第66話 閑話 佐伯凛は、『例外』を保存する
結論から言うと、サービスエリアの自動販売機の前で、私は止まっていた。
何を買うか、決められない。
修学旅行の帰り道。
高速のサービスエリアにバスが停まったのが五分前。
「三十分休憩でーす」という担任の声で、生徒たちがぞろぞろとバスを降りた。
私――佐伯凛は、飲み物を一本買うだけのつもりだった。
ブラックか、カフェオレか。
頭を使いたいならブラック。
でも今は、三日間の疲れで判断力が落ちている。
甘いものに逃げるのは非効率だけど、糖分で回復するなら合理的でもある。
(……こんな二択に三十秒。非効率の極み)
「サエー、何悩んでんの?」
横から千夏が覗き込んできた。
片手にメロンソーダ、もう片手にご当地キーホルダー。
もう買い終わっている。
この人には「迷う」という工程がない。
「……飲み物を選んでるだけ」
「選んでるだけって、めっちゃ睨んでるじゃん自販機。じゃあこれ!」
千夏が迷いなくカフェオレのボタンを押した。
ガコン、と缶が落ちる。
「……勝手に押さないでくれる?」
「サエ、疲れてる時いっつもカフェオレじゃん。文化祭の打ち上げもそうだったし」
……観察されていた。私が。
反論しようとして、やめた。
事実だから。
缶を受け取る。
十一月の夕方の空気は冷たくて、アルミの温度がちょうどよかった。
――西村千夏。新聞係のアクセル。
最初はただのノイズだと思っていた。
けど、彼女がいなかったら、私は今も教室の隅で一人だっただろう。
壁を作って、誰とも関わらずに。
触媒。
化学の実験で習うやつ。
自分は変化しないのに、周りを動かす物質。
……ちょっと違うか。
千夏は自分も凄い変化する。爆発に近い。
文化祭の打ち上げでもカフェオレだった、か。
そういうの、覚えてるんだな。計算外だった。
プルタブを開ける。
甘い匂い。
少しだけ、肩の力が抜けた。
その時だ。
自販機の横のベンチに、見慣れた二人が座っていた。
湊と、すみれ。
すみれはベンチにぐったり座って、目が半分閉じている。
バスでもずっと寝てたのに、まだ眠いらしい。
燃費が悪い。
湊はその隣に、きっちり一人ぶんの隙間を空けて座っていた。
手に、自販機で買ったらしいペットボトル。
私は自販機の影から動かなかった。
隠れてるわけじゃない。
観察に向いた位置にいるだけだ。
「……桜井さん、水分」
湊がペットボトルをすみれに差し出す。
キャップは、もう開けてあった。
「んー……ありがと、安藤くん……」
すみれが受け取る。
寝ぼけた声。
目はほとんど開いていない。
それでも一口飲んだ後、こう言った。
「あ、あったかい。……安藤くん、いつも冷たいの買うのに」
湊の手元を見る。
彼が自分用に持っているのは――冷たいお茶だった。
十一月。
気温は十度前後。
「……たまたまだよ」
早口。
しかも視線が横に逃げた。
……あの反応は、嘘をついている人間の典型的な反応だ。
「ふーん」
すみれはそれ以上突っ込まなかった。
あったかいペットボトルを両手で包んで、「あったかい……」と小さく言っている。
――と。
すみれが、ふらりと体を傾けた。
湊のほうに。
ベンチで。
人がいるサービスエリアの、ベンチで。
湊が一瞬で石になった。
肩をぎゅっと上げて、すみれの頭が自分に着地しないぎりぎりの距離で固まっている。
「……さ、桜井さん?」
「……んー……あったかい……」
すみれはペットボトルのことを言っている。
たぶん。
でも、傾いてるのは体のほうだ。
湊の目が泳いでいる。
周囲を確認している。
他の生徒がいないか。見られていないか。
――見られてるよ。私に。
結局、すみれの頭は湊の肩には着地しなかった。
湊がさりげなく姿勢をずらして、絶妙な距離で回避したからだ。
すみれは「ふぇ……?」と小さく声を上げて、自分で姿勢を戻した。
何が起きたか分かっていない顔だ。
……彼女は今、人前で湊に寄りかかりそうになったことに、気づいてなさそうだ。
そして湊は、それを「彼女に気づかせないまま」回避した。
たぶん両方とも無自覚。
完璧に噛み合った無自覚。
(……なにそれ)
事実を整理する。
湊は、自分には冷たいお茶を選び、すみれには温かいのを買った。
キャップを事前に開けた。
寝ぼけてる相手がすぐ飲めるように。
指摘されたら早口で「たまたま」と誤魔化した。
すみれが公共の場で傾いてきたら、彼女のプライドを傷つけないように自然に距離を取った。
すみれは、寝ぼけていても湊の飲み物の好みを正確に覚えていた。
そして、「あったかい」と言いながら、ペットボトルではなく湊のほうに傾いた。
(……非効率だね。お互いに)
堂々と「寒いだろうから買った」と言えばいい。
堂々と「寄りかかりたいなら寄りかかればいい」。
そのほうが速い。
でもこの二人は、そうしない。
湊は隠す。すみれは気づかない。
お互いの好意を、お互いが一番見えていない。
……普通じゃない。
テスト勉強とかの範疇じゃない、これ。
「あっ。あれ見てサエ」
隣に戻ってきた千夏が、小声で言った。
その目がベンチを見ている。
「……見てたけど」
「見てたんかい。……ねえ、あの二人さ」
千夏がメロンソーダのストローを咥えたまま、目を細めた。
「湊がすみれにお茶買ってあげて、すみれがそれ知ってて、しかも寄りかかりそうになったのを湊がよけた、までうちは見た」
……全部見てるな。
「……で?」
「いや、もうあれ付き合って――」
「付き合ってない」
即答した。
……なぜ私が即答したのか、自分でもよく分からないけど。
「早っ。サエが否定するの珍しくない?」
千夏がにやにやしている。
……この顔は、情報を拾った時の千夏の顔だ。厄介だ。
「事実を述べただけ。あの二人は付き合ってない。……お互いに、まだ気づいてないだけ」
最後の一文は、言わなくてよかったかもしれない。
「『まだ』ね。サエがそう言うなら確定じゃん」
「確定じゃない。推測だよ」
「サエの推測、だいたい当たるじゃん」
……反論できない。事実だから。
――桜井すみれ。新聞係のエンジン。感性の人。
私とは考え方が根本的に違う。本来なら噛み合わない。
けど、文化祭前のあの教室で、彼女は私を『凛ちゃん』と呼んだ。
理屈じゃなく、まっすぐに。
彼女の熱がなかったら、新聞はただの文字の羅列だった。
――安藤湊。新聞係の翻訳担当。調整役。
四月の第一印象は「背景」。
でも彼は、誰よりこの教室を観ていた。
修学旅行の編集会議で、私が「ランキング」という正論ですみれを追い詰めかけた時、「思い出の落とし物」を出してきたのも彼だ。
私の論理を否定しない。
すみれの感性も壊さない。
あの両立ができるのは、湊だけだ。
いつからだろう。
湊と話す時間が、一番頭を使わなくて済む時間になったのは。
彼なら、私の言葉の意図を汲んでくれる。
私の理屈を、ちゃんと人に届く形に直してくれる。
……その心地よさに、私はずっと「仕事仲間としての信頼」とラベルを貼っていた。
分類エラーだったらしいと気づいたのは、この旅行中のことだ。
悔しいけど、評価する。
――この感情をなんと呼べばいいのかは、まだ保留。
「サエー! バス戻るってー!」
千夏がメロンソーダを飲み干して叫ぶ。
奥のベンチでは、湊がすみれの肩を軽く叩いていた。
「桜井さん、戻るよ」
すみれが「ふぇ……?」と間の抜けた声を上げる。
湊はすでに立ち上がっていて、すみれのペットボトルのキャップを閉めてから返していた。
……最後まで、そういうことをする。
すみれはたぶん、そのキャップすら当たり前だと思っている。
「ねえサエ、見て見て! ご当地キーホルダー、おそろで買っちゃった!」
千夏が差し出してきたのは、鹿のキーホルダーが二つ。
片方は普通の鹿。
もう片方は、なぜか眼鏡をかけている。
「……なんで眼鏡」
「サエっぽくない? 知的な鹿!」
「鹿に知的も何もないと思うけど」
「まあまあ、記念記念!」
押し付けるように渡された眼鏡鹿。
安いプラスチック。どこにでもあるお土産。
……捨てる理由はあるのに、捨てるという選択肢が浮かばない。計算外。
「……非効率な買い物だね」
「それサエ語で『ありがとう』でしょ。もう知ってるよー」
千夏がにっと笑って、先にバスへ走っていく。
……解読された。
私の言葉を翻訳できるのは湊だけだと思ってたのに、千夏にまで読まれている。
不本意だけど、評価をあげる必要がある。
バスに戻る。
自分の席に座って、カフェオレ缶をホルダーに置いた。
隣に千夏が滑り込んできて、「あー疲れたー」と言った三秒後には目を閉じていた。
……起動も停止も速い。
――そういえば。
行きのバスでは、千夏はすみれの隣に座っていたはずだ。
帰りは、「まだ話し足りないことあるから、帰りは隣ね!」と言って、私の隣に来た。
つまり。
帰りのすみれの隣は、自動的に湊になる。
……これ、千夏が組んだ席順じゃないか?
隣を見る。
千夏は無邪気な顔で寝ている。
口元が少しにやけている気がするのは、気のせいだろうか。
……計算外というか、計算ずくというか。
この人、ノイズに見せかけて、ときどき精密な配線をする。厄介だ。
バスが動き出す。
高速道路に入ったらしい。
車内が暗くなって、話し声がひとつずつ消えていく。
スマホのメモ機能を開く。
『修学旅行取材・総括メモ』
……この修学旅行は、計算外の連続だった。
ふと、窓ガラスに車内の様子が映っているのに気づく。
外は闇。車内は常夜灯だけで、薄暗い。
対向車のヘッドライトが時折、一瞬だけ車内を照らす。
後ろの席。
湊が窓際で固まっているシルエットが浮かんだ。
その肩のほうに、すみれの頭がこくりと傾いていくのが見えた。
――さっきのサービスエリアの再現。
この子は眠ると、湊のほうに倒れるのか。
でも、今度はバスの中だ。
暗闇で、生徒はほぼ全員寝ている。
……さっきとは、条件が違う。
湊は、動かなかった。
今度は避けなかった。
すみれの頭が、ゆっくり、湊の肩に着地する。
光が走った一瞬、ガラスに湊の影が浮かんだ。
微動だにしない背中。
けれど、肩の角度だけは、すみれの頭が滑り落ちないように、微調整しているように見えた。
表情までは分からない。
けれど、どんな感じか、私にはだいたい想像がついた。
きっと、すごく困った顔をして――同時に、酷く優しい顔をしている気がする。
さっきのサービスエリアでは、人の目を気にして避けた。
暗いバスの中では、避けなかった。
……なるほど。
彼が守ってるのは、すみれの「眠り」じゃない。
すみれの「評判」だ。
人前では彼女が恥をかかないように距離を取り、誰にも見えない場所では、静かに受け止める。
彼女自身にすら、気づかれないように。
どこまで面倒くさい男なんだろう。
どこまで、不器用なんだろう。
(……非効率だね)
三回目。
今日だけで三回、この言葉が出てきた。
でも、今回だけは少し意味が違う気がする。
非効率だ。
非効率で、非合理的で、全然スマートじゃない。
……なのに、きれいだと思ってしまう。
胸の奥が、ちくりとした。
私はたぶん、あの場所に入りたかったのだと思う。
論理とか効率とか関係なく、ただ「重いよ」と寄りかかっても、許される場所に。
でも。
あの隣に座れるのは、私じゃない。
すみれだ。
あの不器用な優しさを全部引き受けられるのも、湊という「例外」だけだ。
(……割り込み不可、か)
事実だから。仕方ない。
確定した事実は、受け入れるのが一番合理的だ。
フリック入力の手を動かす。
『思い出の落とし物』の項目の横に、一行だけ追記した。
『例外処理:安藤湊――棄却不可。採用』
ふ、と口元が緩んだ。
悔しい。けど、不快じゃない。
私の言葉を翻訳してくれる人は、もう一人じゃなかった。
私の計算を超えてくる人も。
……このチームにいる限り、たぶん計算外は続く。
まあ、いい。
この答え合わせの結果は、消さずにアーカイブしておく。
ポケットの中の眼鏡鹿と一緒に。
それが今の私のやり方だ。
隣で千夏が「んご……」と意味不明な寝言を漏らした。
私のカーディガンを勝手に引っ張って、毛布代わりにしている。
……こいつ、寝てても侵略してくるな。
窓ガラスの向こうでは、すみれが湊の肩で静かに眠っていて、湊はそれを支えたまま、窓の外を見ていた。
あの二人の答え合わせは、まだ当分先だろう。
でも答えは、たぶんもう出ている。
本人たちが気づいていないだけで。
バスの規則的な揺れが、少しだけ心地よかった。




