第65話 予想外の評価と、計算外の体温
朝七時、ホテルのロビー。
待ち合わせ場所に着くと、そこだけ空気の密度が違った。
佐伯は膝の上にノートを広げて仕事モード、西村はペットボトルのお茶を片手に、顎が外れそうなほど大きなあくびをしている。
「おはよう、西村さん、佐伯さん。桜井さんは?」
「おはよう。すみれは後から来るって」
佐伯がノートにペンを走らせながら、視線だけで頷く。
「じゃあ、先に確認。昨日の夜、千夏が各部屋に回収袋を設置した件、朝のうちに回収する」
「もう何人か書いてくれてるっぽいよ。見た感じ、紙が増えてた」
西村が親指をグッと立てて見せる。朝から燃費がいいやつだ。
「自由行動の時間になったら、私と千夏で最終回収に回る。湊とすみれは、集合場所付近で待機。三十分前に合流して、内容を確認」
「了解」
佐伯のプランは、いつも通り無駄がなく、美しいほど業務的だ。
その時、エレベーターの扉が開く音と共に、軽い足音が近づいてきた。
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
桜井だ。朝から髪のセットも完璧で、この場の光量が少し上がった気がする。
「大丈夫。今、段取りを確認してたところ」
佐伯が手短に説明すると、桜井も真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、行こうか」
こうして、僕らの修学旅行最終日が動き出した。
◇
自由行動の集合時間まで、あと三十分。
お土産ストリートと化した参道を、制服の集団が流れていく。
あちこちから「これ親に」「こっちは部活に」という声と、紙袋がぶつかる乾いた音が聞こえる。
みんな、最後のアドレナリンを使い切ろうと必死だ。その騒がしさが、逆に祭りの終わりを予感させて少し寂しい。
その喧騒から一歩引いた、神社の脇にある木陰のベンチ。
僕たち新聞係の四人は、そこに避難するように固まっていた。
「はい、回収完了」
西村が、コンビニの小さな紙袋を無造作に差し出してきた。
中には、小さく折りたたまれたメモがぎっしりと詰まっている。
「……集まったね」
「でしょ。『写真にも残らない、どうでもいい記憶を一行だけ書いて』って回ったら、みんな意外と書くことあるみたいでさ」
西村は「私の手柄!」と言わんばかりに肩を揺らした。
「『映えないやつ限定』『愚痴でもOK』って言ったら、逆に盛り上がっちゃって」
その横で、佐伯が黙って紙袋を受け取り、膝の上に置いた。
その手つきは、もうクラスメイトではなく編集者のそれだ。
佐伯は無言で紙袋の口を広げると、折り目のついたメモを指先で一枚ずつ引き上げ始めた。
その瞳はメモから離れず、指先が迷いなく次の獲物を探している。
「……湊」
佐伯が、視線を落としたまま一枚のメモを僕の方へ滑らせた。
「これ、トップで使う」
そこには、男子の雑な字でこう殴り書きされていた。
『ホテルの廊下の匂いが、自分の家と違ってなんか落ち着かなかった』
「……いいね。地味で」
「うん。この生活感がいい」
佐伯の声は淡々としているが、語尾に小さな、けれど確かな熱がこもっている。
僕は次のメモを手に取った。
『自販機のホットが全滅してて、震えながら冷たいお茶を飲んだ』
『先生の見回りの靴音が、夜だけ怖かった』
『枕が高すぎて、結局朝までスマホ見てた』
些細だ。あまりにも些細すぎる。
誰のアルバムにも残らない、隙間の記録。
でも、その飾らない一行一行が、間違いなく僕らが過ごした"修学旅行"の輪郭を作っていた。
「……これ、配置を変える」
佐伯が、メモをトントンと揃えながら独り言のように呟いた。
「配置?」
「トップ記事。メインにする」
佐伯は顔を上げ、僕を真っ直ぐに射抜いた。
その目は、何かを見つけた時の――研究者のような澄んだ光を帯びている。
「昨日は、『全員を平等に載せるための解決策』として採用したつもりだった。でも……訂正」
彼女の中で、何かがカチリと組み替わった音がした気がした。
「この企画、ただの平等策じゃもったいない。この些細な記憶の方が、みんなの目を引くと思う。……この発想は、私からは出てこなかった」
「……役に立ったなら良かったよ」
「……認めたくないけど、認める。君の視点、私の予想の外に出るから」
佐伯は手元のメモを見つめ、口元をほんの数ミリ、わからない程度に緩めた。
「参考にする、湊。……君の見方は、たまに役に立つ」
彼女にしては珍しい、感情の乗った言葉だった。
いつもの業務連絡のような淡々とした口調の中に、小さな信頼が含まれている。
真っ直ぐすぎる評価に、僕はなんて返していいか分からず、曖昧に頬をかいた。
褒められているのか、変人扱いされているのか、判断が難しいラインだ。
その横で、西村がニヤついた顔で僕の肘を小突く。
また始まった、と言いたげな目だ。
僕は気づかないふりをして、しおりのページをめくった。
紙に逃げるのが、今の僕には一番安全だ。
そうやって視線を落としている間に。
隣に座っていた桜井が、僕のシャツの袖のあたりを指先でちょい、と摘んだ。
握るほどじゃない。
けれど、無視できない絶妙な圧。
「……安藤くん」
小さな声。
けれど、その声は周りの雑音を遮断して、僕にだけ届く距離で放たれていた。
「私も、そう思ってた。落とし物みたいな記憶って、大事だよね」
「……そう?」
「うん。……安藤くんは、そういうの見つけるの上手だね」
桜井はそっと微笑んだ。
摘んでいた指先に、きゅっと力がこもる。
袖から指先が離れる。
離れたのに、そこだけ熱が残っている気がした。
西村が大きく伸びをして立ち上がった。
「はいはい、編集会議終わり! これ以上やってると集合に遅れる!」
「……もうそんな時間?」
「あと十五分! 走らないと点呼に間に合わないやつ!」
西村が僕の背中をバンと叩く。
僕はため息を一つついて、立ち上がった。
旅の終わりは、いつも紙と時間に追われる。
その忙しなさが、今の僕には少しだけ有難かった。
このままここにいたら、二人の「評価」の板挟みで、僕のほうが先にパンクしそうだったから。
◇
帰りのバスがロータリーに到着すると、クラスの列が少しだけ崩れた。
みんな、最後のお土産を抱えたり、飲み物を捨てに行ったりと慌ただしい。
僕たち新聞係の四人も、列の流れに乗ってバスの昇降口へ向かう。
その時だった。
「あ、サエ! ちょっと待った!」
西村が、前を歩いていた佐伯のリュックをむんずと掴んだ。捕獲、という手つきだ。
「……なに、千夏。詰まるよ」
「行きは席が前後だったじゃん? まだ話し足りないことあるから、帰りは隣ね!」
西村は有無を言わせぬ勢いで佐伯の腕を引くと、空いている二人掛けの席へ強引に滑り込んだ。
佐伯は「……三日間ずっと喋ってたくせに」と呆れつつも、抵抗せずに窓際へ収まる。
彼女にとっても、西村との会話は嫌いじゃないのだろう。
結果。
通路に取り残されたのは、僕と桜井の二人だけ。
「……あまっちゃったね」
桜井が、少し困ったように、けれど楽しそうに言った。
「みたいだね。……じゃあ、後ろの席にしよっか」
「うん。……あ、私、通路側でもいい? 揺れが少ない方がいいから」
「もちろん、大丈夫」
そんなやり取りがあってから、僕たちは西村たちのすぐ後ろの列に座った。
通路側に桜井。窓際に僕。
行きのバスとは違う、けれど見慣れた席配置。
たったそれだけのことで、僕の肩から無駄な力が抜けた気がした。
バスが滑るように動き出すと、車内の空気はすぐに沈殿していった。
三日間の疲れが出たのだろう。みんな遊び疲れたのか、大半が眠りに落ちている。
前の席からは、西村と佐伯が小声で話す声が聞こえていたが、それも次第に途切れ、静かな寝息へと変わっていった。
隣を見る。
桜井も、こくりと船を漕いでいた。
膝の上には、読みかけのガイドブック。
班長として、みんなを案内するために詰め込まれた情報の山だ。
あの完璧な笑顔の下で、これだけの準備をしていたのだ。
(……お疲れ様)
心の中でだけ声をかけて、僕は視線を窓の外へ戻した。
窓ガラスの向こう、夕暮れの街並みが飛ぶように流れていく。
その時。
バスが大きくカーブを曲がり、車体が傾いた。
トン、と。
軽い衝撃が、僕の肩に乗った。
隣を見るまでもない。
桜井の頭だ。
重力に引かれて、彼女の頭が僕の肩に預けられている。
甘い匂いが、鼻をかすめた。
規則正しい寝息が、すぐ耳元で聞こえる。
僕は、石になったみたいに固まった。
(……えっと)
思考が真っ白に塗りつぶされる。
ただ石像のように固まるしかない。
下手に動けば、彼女の頭がガクンと落ちるか、あるいは目を覚ましてしまう。
今起きられたら、最悪だ。
「ごめん、寝ちゃってた」と謝る彼女と、「いや、大丈夫」と答える僕。
その後に訪れる気まずい沈黙を想像するだけで、胃がキリキリする。
それに、もし顔を見られたら。
こんな至近距離で目が合ったら、僕が動揺していることがバレてしまうかもしれない。
……リスクが高すぎる。
呼吸を浅くして、肩の筋肉を強張らせたまま、彫像のように静止する。
(……こうするしか、ないよな……)
暴走しがちな主役がバッテリー切れで休んでいるなら、それを守るのもブレーキ役の仕事だ。
そう言い聞かせないと、心臓の音がうるさすぎて耐えられない。
僕は首を少しだけ右に捻り、窓の外を睨みつけた。
ガラスに映る自分の顔は、ひどく情けなく、強張っている。
肩にかかる温かさと重み。
それが心地よいと思ってしまった自分を、僕は必死に否定した。
バスのエンジン音が低く唸る。
誰にも見られていない。
ただ、肩の重みだけが、ここにある。
僕は一度だけ小さく息を吐き、窓ガラスの反射越しに、肩で眠る共犯者の寝顔を――ほんの一瞬だけ、盗み見た。




