第64話 思い出の落とし物
修学旅行の夜、二十一時三十分。
一階のロビーでは、各部屋の代表が集まる「室長会議」が解散したところだった。
先生の「よし、解散。消灯まで三十分だぞ、急げ」という指示とともに、ジャージや浴衣姿の生徒たちが蜘蛛の子を散らすようにエレベーターへ向かう。
その喧騒が引いていく中、ロビーの隅にあるラウンジスペースだけが、ポツンと取り残されたように静かになった。
そこに、僕たち新聞係の四人がいた。
「許可、取ってきたよ。十五分だけ」
佐伯が、しおりと筆記用具をテーブルに置きながら言った。
彼女も浴衣姿だ。室長会議に出ていたそのままの格好で、額には少し汗が滲んでいる。先生を説得するのに骨が折れたのかもしれない。
「さっすがサエ。仕事が早い」
向かいのソファで、西村がスマホのタイマーをセットする。画面には『15:00』の文字。
「先生も『佐伯の頼みなら』って感じだったね。普通なら即部屋に戻れって怒られる時間だよ、これ」
僕が言うと、隣に座っていた桜井が「ふふ」と小さく笑った。
彼女も浴衣姿だ。甘い匂いが鼻をくすぐる。
昼間の「完璧な桜井さん」よりも、どこか無防備で、柔らかい。
「ありがとう、凛ちゃん。おかげで集まれた」
「……必要な時間を取っただけ。それに、今決めておかないと、明日の取材が回らなくなるからね」
佐伯は照れる様子もなく、ペンキャップを外した。
ロビーの照明が一段階落とされる。
売店のシャッターは既に下りていて、遠くから従業員が掃除機をかける音が微かに響く。
静かだ。
まるで世界に僕たち四人しかいないような錯覚に陥る。
「じゃあ、始めようか。話すのは、事後アンケートの形」
佐伯の声が、静寂によく通る。
「結論から言うと、『修学旅行の思い出ランキング』を作りたい」
佐伯は淡々と続けた。
場所、食事、ハプニング。項目ごとに投票を募り、ベスト3を発表する。
数字は嘘をつかないし、記事としてのインパクトも強い。読まれる新聞を作るための、有効な手だ。
その内容は、反論の余地がないように見えた。
西村も「面白そうじゃん」と頷いている。
けれど。
僕の隣で、桜井だけが動かなかった。
膝の上で、浴衣の袖をぎゅっと握りしめている。
「……ランキングって、少し怖いかな」
桜井が、ぽつりと言った。
「どうして? すみれ」
「順位にすると、ランクに入らなかった思い出が、つまらないものみたいに見えちゃう気がするの」
佐伯の手が止まる。
桜井の視線は、テーブルの木目に落ちていた。
「私たちが今日見た景色とか、誰かの何気ない一言とか……そういうのが『圏外』って処理されちゃうのが、なんか寂しいなって」
否定ではない。けれど、明確な拒絶だ。
エッセイを書く彼女だからこその、感性のブレーキ。
でも、佐伯の「論理」の前では、それはただの「感情論」として処理されかねない。
「……言いたいことは分かる。でも、全部は載せられない。紙面の枠は決まってるから」
佐伯が困ったように眉を寄せる。
クラス新聞のスペースは限られている。上位を目立たせるなら、他を削るのがセオリーだ。
場の空気が止まった。
西村がチラリと僕を見る。
――ほら、翻訳機。出番。
そんな視線に見えた。
……分かってるよ。
消灯前のこの静かな空気の中で、波風を立てるのは気が引ける。
でも、高一からの付き合いだ。桜井の気持ちも何となく分かる。彼女の悲しい顔を見るのは、何となく嫌だ。
僕は小さく息を吐き、口を開いた。
「……順位付けはやめたほうがいいかもしれない」
全員の視線が集まる。
胃が痛い。
「理由は?」
「ランキングだと、一部の人しか主役になれない。クラス新聞のターゲットは『全員』だよね? 載らない人が多いと、それだけで読まれない記事になると思うんだ」
僕は佐伯の方を見て、論理で返す。
そして、視線を桜井へずらさずに続ける。
「だから代わりに、『思い出の落とし物コーナー』を作るのはどうかな」
「落とし物?」
「そう。順位をつけるほどじゃない、些細なこと。『自販機のジュースが売り切れだった』とか『枕が変わって眠れなかった』とか。そういう、見出しにならないような地味な時間を拾う枠」
桜井が、顔を上げた。
「一行程度の短文なら、全員分載せてもスペースはランキングと同じくらいで済むと思う。それなら、誰の思い出も『圏外』にならないんじゃないかなって」
一瞬の沈黙。
遠くでエレベーターの到着音が「ピン」と鳴り、誰かが廊下を走る足音が聞こえた。もうすぐ消灯準備の時間だ。
桜井の表情が、ふわりと緩んだ。
強張っていた肩の力が抜けていくのが分かる。
「……それ、いいね」
声に、温度が戻っていた。
「落とし物、か。……私の好きな言葉かも」
桜井は、気に入ったみたいにその言葉を繰り返した。
肩から力が抜けたのが、僕にも分かった。
佐伯が、ペンを回しながら考え込む。
彼女の視線が宙を泳いだ。紙面の配置を頭の中で並べ替えている、そんなふうに見えた。
「……なるほど。一人分を短くして、拾える数を増やすってことだね」
佐伯が頷いた。
視線は僕だけに向いている。
ランキングの「深さ」より、全員掲載の「広さ」を取る。クラス新聞の性質なら、その方が正解だ。
「筋が通ってる。決まり。『思い出の落とし物』で行く」
「よし決まり! サエがデレた!」
西村がパンと手を叩き、立ち上がった。
「やば、あと二分で四十五分。戻ろ戻ろ、ガチで怒られる」
「了解。撤収」
佐伯もメモ帳を閉じ、立ち上がる。
僕もほっとして、ソファから腰を上げた。
エレベーターホールへ向かう西村の背中を、佐伯が追う。
去り際、彼女は振り返らずに言った。
「明日の朝七時、ロビー集合。遅れないでね、湊」
さらりと落ちた名前に、隣の桜井の肩がびくりと跳ねた。
けれど佐伯はたぶん気づいてない。
彼女の口ぶりはいつも通りで、そこに余計な温度は感じなかった。
二人の姿がエレベーターホールの方へ流れていく。
残されたのは、僕と桜井だけ。
賑やかな音が消えたせいで、ロビーの静寂が急に密度を増した気がした。
この沈黙は、少し体に悪い。
僕も部屋に戻ろうと踵を返した、その時だ。
くい、と。
浴衣の袖を、後ろから引かれた。
指二本分くらいの、控えめな力。
振り返ると、桜井がいた。
薄暗いロビーの照明が、彼女の白い首筋と、黒髪を艶やかに照らしている。
彼女は上目遣いで、僕をじっと見つめていた。
そこにはもう、昼間の疎外感も、さっきまでの緊張もない。
悪戯っぽくて、でもどこか真剣な、共犯者の目。
「……さっきの」
囁くような声。
誰にも聞こえない、二人だけの音量。
「ナイス翻訳」
桜井は口元だけで笑うと、掴んでいた袖をゆっくりと離した。
離れた指先が、名残みたいに空気を撫でた気がした。
「……ただ、クラス全員に読んでもらうためだよ」
僕は反射的に、言い訳を口にした。
そう言っておかないと、その笑顔の意味を勘違いしそうになるからだ。
「ふふ。……そういうことにしておくね」
桜井はどこか満足したみたいに目を細めると、軽やかに背を向けて、小走りでさっきの二人の後を追っていった。
残された僕は、誰もいないロビーに一人。
袖に残る感触と、耳に残る甘い声の余韻。
……卑怯だ。
あんな顔を見せられたら、ただの係の仕事だと言い聞かせている僕の理性が、また揺らぎそうになる。
期待するな。
あれは、自分の意見が通って嬉しかっただけだ。
特別な意味なんてない。
僕は自分の浴衣の袖を一度だけ払い、逃げるように男子部屋への廊下を歩き出した。




