第61話 告白現場を見た僕に届いた『早く戻ってきて』
十六時前。
空き教室に漂っているのは、祭りの終わりの独特な倦怠感だった。
机の上には、役割を終えたシフト表やメモの束。
床には、どこかのクラスが配っていた極彩色のチラシが散乱している。
「……終わった。マジで、骨の髄まで働いた」
西村が椅子の上で液状化していた。
いつもの派手なオーラはどこへやら、完全に充電切れの様子だ。
「でもさ、終わってみると一瞬だったよね。喉元過ぎればなんとやら?」
「体感が短いのは、集中してた証拠だね」
佐伯は椅子に深く座り、スマホで淡々と集計作業を続けている。
けれど、その背中はいつもより少し丸まっていて、彼女なりの疲労が見て取れた気がした。
「来客数は想定の一四〇%。トラブルは三件。……致命的なのはなし」
「言い方が戦場なのよ」
西村が天井を仰いだまま笑う。
僕は部屋の隅で、空のペットボトルを潰していた。
打ち上げ前の小休止に、誰かが持ち込んだ差し入れの残骸だ。
バキッ、ベコッ、という無粋なプラスチック音が、祭りの終わりを告げる号砲みたいだ。
単調な作業をしながら、僕は頭の片隅で、数時間前の会話を反芻していた。
――その『色』が、私のお気に入りなんだけどな。
思い出すな。
あれは新聞の話だ。写真のトーンの話。
「お気に入り」という五文字に、過剰な意味を見出すな。
そう自分に言い聞かせるけれど、ゴミ処理の作業効率が無駄に上がっているのを否定できない。
たった一言でガソリンが入るんだから、我ながら安上がりな男だと思う。
ふと見ると、桜井の席だけが空いていた。
彼女はさっきまでここにいたが、「ちょっと抜けるね」と言って席を外している。
「……ゴミ、捨ててくるよ」
僕はゴミの袋の口を縛りながら言った。
「え、湊? 神なの?」
西村が顔だけこちらに向けて拝むポーズをする。
「ついでにコーヒー買ってきて。微糖で」
「神の使い方が雑だよ……」
「カフェイン、必要だから」
佐伯も顔を上げずに言った。
「……ブラックでお願い」
「はいはい、了解」
僕は苦笑して、両手にゴミ袋を提げた。
こういう地味な後始末こそ、モブの領分だ。
華やかなステージの裏で、淡々と日常に戻る準備をする。それが一番落ち着く。
教室を出る。
廊下は、祭りの余熱みたいなものが残っていた。
すれ違う生徒たちは、誰もが名残惜しそうで、終わってほしくなさそうな空気を纏っている。
僕はその波を縫うように歩きながら、頭を振った。
お気に入り。
……油断するとその言葉を都合よく解釈しようとする考えを、必死に叩き直す。
文字通りの意味じゃない。変に期待するな、僕。
モヤモヤ考えながら歩いていたら、いつの間にか校舎裏のゴミ捨て場についていた。
ゴミ袋を積み上げ、僕は大きく息を吐いた。
さて、コーヒーだ。
自販機は渡り廊下の先にあったな……。
西日が差し込む渡り廊下は、強烈なオレンジ色に染まっていた。
逆光が眩しい。
僕は目を細めながら、その角を曲がろうとして――足を止めた。
先客がいた。
渡り廊下の突き当たり。
西日を背負うようにして、二つの影が落ちている。
一人は、桜井だった。
夕風に煽られた黒髪を、耳にかける仕草。その横顔は、教室で見せる「看板娘」の顔とも、僕に見せる「共犯者」の顔とも違った。
どこか余所行きの、完成された「美少女」の顔だ。
そして、その向かいに立っている男子。
見覚えがない。
他校のブレザーを着ている。
背が高い。
姿勢が良い。
遠目に見ても整った顔立ちは、サッカー部のエースとか、バンドのボーカルとか、そういう「物語の主役」のオーラを纏っている。
……ああ、なるほど。
他校からわざわざ来たのか。
文化祭マジック。
祭りの終わりの、一番ロマンチックな時間帯。
告白のシチュエーションとしては、これ以上ない舞台設定だ。
絵になる。
悔しいくらいに、一枚のイラストとして完成されていた。
――見てはいけない。
僕の中の警報が鳴る。
これは、モブが立ち入っていい領域じゃない。
背景の僕は、主役たちのイベントシーンに映り込まないよう、速やかにフェードアウトするのがマナーだ。
回れ右。
それで終わりだ。
見なかったことにして、別の自販機を探せばいい。
頭では分かっている。
いつもなら、呼吸をするようにそう判断していただろう。
なのに。
僕の足は、なぜかコンクリートに縫い付けられたように動かなかった。
『お気に入りなんだけどな』
さっきの言葉が、今度は甘い響きではなく、小さな棘のように胸に刺さる。
……「お気に入り」?
そう言われて、僕はなんであんなに浮かれていたんだ。
目の前の光景を見ろ。
あっちが「表紙」の世界だ。
華やかで、キラキラしていて、誰もが憧れる世界。
僕がいるのは、そこじゃない。
分かっていたはずなのに。
どうして今さら、こんなに胃のあたりが重くなる。
『主役として手ェ伸ばせ』
不意に、陸の声が脳裏をよぎった。
手を伸ばす?
どこに?
あそこにか?
馬鹿なことを言うな。
僕が今このタイミングで行って、何をするんだ。
「コーヒー買いに来たんですけど」って間抜けな顔で割って入るのか?
それとも、「僕の共犯者なんで」とでも言って連れ出すのか?
そんな権利は、僕にはない。
僕たちはただの、新聞係のパートナーで。
ちょっとした秘密を共有しているだけで。
それ以上でも、以下でもない。
「……ッ」
奥歯を噛み締める。
胸の奥に、黒くてドロドロしたものが広がる。
それは、見ないふりをしてきた感情だった。
「観察者」という安全圏に引きこもって、傷つかないように距離を保って。
そうやって自分を守ってきた殻を、内側からノックするような衝動。
――嫌だ。
その言葉が、理屈を飛び越えて喉元まで出かけた。
その時。
桜井が、相手の男子に向かって、深く頭を下げた。
丁寧な、あまりに丁寧な一礼だった。
拒絶なのか、保留なのか、あるいは感謝なのか。
ここからでは声は聞こえない。表情も見えない。
ただ、その完璧な丁寧さが、僕にはひどく冷たく、遠いものに見えた。
僕には見せない、他人行儀な礼儀正しさ。
それが、「ここからは立ち入り禁止」という境界線に見えた。
その瞬間、僕は背を向けた。
もう十分だ。
これ以上見ていたら、僕の中の「安藤湊」が崩れてしまう気がした。
僕は逃げるように、その場を離れた。
足早に廊下を戻り、教室棟の角にある自販機のボタンを乱暴に押す。
ガタン、と重い音がして、缶コーヒーが落ちてくる。
取り出し口に手を突っ込んで、それを掴んだ。
「……熱っ」
指先に走る熱さに、顔をしかめる。
冬用の設定に切り替わっていたのか、それとも僕の感覚がおかしいのか。
缶の熱さは、いつまでも手のひらに残り続けた。
胸の奥のモヤモヤとした熱と同じように、冷める気配がない。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
短く、一回だけ。
僕は熱い缶を片手に持ち替え、画面を確認する。
通知には、『桜井すみれ』の文字。
『安藤くん、どこ? 戻ったよ』
『早く戻ってきて。最終確認、したいから』
……ただの確認。
たったそれだけの、素っ気ないメッセージ。
なのに、僕はその画面を見て、ほうと息を吐き出してしまった。
あっちの煌びやかな世界に引き留められることなく、彼女はこっちの『日常』に戻ってくる。
僕はスマホをポケットにしまい、熱い缶コーヒーを握りしめた。
係だ。ただの、新聞係だ。
それでも手のひらの熱は、さっきほど嫌じゃなかった。




