第60話 その『色』が、私のお気に入り
「シフト交代するぜ。お疲れ、安藤!」
次のシフトの男子にエプロンを渡し、僕は教室を出た。
昨日のうちにシフト調整は済ませてある。ここからは、新聞係としての取材の時間だ。
文化祭二日目の校舎内も、制服と私服の人たちが入り乱れ、最終日の熱気に包まれている。
僕たちは人混みを避け、集合場所である渡り廊下の隅に集まっていた。
「――進みが遅いね」
佐伯がバインダーを叩く音が、開戦の合図だった。
彼女はスマホの時計を確認し、涼しげな瞳で僕たちを見回す。
「今は十時三十分。全四十二団体のうち、取材完了は十二。残り三十。このペースだと、全部回り切るのは時間的に厳しいね」
昨日の牛乳トラブル解決で、多少なりとも彼女からの信頼は勝ち取ったはずだが、数字という現実は待ってくれないらしい。
「班を二分割したいけど、どう?」
「あー、やっぱり?」
西村が待ってましたとばかりに挙手をした。
「じゃあさ、私とサエが『ステージ・模擬店』系の派手なところ回るよ。サエの写真なら映えるし、どこのクラスが盛り上がってるか偵察できるじゃん?」
西村はチラリと桜井の方を見て、ウィンク交じりに続ける。
「で、残りの展示系とかマニアックなところは、すみれと湊にお願いしていい? そっちの方が、すみれの書きたい『空気感』とか拾えそうだし」
……あからさまなパスだ。
西村は「ナイスアイデアでしょ?」と言わんばかりの顔をしているが、単に自分が派手な方に行きたいだけにも見える。
桜井は一瞬きょとんとしたが、すぐにその提案を咀嚼し、ふわりと微笑んだ。
「うん、そうだね。千夏の言う通りかも。……安藤くん、いいかな?」
「僕は構わないけど……」
断る理由もない。それに、正直に言えば佐伯の強行軍についていくよりも、展示系をゆっくり回る方が僕の性分には合っている。
「決定だね。十五時にいつもの空き教室で合流にしよう」
佐伯は手短に告げると、西村の袖を軽く引いて雑踏の中へ紛れていった。判断が早い。
残されたのは、僕と桜井の二人だけ。
周りはカップルや家族連れでごった返している。
「……じゃあ、行こうか安藤くん」
桜井がペンとメモ帳を構え、上機嫌に僕を見上げた。
「私の『目』になってね、編集者さん」
◇
僕たちのルートは、校舎の端から端へと続く、地味な旅になった。
体育館のステージ発表や、中庭のダンスパフォーマンスには目もくれない。むしろ、そこから漏れ聞こえる歓声をBGMに、人気の少ない北校舎を目指す。
文芸部、書道部、茶道部。
静寂を旨とする部活の展示は、このお祭り騒ぎの中で嘘のようにひっそりとしていた。
「……ここ、すごく静か」
茶道部の展示室に入った瞬間、桜井が小声で呟いた。
鮮やかな赤い毛氈が敷かれた教室内は、お香の匂いが漂っている。
「入り口の暖簾と生け花が、いい雰囲気だね」
僕は入り口を振り返り、ぽつりと言った。
「外の音が、この一枚の布で一回切れるように配置されてるのかな?」
桜井が面白そうにメモを取る。
「……なるほど。『一枚の布で世界が変わる』……いただき」
「いや、機能の話をしただけなんだけど……」
「いいの。安藤くんの言葉を翻訳するのが、私の仕事だから」
桜井は楽しそうだ。
その後も、文芸部の部誌のレイアウトや、生物部の水槽の照明位置など、僕が何気なく気がついた「背景」を、彼女は一つ残らず拾い上げていく。
「安藤くんって不思議だよね」
移動中の廊下で、桜井が言った。
「そう?」
「うん。興味ないふりして、大事なところだけは、誰よりも丁寧に拾ってくれる」
ドキリとした。
買い被りだよと言い返そうとしたが、すれ違う男子生徒からの「なんだあの美少女」「隣の地味な奴、誰?」と聞こえてきて、言葉を飲み込む。
僕はできるだけ気配を殺し、桜井の影に徹しようとするのだが、彼女はそれを許してくれない。
不意に、前方から男子生徒の集団が押し寄せてきた。
僕はとっさに桜井の前に立ち、彼女が波に飲まれないよう壁際へ誘導する。
「……平気?」
「あ、うん……ありがと」
身体が触れたのは一瞬。
けれど、桜井は僕のシャツの袖を、ちょい、と指先で摘んだまま離さなかった。
僕が見ると、彼女は悪びれもせず、あくまで事務的に言った。
「……はぐれるとタイムロスだから。迷子防止の命綱ってことで」
「……了解。命綱ね」
袖を引かれる感触に、心臓が変な音を立てる。
その『迷子防止の命綱』に、たまに引かれつつしばらく歩き回った頃。
僕たちは人混みから逃げるように、階段の踊り場へ退避した。
◇
ここは校舎の端で、人もまばらだ。
開け放たれた窓からは、中庭の喧騒が見下ろせる。
焼きそばを焼く煙。ステージから響くベースの重低音。笑い声の渦。
ここから見ると、それらは遠い世界の出来事のようだ。
「……ふぅ」
桜井が小さく息を吐き、窓枠に肘をついた。
風が、彼女の後れ毛を揺らす。
「ねえ。私一人だったら、きっと今の景色も、『ただの音』って通り過ぎてたかもしれない」
彼女の声は、祭りの音に溶けそうなほど静かだった。
「華やかな場所だけ見て、写真を撮って、それで『楽しかったね』で終わってたと思う。……でも、今日は違う」
桜井が、ゆっくりとこちらを向く。
逆光で表情が見えにくい。けれど、その声には確かな熱がこもっていた。
「安藤くんと見ると……景色が違って見えるの。不思議だよね。見慣れた校舎なのに、知らない場所みたい」
あまりに無防備で、肯定的な響き。
僕は反射的に、いつもの防御壁を展開する。
「……それは、僕のひねくれた視点が混ざっちゃってるからだよ」
僕は視線を逸らし、窓ガラスに映る自分たちを見た。
美少女と、モブ。不釣り合いな構図だ。
「僕という『色眼鏡』を通してるだけ。
……事実そのままじゃない」
そう。僕の視点は、主役になれない人間の僻みに近い。
それを綺麗に翻訳しているのは、桜井自身の才能だ。
「ふふ。……うん、そうかもね」
桜井が笑った気配がした。
彼女は窓枠に頬杖をつき、ガラスに映る僕の目を見つめ返す。
「――その『色』が、私のお気に入りなんだけどな」
時が止まった気がした。
お気に入り。
その言葉の響きが、すとんと胸の奥に落ちてくる。
思考が数秒、停止した。
それが取材相手としての評価なのか、それとも別の何かなのか。
僕が何かを言い返す前に、桜井は「あ」と小さく声を漏らす。
「……今の、写真のトーンの話だよ。凛ちゃんのは綺麗すぎるから」
彼女はふいと視線を逸らすと、少しだけ口を尖らせる。
その横顔は、ライバルに負けたくない子供のようにも見えた。
「……ああ、なるほど。新聞の話ね」
僕は努めて冷静に、その言い訳に乗っかった。
「そう。新聞の話」
桜井は短く言い切ると、「よし、休憩終わり!」と背伸びをした。
彼女は逃げるように、一歩先へ進む。
「行こっか、安藤くん。残りあと五つ、コンプリートしなきゃ」
「……了解」
彼女は軽やかな足取りで、再び喧騒の中へと戻っていく。
その背中を追いかけながら、僕は耳に残った「お気に入り」という言葉を、頭の隅へ追いやろうと努力する。
新聞の話だ。そういうことにしておく。
けれど。
戻り道の人混みは、さっきよりもさらに濃くなっている。
そのせいか、制服の袖と袖が触れ合う回数が、増えている気がした。
僕はそれを、全部混雑のせいだと決めて、歩幅を合わせた。




