第63話 私の知らない言葉
十一月に入ると、教室の空気が変わる。
暖房の埃っぽい匂いと、窓の外の冷たい青が混ざって、息を吸うたびに肺が少しだけ真面目になるような気がする。
ホームルームのチャイム。
先生が教卓に「しおり」の束を置く音が、やけに重たく響いた。
「修学旅行の最終確認だ。班行動についてだが、以前伝えた通り、新聞係の四名は『取材班』として動いてもらう」
担任が淡々と告げる。
要するに、行動班もいつもの四人で固定ということらしい。
その瞬間、教室の中央付近から「えー、桜井さん取られたー」という悲鳴が上がった。
視線を集めた桜井が、周りに申し訳なさそうに、けれど少し困ったように手を合わせているのが見える。
僕は窓際の、後ろから二番目の席――勝手に「特等席」と呼んでいる場所から、その様子を眺めていた。
思わず、ため息をつく。
――桜井が絡むと、どうしてこう、目立つ。
……そう言い切ってしまえたら、たぶん楽だ。
けれど、胸の奥に引っかかったのは、もっと別のものだった。
あの文化祭の終わりの時の空気。
言葉が放たれた瞬間の、外の静けさ。
思い出すな、と言われるほど鮮明に、勝手に脳裏へ差し込んでくる。
嫉妬だとか、焦りだとか。
そういう名前をつけた時点で、僕は一歩踏み込んでしまう気がした。
期待して、関係を壊すのが怖い。
だから僕は、いまだけは観察係の仮面を被り直す。
役割に集中していれば、安全だ。
考えなくて済むから。
「……湊、『面倒』とか思ってる顔になってるよ」
右隣の席から、冷静な声が降ってくる。
佐伯だ。
彼女は涼しげな瞳で、黒板の予定表を書き写している。
「別に……。新聞係としては効率的だなと思っただけだよ」
嘘ではない。
嘘ではないけど、それだけでもない。
口にできる範囲の理由だけを選んで出す。
「……だね。取材班として動くなら、固めておいた方が話が早い」
佐伯はペンを止めずに答えた。
教室の中央にいる西村が、こちらを振り返ってニカっと笑い、口パクで『よ・ろ・し・く』と伝えてきた。
その横で桜井も、少しだけこちらを見て、ふわりと微笑む。
「で、バスの座席だ」
担任の声で、教室の空気が一段階上がる。
「基本は班ごとに固まって座ること。班内での席順は自由とする。揉めるようなら、くじ引きでもしろ」
班ごとの席指定。
つまり、僕たち新聞係の四人は、自動的に一塊になるということだ。
◇
「席順、どうしようか!」
休み時間、西村が僕の席まで跳ねるようにやってきた。桜井も後ろからついてくる。
「私はどこでも平気」
佐伯が手元のノートを閉じた。
「……くじにする? それが一番早くて公平」
佐伯が手早くルーズリーフをちぎり、即席のあみだくじを作り始めた。
こういう時の手際の良さは、さすがだ。
結果。
僕の隣は、佐伯になった。
そして僕たちの後ろの座席に、桜井と西村が座る形に決まった。
「あーあ、湊とサエかぁ。バスの中で物理の授業とか始めないでよ?」
西村がケラケラと笑う。
桜井は、くじの結果を見て一瞬きょとんとしたが、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「当日よろしくね、安藤くん。……あ、酔い止め持ってるから、必要なら言ってね」
「ありがとう。たぶん大丈夫」
いつもの会話。いつもの距離感。
……だというのに。
桜井の視線が、僕と佐伯の間を一瞬だけ往復したのを、僕は見えてしまった。
◇
そして当日。
僕たちは修学旅行のバスに揺られていた。
僕の隣では、佐伯が膝の上にしおりを広げ、赤ペンを構えていた。
「バスは三時間。着いたあとの動きを、先に決めておきたいね」
佐伯がしおりの地図ページを指先でなぞる。
「今の時間だと、混むところにぶつかりそう。先に道順だけ決めておかないと、時間が削れる」
「……確かに。この時期だと、駐車場から直行するルートは他校の団体とかち合うかもね」
僕は佐伯のしおりを覗き込み、自然と同意した。
人混みは嫌いだ。避けられるトラブルは、事前に回避しておきたい。
「なら、こっちの裏道から回り込むのはどう? 距離は少し伸びるけど、団体の列には巻き込まれないと思う」
「いい。そのルートなら、途中で取材対象の『坂の上のカフェ』も経由できる」
佐伯が赤ペンでルートを書き込む。
話が早い。
パズルのピースがハマっていくようで心地よかった。
……心地いいのは、たぶん、そこに“期待”が入り込まないからだ。
仕事の話は、誰も傷つけない。
少なくとも、僕が一番怖れている種類の失敗は起きない。
だから僕は、赤ペンの動きだけを追いかける。
余計なことを考える前に、次の段取りを埋めるように、気になっていたことを口にした。
「あと、自由行動の集合は、全員揃うのは遅れるかもしれない」
「理由は?」
僕の頭に浮かんだのは、いつもの二人の動きだった。
「西村さんの買い物と、桜井さんの……『愛想の良さ』かな。
他班に会うたびに話し込まれて、足が止まるかも。
桜井さん、自分から会話を打ち切るのが苦手そうだし」
「……なるほど。優等生も楽じゃないね。メモしておくよ」
佐伯が真顔で書き込む。
僕は佐伯の赤ペンの動きに合わせて、必要なところだけ口を挟んだ。
今ここで潰せる面倒は、ここで潰しておきたい。
「――ねえ」
不意に。
後ろの座席から、呆れたような声が割り込んできた。
西村だ。
「あんたたちさぁ、ここバスの中なんだけど? 移動中くらいオフりなよー」
西村が座席の隙間から顔を出し、面白そうに僕たちを見ている。
「バスが着いた後に困らないための準備だよ」
「はいはい、意識高いこと。……ねえ、すみれも呆れちゃうよね?」
西村が隣に話を振る。
僕は少し体を捻って、後ろを振り返った。
桜井は、窓の外の景色を眺めていた。
頬杖をつき、バスの窓ガラスに薄く映る自分の顔を――あるいは、その向こうから聞こえる僕たちの会話に、静かに耳を傾けているようだった。
「…………」
数秒の沈黙があってから、桜井がゆっくりとこちらを向く。
その瞳は、いつもの「共犯者」としての悪戯っぽい光を宿していない。
かといって、怒っているわけでもない。
ただ、どこか色が薄い気がする。
「楽しそうだなって、思ってただけ」
桜井の声は、軽いはずなのに、どこか薄い。
怒っているようには見えない。
ただ、話題の外側に立ってしまった人の音がする。
「凛ちゃんと話してるときの安藤くんって、私の知らない言葉を使うんだね」
「……え?」
「論理的で、無駄がなくて、すごく『仕事仲間』って感じ」
褒め言葉の形はしている。
でも、胸の奥が少しだけざわついた。
その言い方は、僕が“ここ”にいないみたいだったから。
「……私、今の会話には入れないな」
桜井は笑おうとして、途中でやめたみたいに口元だけを動かして、窓の外へ顔を向けた。
拒絶、というほど強くはない。
ただ、目の前で静かに『準備中』のプレートを下げられたような、話しかける隙がない空気。
「……彼女の機嫌を損ねた可能性がある」
佐伯が小声で言った。
僕は短く息を吐いて、シートに背中を預け直す。
「……かもね。一旦、休憩しようか」
しおりを閉じる。
窓ガラスに映る桜井の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
彼女が何を思ったかは、聞かない限り分からない。
だから僕は、いまは余計な言葉を拾わずに、また「観察係」の仮面を被り直した。
そのほうが、間違えにくいからだ。
(……これで、いい)
胸の奥がチクリと痛むのを、僕は無視した。
期待して踏み込んで、もし間違えたら。
その後の空気が、取り返しのつかないものになる気がした。
バスのエンジン音が、低く唸る。
背中越しに感じる無言の圧力が、「それでいいのか」と問いかけてくる気がして、僕は目を閉じた。
◇
一時間後、バスはサービスエリアに到着した。
休憩時間は三十分。
トイレ休憩を済ませ、人混みを避けるように駐車場の端へ向かう。
冷たい風が、火照った頬を撫でていくのが心地よかった。
軽く背伸びをして、息を吐く。
その袖を、背後から誰かがくい、と引いた。
「……安藤くん」
振り返ると、桜井が立っていた。
手には、二つのお茶のペットボトル。
「はい、これ」
有無を言わせぬ勢いで、一つが僕の胸に押し付けられる。
「……ありがとう。でも、なんで?」
「さっき、ちょっと変だったから」
桜井はそう言って、視線を逸らした。
謝っているのか、誤魔化しているのか、僕には判別がつかない。
「二人ともさ、すごい勢いで進めるじゃん。置いていかれると、ちょっと悔しい」
冗談みたいな言い方。
でも、言い終わったあとに一拍だけ、間が落ちた。
「……ごめん」
僕は反射で謝ってしまって、続きの言葉を飲み込んだ。
下手に踏み込むと、ここから先は危ない気がしたから。
「取材の段取り、あとで私にも共有して」
「うん。共有する」
役割の話に戻す。
それなら僕は、間違えにくい。
桜井は、満足げに一つ頷くと、
「ありがと」
とだけ言って、小走りで西村のほうへ戻っていった。
手の中には、温かいお茶。
温度はあるのに、胸の奥は冷えたままだ。
期待するな。
期待した瞬間、壊れる。
僕はキャップを開けて、一口だけ飲んだ。




