第68話 閑話 田中陸は、観客席を立つ兆しを見る
湊が変わったな、と思ったのは、あいつがスマホを構えたときだった。
十二月の頭。
期末テスト前の、平日感を引きずった土曜日。
駅前のファストフード店は昼時で混雑していて、カウンター近くまで列が伸びている。
俺は窓際の二人席を確保して、先にチキンナゲットを開けていた。
湊が来るまで、あと五分くらいだろう。
あいつは時間にルーズなタイプじゃない。早く着きすぎると目立つからか、いつもぴったりに現れる。昔から、そこだけは一貫している。
ガラスの向こうに見える駅前ロータリーを眺めながら、ナゲットにケチャップをつける。
定期連絡。
どっちかがなんとなくLINEを送って、なんとなく合う日に会う。それだけの集まりだ。
ただ、今回は俺のほうから呼んだ。
最近の湊のLINEが、妙に引っかかるのだ。
前は「テスト前だるい」「今日も生存報告」程度だった内容が、最近は「放課後に記事のレイアウトやった」「写真選びで意見が割れた」みたいに具体的になった。
あいつは基本、聞かれなければ自分から語らない。なのに、わざわざ日常を切り取って送ってくる。
何かが変わっている。
その「何か」を、俺はまだ掴めていない。
◇
「……悪い、ぎりぎりになった」
湊が向かいの椅子に座ったのは、約束の二分前だった。
マフラーを半分ほどいた状態で、片手にはコンビニのビニール袋。
「いや、予定通りだろ。お前いっつもぴったりだし」
「そうかな」
「そうだよ。遅刻しないけど早くも来ない。絶妙に目立たないタイミング」
「……それ、褒めてる?」
「観察してる」
湊が微妙な顔をした。
観察って言葉に引っかかったのか、それとも別の何かか。
「てか、お前先食ってんじゃん。ナゲット」
「腹減ってたからな。お前の分はない」
「別にいらないけど」
湊はトレイの上にハンバーガーのセットを並べ、ドリンクのストローを差した。
少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
前に会ったとき――秋ごろだったか。あのときは、もう少し張り詰めた空気を纏っていた気がする。新聞係の人間関係がどうとか、佐伯さんとの距離感がどうとか、そんな話をぽつぽつとしていたっけ。
今の湊は、あのときよりいくらか穏やかだ。
穏やかだけど、どこか――落ち着かなさそうでもある。
「で、どうよ」
「何が」
「近況。テスト前で死にそうか」
「まあ、それなりには。古典がやばい」
「古典は知らん。俺のとこ、そもそも出題範囲が違うし」
「聞いたのそっちだろ」
「雑談のフリをした情報収集だよ」
湊は呆れたように息を吐いて、バーガーの包み紙を開けた。
しばらく、どうでもいいテストの話が続く。
俺の高校の数学教師がやたら癖のある問題を出す話。湊のクラスの世界史の先生が板書をノートに写す速度を前提にしていない話。
こういう時間は嫌いじゃない。
くだらないことを喋ってるだけで、空気が温まっていくのが分かるからだ。
◇
ポテトが半分くらいになったころ、湊がふとスマホを取り出した。
LINEの通知を確認した、という感じの動きだ。
画面を一瞬見て、ロックし直す――はずだった。
湊の指が、止まった。
画面を見つめたまま、数秒。
それから、何かを思い出したように窓の外に目を向けて。
おもむろにカメラを起動した。
窓の向こうには、駅前ロータリーの植え込みがある。
街路樹の枯れかけた葉が風に揺れていて、その隙間から冬の曇り空が覗いている。
正直、絵になる風景かと言われると、微妙だ。
映えるわけでもないし、記録に残すほどの情景でもない。
なのに、湊はシャッターを切った。
一枚。
それから、少しだけ角度を変えて、もう一枚。
「……何撮ってんの」
「え? あ、いや。なんとなく」
湊はスマホをテーブルに伏せた。
「なんとなく、ね」
「うん。なんとなく。……枯葉の色合いがちょっと良かったから」
「お前、いつから風景写真撮る人間になったわけ」
「別に、撮る人間ってほどじゃ――」
「前はそんなことしなかったろ」
湊が黙った。
図星、というほど大げさじゃない。ただ、反射的に否定しなかった。
それだけで、俺には十分だった。
俺はポテトを一本つまみながら、なるべくさりげなく聞いた。
「それ、誰かに見せるために撮ってない?」
「……は?」
「自分が『きれいだな』って思ったから撮ったんじゃなくて、『あの子ならこれ気に入るかな』って思って撮ってるだろ」
湊のポテトを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……違うよ」
「へえ」
「本当に違う。たまたまだよ、今のは」
「はいはい」
俺は深追いしなかった。
ここで追い詰めたところで、湊は余計に殻に引っこもるだけだ。あいつは追われると逃げるタイプで、でも逃げたあとに自分で考えるタイプでもある。
ただ、一つだけ言っておきたいことがあった。
「湊」
「何」
「お前さ、最近"主語"が変わったなって思うんだよ」
「……主語?」
「うん。前のお前って、何かを見るとき"自分がどう感じるか"が先だったじゃん。教室の空気とか、人の動きとか。全部、"僕から見てこうだった"っていう一人称の話だった」
「……そりゃ、僕の話なんだから当たり前だろ」
「茶化すなって。……最近のお前は、"あの人なら、これをどう見るか"が先に来てる」
湊が、ドリンクのストローを咥えたまま動きを止めた。
「自分のために見てるんじゃなくて、誰かのために見てるだろ」
数秒の沈黙。
ファストフード店の喧騒が、急にクリアに聞こえた。
レジの電子音。隣のテーブルの笑い声。ドリンクサーバーの氷が落ちる音。
湊は、視線を窓の外に逃がした。
「……別に、そういうわけじゃ」
「否定しきれてないぞ、それ」
「……」
黙った。
湊が黙るときは、だいたい二パターンある。本当に何も考えていないか、考えすぎて言葉が出てこないか。
十何年の付き合いで当てる精度には自信があるが――今のは、たぶん後者だ。
◇
会話の空白を埋めるように、俺はドリンクを一口飲んだ。
押さない。
今日は、押さないと決めている。
前に会ったとき、俺は「裏方って逃げ道になってないか」と言った。あのときの湊の顔――図星を突かれたような目と、それを認めまいとする口元が、ちぐはぐに動いていた。
あれから何ヶ月か。湊は変わった。
少なくとも、「誰かのために風景を撮る」程度には。
それが桜井さんのためだってことくらい、俺でも分かる。
千夏ちゃん経由の情報と、湊の断片的なLINEを繋ぎ合わせれば、大体の輪郭は見える。
ただ、湊の変化には妙な硬さも混じっていた。
「なあ、湊」
「……まだ何かあるの」
「文化祭のあと、なんかあった?」
湊の肩が、ぴくりと跳ねた。
ほんの一瞬だったが、見逃さなかった。
幼稚園から十何年、あいつの動揺の種類くらいは見分けがつく。
「……別に。普通に忙しかっただけだよ」
「ふーん」
嘘だな、とは思った。
でも、そこを掘る気はない。
湊が何かを見て、何かを感じて、それを飲み込んだ。
たぶん、そういうことだ。
で、飲み込んだあとで「観察係」っていう殻を、前より固くしている。
分かるのは、そこまでだ。
俺は幼なじみであって、エスパーじゃない。
あいつの問題は、あいつが解くしかない。
「……ま、聞かないけどさ」
「助かる」
「ただ、一個だけ」
湊が、警戒するように目を細めた。
「さっきの写真」
「……だから、あれはたまたま――」
「いや、たまたまでもいいんだよ」
俺は、ナゲットの最後の一個をソースに浸しながら言った。
「"誰かのために何かを見る"って、モブの発想じゃないだろ」
湊の視線が、テーブルの上のスマホに落ちた。
伏せられた画面。さっき撮ったばかりの枯葉の写真が、その裏側に眠っている。
「お前の目線がどこに向いてるか、本人が一番分かってないのが面白いよな」
「……お前に面白がられても困るんだけど」
「面白いって言うか」
俺は立ち上がって、トレイを持った。
「心配、かな」
ぼそっと言ったつもりだったが、湊にはちゃんと届いたらしい。
あいつの目が、少しだけ丸くなった。
「……心配って、何が」
「お前が"観客席"に座ったまま、試合終了のホイッスル聞くことが」
軽く言った。
軽く言ったつもりだったけど、声に少しだけ本気が混じったのは、自分でも分かった。
湊は何も答えなかった。
ただ、視線をドリンクのグラスに落として、溶けかけの氷をストローでかき回していた。
◇
店を出ると、十二月の風が頬を切った。
「じゃ、俺このあと買い出しあるから」
「ん。……今日はありがとう」
「何もしてないだろ、飯食っただけだ」
「まあ、それはそうだけど」
湊が、マフラーを口元まで引き上げた。
白い息がマフラーの隙間から漏れて、すぐに冬の空気に溶ける。
「あ、そうだ」
思い出したように、俺は足を止めた。
「お前、今日撮った写真さ」
「……まだ言うの」
「消すなよ」
湊が、怪訝そうにこっちを見た。
「たまたまだろうが、誰かのためだろうが。お前が撮りたいと思った瞬間があったのは本当なんだから。それ、なかったことにするなよ」
言い終わる前に、湊は視線を逸らしていた。
マフラーに半分埋もれた口元が、何か言いかけて閉じるのが見えた。
「……うるさいな、お前は」
「外部相談役だからな。うるさいのが仕事」
手を振って、反対方向に歩き出す。
十歩くらい進んだところで、俺はちらっと振り返った。
湊は、まだそこに立っていた。
ポケットからスマホを取り出して、さっき撮った写真を見ているのか、画面を見つめている。
消さなかったらしい。
――よし。
まだ動かない。
あいつはまだ、観客席から立ち上がれていないように見える。
でも、あの席の居心地が前ほど良くなさそうなのは、さっきの顔を見れば分かる。
俺にできるのは、ここまでだ。
背中を押すのは、もう少し先でいい。
さっき「文化祭のあと」って聞いたとき、湊の肩が跳ねた。
あれが何だったのか、俺には分からない。
ただ、あいつの殻が前より窮屈そうに見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
冬の風が、吹き抜ける。
俺はポケットに手を突っ込んで、駅へ向かった。
ま、いいさ。
あいつが自分で動くのを待つしかない。
外部相談役は、待つのも仕事だ。




