第69話 写真のない記事と、小さな添え書き
期末テストまで、あと三日。
陸と会ってから一週間が経っていた。
あいつに言われたことは、まだ喉の奥に小骨みたいに引っかかっている。
でも、日常というのは便利なもので、授業とテスト範囲の暗記を繰り返しているうちに、小骨の存在を忘れていられる時間が増えた。
十二月中旬の放課後。
放課後の教室は、だいたい二種類に分かれる。テスト勉強で居残る組と、とっくに帰った組。
僕たち新聞係の四人は、そのどちらでもなかった。
「暖房、もうちょっとだけ上げていい?」
「ダメ。眠くなる」
西村の嘆願を、佐伯が一秒で却下する。
窓際に寄せた机の上には、印刷前の紙面データを出力したA3用紙が何枚も広がっていた。
学級新聞の十二月号――修学旅行特集。
十一月の旅行から約一ヶ月。ようやく、最終編集の段階まで漕ぎつけた。
「最終チェック。構成の確認から」
佐伯が髪を後ろでまとめ直し、赤ペンを構える。
作業モードの佐伯は、声が半音低い。
紙面を広げると、取材班として撮った写真が要所に配置されている。
参道の人混み、旅館の夕食、班別行動の街並み。
どれも修学旅行の「表側」を映した、見栄えのする写真だ。
でも、僕の目が止まったのは、紙面の中央だった。
大きく見出しが載っている。
『思い出の落とし物』。
修学旅行中に集めた、クラス全員の「些細な記憶」。
写真映えしない、見出しにもならない、けれど確かにそこにあった時間の断片。
あの夜のロビーで僕が口にした企画が、佐伯の手でトップ記事に昇格し、今こうして紙面の真ん中に座っている。
佐伯のレイアウトは、相変わらず無駄がなかった。
メモの一行一行が、余白と書体の組み合わせで表情を変えている。このコーナーだけは写真を一枚も使っていない。
それなのに、目で追っているだけで、あの三日間の空気が鼻の奥に蘇ってくるようだった。
『班別行動で迷子になりかけたけど、知らない路地で猫と目が合った』
『夜の点呼で、隣の部屋の笑い声がずっと聞こえてた。何がそんなに面白かったのか、いまだに知らない』
『お土産屋で値切ろうとして、逆におまけをもらった』
誰の名前も書かれていない。
でも、そのどれもが「誰かの修学旅行」だった。
「湊、三段目の添え書き。句読点の位置がずれてる」
「了解。直す」
佐伯の指示は短く、僕の返事も短い。
この半年で、余計な言葉を挟まなくても作業が回る程度には、呼吸が合っていた。
僕の仕事は地味だ。
誤字の修正。送り仮名の統一。添え書きの微調整。
見出しを考えるわけでもなければ、レイアウトを組むわけでもない。
ただ、文字の一つ一つが正しい場所に収まっているかを確認して、ずれていたら直す。
それだけの仕事だ。
なのに、赤ペンのキャップを外すたびに背筋が伸びる。
桜井は隣の机で表紙まわりのチェックをしていて、西村はクラスの一言コーナーに載せるコメントの最終確認をしている。
「ねえねえ、裏面のコラムの見出し、フォント変えたほうがよくない? 太字にしたら映えそう」
「太字にすると本文との差が崩れる。今のままでいい」
「サエ、容赦ないー」
「事実を言ってるだけ」
「すみれー、サエがまた冷たいー」
「凛ちゃんは正しいこと言ってるだけだよ。……でも千夏の気持ちもわかる」
桜井が苦笑しながら仲裁に入る。
西村がぶーぶー言い、佐伯が無表情のまま赤ペンを走らせ続ける。
いつもの光景だ。
しばらく黙々と作業が進み、一時間ほど経った頃。
「……できた」
佐伯が、赤ペンをテーブルに置いた。
静かな宣言だった。
でも、その二文字に込められた重さは、この半年を知っている四人にしか分からない。
完成した紙面を、四人で机の真ん中に並べた。
A3が四枚。表裏で八ページ。
たったそれだけの紙に、僕たちの修学旅行が収まっている。
最初に口を開いたのは、桜井だった。
「……これ、全員の修学旅行が入ってる」
桜井の声が、少し掠れていた。
紙面のメモ欄を指先でなぞりながら、目を細めている。
「写真のページも好きだけど……この落とし物のところ、写真がないのに、読んでるだけで思い出すんだよね。あの廊下の匂いとか、夜の布団の冷たさとか」
「うちらの最高傑作じゃん、これ」
西村がぐっと拳を突き上げた。
「……悪くない」
佐伯が腕を組み、紙面を見下ろしたまま言った。
口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
佐伯にとっての最大級の肯定だと、もう知っている。
「次は、これを超える」
続けた佐伯の声は淡々としていたが、そこには明確な意思があった。
学年末の三月号――もう次の目標が、彼女の中で組まれ始めているのだろう。
「サエ、もうちょっと余韻に浸らせてよー」
「余韻は非効率」
「出た」
西村がケラケラ笑い、桜井もつられて笑う。
佐伯だけが真顔のまま――いや、目の奥だけが笑っているように見えた。
僕は笑いの輪から半歩引いて、完成した紙面をもう一度見つめた。
トップ記事の『思い出の落とし物』。
その見出しの横に、僕が書いた添え書きが小さく添えられている。
『誰かが拾い忘れた三日間のかけら』
「三ページ目の添え書き」
佐伯が、赤ペンの先で紙面を指した。
「短いのに過不足がない。……考えて出る言葉じゃない」
褒められているのか分析されているのか、佐伯相手だと境目がよく分からない。
僕は赤ペンのキャップを回しながら、視線をテーブルに落とした。
「……ただ字数に合わせただけだよ」
「結果が良ければ、動機は問わない」
佐伯らしい返しだった。
「あ、ほんとだ。安藤くんのこの添え書き、すごくいい」
桜井が身を乗り出して紙面を覗き込んだ。
肩が、僕の腕に触れそうな距離になる。
「なんか……すとんと入ってくるんだよね。読んでて、ここだけ空気が変わるっていうか」
「うわ、すみれ語彙力。でもわかる、うちもそこ好き」
西村が便乗して頷いた。
四人の目が紙面に集まっているから、僕の耳が少し熱くなっていることには誰も気づかない。
……たぶん。
「……次は」
桜井が、ふと顔を上げた。
窓の外の暗くなりかけた空を一瞬見てから、独り言のように呟く。
「新聞とは別に、自分だけの言葉で何か書いてみたいな」
「すみれ、なんか書くの?」
「ん……まだ、なんとなく。こういうの作ると、そういう気持ちになるなって」
「おー、作家デビュー?」
「そんなんじゃないよ」
桜井が笑って否定した。
その声は軽かったけれど、「自分だけの言葉」という響きだけが、教室の空気に溶ける前に耳の奥へ落ちていった。
◇
帰り支度をしながら、僕は窓の外を見た。
十二月の空は、五時を過ぎるともう暗い。
街灯がぽつぽつと灯り始め、グラウンドの向こうの住宅街の屋根が影に沈んでいく。
カバンのポケットに手を入れると、スマホの角が指に触れた。
写真フォルダには、陸と会った日に撮った枯葉の写真がまだ残っている。
消さなかった。
消せなかった、のほうが正しい。
修学旅行の落とし物は、クラス全員のものだ。
誰かの三日間を拾い集めて、一枚の紙面に収めた。
でも、僕にとっての「落とし物」は、たぶん別のところにある。
この四人で放課後の教室に集まって、赤ペンを回して、くだらない口喧嘩をしながら一枚の新聞を仕上げていく時間。
それが何なのか、名前はまだつけられない。
つけたら、きっと重くなる。
教室を出るとき、桜井が振り返って手を振った。
「安藤くん、テスト頑張ろうね」
「うん。桜井さんも」
いつものやりとり。いつもの距離。
なのに、廊下に出た瞬間、十二月の空気がぬるく感じた。
僕はポケットの中でスマホを握りしめたまま、夜の校舎を歩いた。
拾い忘れた何かに、いつか名前をつけなければならない日が来るとしても。
今はまだ、落とし物のままでいい。




