第67話 いつもの、でしょ?
修学旅行から二週間。
十二月の空気は容赦なく冷たく、放課後の教室は暖房が切れた瞬間から冷蔵庫へと変貌する。
「じゃあ、ファミレス行く?」
西村がノートを乱雑にバッグへ押し込みながら提案した。
「うん。お腹空いたね」
桜井が素直に頷く。
「サエも来るでしょ?」
「……まあ、今日は予定もないから」
佐伯が淡々と返す。
そして、三人の視線が示し合わせたように僕へ集まった。
「……安藤くんも来るよね?」
桜井が、小首をかしげて言う。
疑問形だが、そこには『来ない選択肢なんてないよね』という無言の圧力が含まれている気がする。
「うん、行くよ」
僕が頷くと、桜井は「よかった」と花が咲くように笑った。
◇
ファミレスに到着したのは、夕方の五時過ぎ。
店内はまだ空席が目立ち、窓際の四人掛けテーブルを難なく確保できた。
なんとなく定位置になりつつある配置。
窓側に僕と佐伯。通路側に桜井と西村。
「じゃあうち、ドリンクバー取ってくるー」
西村が軽い腰を上げると、桜井も「あ、私も行く」と続いた。
「安藤くんは?」
「あ、いや。僕はあとで」
「じゃあサエは?」
「私も後でいい」
佐伯がメニューに視線を落としたまま答える。
桜井と西村が、きゃっきゃと軽い足取りでドリンクバーのコーナーへ向かう。
その背中を見送ってから、佐伯がふぅ、と小さく息を吐いた。
「……修学旅行の疲れ、まだ引きずってる?」
「疲れというより、テスト勉強という現実に戻るのが面倒」
「分かる」
僕も正直、同感だった。
修学旅行の三日間は、あまりに非日常の濃度が高すぎた。
祭りのあと、無理やり平熱の日常に戻されたような感覚。
悪くはない。
けれど、どこかピースが足りないような――。
その時だった。
「はい、安藤くん」
戻ってきた桜井が、事もなげに僕の前にグラスを置いた。
「……え?」
「ドリンクバー。ついでに持ってきたよ」
グラスの中身を見る。
薄い黄金色の液体に、控えめに浮いた氷。
……ジンジャーエールだ。
「いつもの、でしょ?」
桜井が、少し得意そうに笑う。
僕の思考が、一瞬止まった。
「……なんで分かったの?」
「だって安藤くん、ドリンクバーだといつもジンジャーエール選んでるでしょ。しかも氷少なめで」
桜井は自分のグラスにストローを差しながら、今日の天気の話でもするかのように続けた。
「文化祭の打ち上げの時も、前にみんなで来た時もそうだったから」
「……よく見てるね」
「見てるっていうか、なんとなく覚えてただけ」
桜井は特に深い意味もなさそうに、ストローでジュースをくるくると回している。
その横で、西村がニヤニヤしながら席についた。
「すみれさぁ、湊の好み把握しすぎじゃない?」
「え、そう? ……普通でしょ、友達なら」
桜井はきょとんとしている。
その「普通」という単語に、僕の脳が引っかかる。
これ、普通か?
「……湊への『解像度』が、異常に高いね」
佐伯が、感情の読めない声で言った。
その冷静な瞳が、僕と桜井を交互に見ている。
「湊のドリンクの種別だけならまだしも、氷の量まで正確に記憶してる。そこまでいくと、もう癖だよ」
「えっ、そんな大げさな……」
桜井が少し戸惑ったように瞬きをする。
「大げさじゃないって。サエの言う通り。うちだって、湊がジンジャーエール派なのは知ってたけど、氷少なめなんて細かいとこまで気にしたことないし」
西村がテーブルに肘をつき、楽しそうに身を乗り出した。
「すみれと湊、なんかもう通じ合ってるねー」
「通じ合ってないよ! ただ、視界に入ったから覚えてただけで……」
桜井の声が少し高くなる。
「……桜井さん、ありがとう」
このままでは収拾がつかない。
僕はあえて冷静さを装って礼を言い、ジンジャーエールに口をつけた。
ピリッとした刺激が喉を駆け抜ける。
氷が少ないおかげで、味が薄まっていない。
炭酸の強さもちょうどいい。
……僕が自分でサーバーから注ぐのと、同じだ。
桜井は僕が飲むのを見て、ほっとしたように目尻を下げた。
「よかった。間違ってなかった」
その無防備な笑顔が、妙に胸の奥深いところに刺さる。
なんでもない気遣い。
なんでもない笑顔。
なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだ、僕は。
僕はグラスを見つめたまま、桜井から視線を逸らした。
隣で、佐伯がボソリと呟く。
「……完敗。反論の余地がない」
その声は、誰に向けたものでもなく。
ただ、圧倒的な事実を前にした静かな敗北宣言のようだった。
西村が「ん? サエなんか言った?」と反応したが、佐伯は「独り言」と短く切り捨てた。
僕はジンジャーエールをちびちびと飲みながら、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの街が、オレンジ色に染まっている。
その色がやけに眩しくて、僕はグラスに視線を戻した。
◇
ファミレスを出たのは、七時を回った頃。
西村と桜井は駅の方へ、佐伯は反対方向へ。
僕は一人、家までの夜道を歩き出した。
冬の夜の訪れは早い。
等間隔に並んだ街灯が、アスファルトに僕の影を長く落としている。
ポケットに手を突っ込み、白く濁る息を吐き出す。
(……なんとなく覚えてた、ね)
桜井の言葉が、頭の中でリフレインする。
彼女はたぶん、気づいていない。
他人の些細な好みを覚えていることが、傍から見てどれだけ特別に映るか。
佐伯が「解像度が高い」と言ったのも、西村が「通じ合ってる」とからかったのも、そういうことだ。
……そして、僕も。
たぶん、桜井のことを同じくらいの解像度で見ている。
彼女が迷わずオレンジジュースを選ぶこと。
ストローの袋を丁寧に結ぶ癖。
紙ナプキンを必ず四つ折りにすること。
全部、知っている。
この距離感が、心地いい。
でも同時に、怖い。
これ以上近づいたら、決定的な何かが変わってしまう気がする。
今のこの、四人で笑っていられるバランスが崩れる気がする。
だから、僕は「観察係」でいる。
近すぎず、遠すぎず。
桜井は物語の「主役」で、僕はその一番近くにいる裏方。
その一線を超えたら、この関係は終わる。
だから、ここで止めておく。
この距離感が一番安全だ。
――たぶん。
自分にそう言い聞かせて、僕は夜道を歩き続けた。
冷たい風が、熱を持った頬を冷やすように撫でていった。




