席にカバンを置いた。
距離的には、教室のときより少し近い。
でも、図書室の静けさのせいか、変に落ち着かない感じはあまりなかった。
お互い、まずは教科書とノートを広げる。
そこで、ふと気づく。
「あ、そのノート」
「ん?」
「この前、コンビニで買ったやつ?」
桜井が広げているのは、あの透明な表紙の新品に近いノートだ。
「そうそう。早速デビューさせてみた」
桜井は嬉しそうにページをめくる。
「一冊目より紙質がいい気がするんだよね。やる気出る」
「形から入るタイプだっけ」
「大事でしょ、モチベーション」
ページをめくる音と、シャーペンの芯が紙をこする音だけが、テーブルの上に落ちていった。
◇
しばらくのあいだ、本当に何も話さなかった。
二次関数の応用問題を解いて、
別のページの図形の証明に手を出して、
途中で分からなくなって、教科書に戻る。
その一連の動作を繰り返していると、
隣から聞こえるシャーペンのリズムが、いつのまにかBGMになっていた。
(これ、意外と悪くないな)
教室だと、どうしても誰かの声が耳に入ってくる。
家だと、スマホとか漫画とか、誘惑が多すぎる。
図書室で、知ってる人が隣にいるけど会話はほとんどなくて、
それでも完全に一人じゃない、くらいの距離感。
テスト前には、こういうのもアリだと思った。
「……ねえ、安藤くん」
何問目かの途中で、桜井がペンを止めた。
声のボリュームはさっきと同じくらい。
図書室の空気を壊さないギリギリの小ささだ。
「なに」
「“テスト前にみんなキャラ変する教室”って、ネタになりそうじゃない?」
やっぱり、エッセイの話だった。
桜井の声は小さいままなのに、ページをめくる音だけが妙に大きく聞こえた。
「さっきの数学のときもさ。
普段ぜんぜん発言しない子が、“ここって先生、どうやって解くんですか”って聞きに行ってたり」
「あったね」
「逆に、いつも騒いでる組が、今日は異様に静かだったり」
「テスト範囲がヤバい科目ほど静かになるよね、あれ」
「そうそう」
桜井は、笑いをこらえるみたいに口元を押さえた。
「そういう“テスト前限定の顔”を、ちょっとまとめて書いてみたいなって」
「“テスト週間だけ別のクラスみたいになる教室”ってタイトル?」
「それ、サブタイトルに良さそう」
問題集の上に、消しゴムで軽くトントンとリズムを刻みながら、桜井は続ける。
「安藤くんもさ、“教える係モード”になってたじゃん」
「さっきの?」
「うん。大木くんたちに囲まれて、“そこ符号ひっくり返す”とか言ってたやつ」
「見てたのか……」
「見てた」
即答だ。
「なんかさ、“先生に聞くほどでもないけど、誰かに聞きたい”みたいな空気が、あの辺にじわっと溜まっててさ」
「溜まってるって表現やめてくれない?」
「わりといい意味なんだけどなあ」
桜井は、シャーペンのキャップをくるくる回しながら言う。
「そういうとき、“じゃあ安藤くんに聞こう”ってなるの、けっこう大事だと思うんだよね」
「大事?」
「うん。“クラスの中で、安心して質問できる相手がいる”っていう安心感。
それをテスト前にちゃんと発揮してくれる人」
「なんか急にハードル上がってない?」
「観察係兼、“非公式チューター”みたいな」
「役職増やしがちなんだよな、桜井さん」
「だってそのほうが書きやすいんだもん」
あっさり言われた。
でも、「書きやすい」と言いながらも、
その視線にはちゃんと「ありがとう」のニュアンスも混ざっている気がした。
「“テスト前にキャラ変する教室”の話、書くときはさ」
桜井は、ノートの余白に何かメモを取りながら続ける。
「“いつも通り”を貫いてる人も、一人くらい混ぜたいんだよね」
「そういうやつ、いる?」
「いるじゃん。窓際の二列目に」
「それ、僕のこと言ってる?」
「テスト前になっても、観察係はちゃんと観察係してるからさ」
「してるつもりはないんだけどな……」
テスト前でも、つい周りの空気を見てしまうのは、
もう性格みたいなものだ。
誰が眉間にしわを寄せて、誰がまだ余裕ありそうで、
誰が笑いながらページをめくるスピードだけ速いか。
そういうのは、嫌でも目に入ってくる。
「そういうのも含めて、“テスト前の教室”って感じがするからさ」
桜井は、シャーペンをくるくる回してから、また問題集に視線を戻した。
「まあ、ネタとしてストックしておくだけだけどね」
「また、あのときの“会議回”みたいになるパターン?」
「かもしれないし、ならないかもしれないし」
曖昧に笑ってから、
「とりあえず今は、この関数のグラフを倒すほうが先かな」
と、現実に帰還した。
「そこ、分かる?」
ノートを少しこちらに傾けてくる。
見ると、さっき僕が大木に説明したのと、ほぼ同じタイプの問題だった。
「さっき教室で聞かれたのと同じやつだね」
「だから、観察係じゃなくて教える係モードも、ちょっとお願いしたいなって」
「観察とチューターの二刀流は、そんなに器用じゃないんだけど」
「大丈夫。“観察してから教える”って流れにすれば、仕事一個にまとまるから」
「雑な合理化しないでくれない?」
小声でツッコミを入れながらも、
結局、ペンを手に取って解き方を説明している自分がいる。
図書室の静けさの中で、
僕たちの会話は、紙の上を滑るシャーペンの音に紛れて、小さく溶けていった。
◇
その日の勉強タイムは、結局一時間くらい続いた。
途中で何度か、「ここ分かる?」と聞かれたり、
逆に僕が「この公式なんだっけ」と教科書を覗き込んだり。
会話の内容自体は、ほとんど数学と英語の話だけだったけれど。
その合間に挟まった、
「“テスト前にみんなキャラ変する教室”、タイトル候補に入れとくね」
という一言だけが、妙に印象に残った。
(……どんな文章になるんだろうな、それ)
エッセイは読まない、と決めたのは自分だ。
決めたのは自分だけど、
こうやって「ネタ候補」だけ聞かされると、
完成形をつい想像してしまう。
「じゃ、今日はこのへんにしとく?」
時計を見て、桜井がペンを置いた。
「そうだね。ありがとう、いろいろ」
「こっちも助かったし。お互い様ってことで」
問題集とノートをカバンにしまいながら、
僕たちはほぼ同じタイミングで椅子から立ち上がる。
図書室を出る前、桜井がふっとこっちを見た。
「ねえ安藤くん」
「なに」
「“テスト前でも、あんまりキャラ変しない人”枠、ちゃんと書くとき大事にしとくから」
「それ、フォローになってる?」
「なってるよ、多分」
半分あきれながらも、半分くらいは嬉しかった。
図書室のドアを開けると、廊下の空気が少しだけ湿っていた。
窓の外には、うっすらと雲がかかっている。
テスト前で、みんながそれぞれのスイッチを入れ始めている六月の終わり。
その中で僕は、観察係だか教える係だかよく分からない立ち位置のまま、
教室の外にも少しずつ自分の居場所が増えていくのを、
なんとなく、自覚し始めていた。




