第62話 閑話 山本は、ぬるいコーラを飲み干す
文化祭が終わって、クラスの連中がゾロゾロと駅前に流れていく。
打ち上げ会場は駅前の大型ファミレス。
大テーブルを占領した瞬間から、呼び出しボタンの電子音と馬鹿笑いでカオス状態だ。
「おい、辛味チキン追加したの誰だよ!」
「こっちミラノ風ドリアまだー?」
俺は空いた皿を重ねて通路側に寄せながら、内心で小さくガッツポーズを決めていた。
さっき、料理が運ばれてきた時のことだ。
桜井さんが、無意識に二の腕のあたりをさすっているのに気がついた。
風の当たる音がして、彼女の髪の毛が少しだけ揺れている。
「桜井さん、そっち寒くない? 良かったら席代わろうか」
俺が腰を浮かせると、桜井さんは一瞬目を丸くして、それから小さく頷いた。
席を入れ替えたあとで、桜井さんはあのとんでもない破壊力の笑顔で「山本くんって紳士だね」って言ってくれたんだよ。
……これ、完全に脈アリだろ。
高一の球技大会。
俺がゴールを決めた時に、スタンドから桜井さんが名前を呼んでくれた、あの瞬間。
たった一回の「山本くん!」を、俺はずっと大事にしまってきた。
で、今日、二回目が来たわけだ。「紳士」って。
もう答え合わせ完了だろこれ。
カースト的にも問題ない。
サッカー部の一軍で、打ち上げでも真ん中の席をキープしてる。
桜井さんの隣に立って違和感のない男は、まあ自分で言うのもなんだがこのクラスじゃ俺くらいだ。
ふと視線を巡らせると、その桜井さんが席を立っていた。
いつもつるんでいる西村はカラオケの話でギャーギャー盛り上がっているし、佐伯は伝票を片手にスマホで割り勘の計算をしている。
桜井さんは喧騒を離れ、店の奥にあるボックス席へ向かっている。
その先には――安藤がいた。
クラスで一番影が薄い、新聞係の地味な男。
あいつは周りの騒ぎなんか無視して、一人で黙々とドリアとポテトを食べている。
(……新聞係の連絡とかか?)
桜井さんは、そんな安藤の向かいの席に腰を下ろした。
俺は即座に動くことにした。
打ち上げの真っ最中に、あんな大人しい奴と二人きりじゃ桜井さんも退屈するだろ。
ここで助け舟を出してやるのが主役の務めだ。
うまくいけば、このまま二人で抜け出す流れにも持っていける。
俺はナプキンで口を拭い、席を立った。
ドリンクバーへ行くふりをして、二人がいるボックス席に近づく。
向かい合っている二人の横顔が見えた。
「よう、安藤。そんな隅っこで縮こまってないでさ、こっち来いよ」
俺は努めて明るく声をかけながら、テーブルの脇に立った。
安藤がスプーンを止めて、のろっと顔を上げる。
桜井さんも、少し驚いたようにこちらを見上げた。
「あ、山本くん」
桜井さんが瞬時に、あの「完璧な笑顔」をスイッチオンにする。
背筋をピンと伸ばして、小首を傾げる。
隙のない、いつもの看板娘の姿勢だ。
「どうしたの? 何かあった?」
「いや、こっち静かすぎて寂しいかなと思ってさ。安藤も一人じゃ退屈だろ? 向こうの席、詰めれば座れるから来いよ」
最高にフレンドリーな笑顔で言ってやった。
安藤を気遣いつつ、桜井さんを華やかな「メインステージ」に連れ戻す。
完璧な提案だ。
「……ううん、大丈夫」
桜井さんは、座ったまま首を横に振った。
笑顔は崩していない。
でも、声のトーンが、さっき俺に向けた時とは別物だった。
綺麗にラッピングされた、余所行きの「ありがとう、でもいいよ」だ。
「ちょっと人酔いしちゃって。ここで少し休ませてもらうね」
「え? でも安藤と二人じゃ、気を使うだろ?」
俺は食い下がった。
安藤の方をチラッと見ると、あいつは「どうでもいいけど」みたいな顔で、またポテトを食べ始めている。
この空気の読めなさ。
やっぱりコイツじゃ桜井さんの話し相手は務まらないだろ。
「なぁ桜井さん、せっかくの打ち上げだしさ――」
「ありがとう、山本くん」
桜井さんが、俺の言葉に被せてきた。
笑顔のまま。
口角は完璧に上がっているのに、その目が笑っていなかった。
「気にかけてくれて嬉しいけど、大丈夫だから」
……終わった。
優しい声のまま、完璧な笑顔のまま、ガチャンってシャッター下ろされた感覚。
ここで粘るのは「紳士」がやることじゃない。
「……そ、そっか。邪魔して悪かったな」
「ううん。ありがとうね」
完璧な対応。ノーミスの対応。
だから逆に、俺の入る隙がどこにもない。
俺は背を向けて、通路を戻り始めた。
なんだよ。一人で静かにしたかっただけだろ。
安藤なんて眼中にないんだ。
ただ、たまたまあの席が空いてただけだ。
あいつは背景で、観葉植物みたいなもんだ。
――そう自分に言い聞かせて、俺は未練がましく、一度だけ振り返った。
足が止まった。
さっきまでの「桜井すみれ」が、いなかった。
あの完璧な姿勢はどこへやら。
背もたれにぐったりと体を預けて、肩がすとんと落ちている。
制服のリボンも少し緩んでいるように見えて、緊張感というものがゼロだ。
そして、安藤の方を見もしないまま、手だけが動いた。
安藤の手元のバスケットへ、すっと白い指先が伸びる。
許可も取らず、当然みたいに一番長いポテトをつまみ上げて、口に運んだ。
……は?
安藤はスマホから目を離さず、「……あーあ」と小さく息を吐いただけだった。
止めない。怒らない。
当たり前みたいに流してる。
「……ん。安藤くん、もう一本」
「……頼めば」
「やだ。一皿は多いもん」
桜井さんが、唇を尖らせた。
俺の前では絶対に見せなかった、年齢相応の――いや、年齢以下かもしれない、甘えた表情。
「……安藤くんのがいい」
聞いたことがない声だった。
低くて、気怠くて、飾り気がゼロ。
俺に見せていた「いい顔」のキャッチボールとは全然違う。
遠慮も緊張もない。
俺は、通路に立ったまま動けなかった。
あの笑顔は、鎧だったんだ。
俺に向けてた「完璧な桜井さん」は、全部よそ行きで。
俺がいなくなった瞬間に、安藤の前でだけ、全部脱ぎ捨てた。
俺の何が悪かったとかじゃない。
桜井さんは安藤といると、頑張んなくていいんだ。
それだけのことなのに――その「それだけ」が、俺には逆立ちしても手に入らないってことだろ。
「……なんだよ、それ」
乾いた声が出た。笑いたかったのに笑えなかった。
完璧な笑顔を向けられてるうちは、俺はスタートラインにも立ってなかったってことじゃん。
俺は自分の席に戻った。
テーブルに残っていた冷めたポテトを口に放り込む。味がしない。
「おい山本、何ボーッとしてんだよ! ポテト独り占めすんな!」
「……うるせぇ。好きなだけ食え」
いつもなら「は? 俺のだろ!」って取り返すところだ。
でも今は、ポテトを誰かに取られることが、妙にどうでもよかった。
――あいつは取られたって怒んないんだろうな。
桜井さんに取られるのが、日常になってんだ。
カースト一軍? 紳士?
あの二人の前じゃ、そんなの何の意味もねぇんだよ。
俺は手元のコーラを一気に煽った。
氷が溶けて、ぬるくて甘ったるくなった炭酸が、今の俺にはちょうどお似合いだった。




