第59話 目が笑ってない看板娘
文化祭一日目の校舎は、外よりも酸素が薄く、熱量が濃い気がする。
無造作に積み上げられた段ボールの切り口。
乾ききっていないポスターカラーの刺激臭。
そして、どこからともなく漂うソースが焦げる甘辛い匂い。
それらが混ざり合って、校舎の中だけ季節と時間がずれたみたいな、浮ついた空気が充満していた。
午前中は西村に連れ回されて体育館エリアを巡回し、写真係としてシャッターを切らされ続けた。
ようやく解放された午後は、自クラスのシフトだ。
二年C組の出し物、「純喫茶・回廊」。
クラスで一番の人気企画というわけではないけれど、想定以上に客が入っている。手作りの飾り付けは安っぽいが、不思議と居心地がいい空間にはなっていた。
僕の持ち場は、裏方だ。
空いた食器を下げて、テーブルを拭いて、ペーパーナプキンを補充する。あとは通路に出っ張った椅子を直したり、ゴミ箱が溢れそうなら替えたり。
要するに、誰も見ていない場所を整える仕事。性に合っている。
桜井はホールの看板娘として、お客さんを席に案内している。
あの営業スマイルは今日も完璧だ。けれど、昼過ぎからの混雑で少し疲れが見え始めているのが、僕の位置からだとなんとなく分かった。
佐伯はカメラを抱えてフロアを動き回っている。新聞係の取材も兼ねて、シフトの合間に撮影しているらしい。
「……邪魔」
すれ違いざまに佐伯がぼそっと言った。僕が通路をふさいでいたらしい。
「あ、ごめん」
僕が身を引くと、佐伯はファインダーを覗いたまま通り過ぎた。
……相変わらず、遠慮のない人だ。
◇
午後二時を過ぎた頃から、ホールの空気が少しずつ変わり始めた。
客足が途切れない。回転が悪くなって、待ちの列が廊下にはみ出している。
キッチンのメンバーの声もだんだん尖ってきた。
「次の注文まだ?」「こっちだって手一杯だよ!」
こういう時に、全体は見えないものだ。
みんな自分の持ち場で必死だから、隣で何が起きているか見る余裕がない。
僕は自分の持ち場――片付けとテーブル管理――を続けながら、少しだけ動き方を変えた。
六番テーブルの客が、メニューを開いたまま困った顔をしている。お年寄りの夫婦だ。
手書きのメニューは装飾文字で書いてあって、読みづらいのだと思う。
通りがかりに「コーヒーと紅茶、あとケーキセットがおすすめです」とだけ声をかけた。おばあさんが「あら、ありがとう」と笑ってくれた。
奥のテーブルでは、注文を取りに来たクラスメイトが、客の「ホットのミルクティー」を「アイスミルクティー」で通しかけていた。
たまたま近くで食器を下げていたから、「ホットじゃない?」とだけ耳打ちした。「あ、ごめん!」と慌てて書き直していた。
入口付近の椅子が通路側にはみ出て、列の流れを微妙にせき止めているのを見れば、位置を直す。
ゴミ箱が満杯で、お客さんが困ってうろうろしていれば、即座に袋を替える。
キッチンのコップが足りなくなりそうなら、言われる前に備品箱から出す。
別に大したことじゃない。
気がついたから、手を動かしただけだ。
こういう地味なことをしている限り、僕は「背景」のままでいられる。誰にも見つからず、目立たず、でも現場がちょっとだけスムーズに回る。
それがたぶん、今の僕にできる一番まともな仕事だ。
三時を回る頃には、ピークは越えていた。
ホールの喧騒がすこし和らいで、桜井の笑顔からも張り詰めた感じが消えた。
……よかった。
僕は小さく息を吐いて、空いた食器をまとめて下げる。
◇
シフト終了後、バックヤードの隅で腰を下ろして一息ついていると、佐伯が隣に来た。
スポーツドリンクを差し出される。
喉がからからだったことに今さら気づいて、受け取り、一気に飲み干す。
彼女も僕の隣にすとんと座り込み、カメラの液晶画面をいじり始めた。
「……湊」
「ん?」
「これ見て」
佐伯がカメラを差し出した。
液晶に映っているのは、今日撮ったホールの写真だ。
賑わう店内、笑顔のお客さん、配膳する桜井、キッチンの湯気。文化祭の空気を切り取った、いい写真ばかりだ。
佐伯は黙ったまま、写真を一枚ずつ送っていく。
「……ん?」
途中で、気がついた。
何枚かの写真の端に、僕が映り込んでいる。
六番テーブルでお年寄りの夫婦に声をかけている僕。
クラスメイトに何か耳打ちしている僕。
通路の椅子を直している僕。
ゴミ箱を交換している僕。
どの写真も、僕がメインの被写体じゃない。ホールの風景を撮っているだけだ。
でも、隅っこに必ず僕がいて、何かを直している。
「……別に、僕を撮ってたわけじゃないよね」
「もちろん。店の全景を撮ってた」
佐伯は淡々と言った。
「……でも、何度撮っても端に映ってる。ずっと動いてたから」
佐伯はカメラを膝に戻し、トントンと指で叩いた。
「……みんな、今日は回転がスムーズだったって言ってる。たまたまうまくいったと思ってる」
「……実際そうでしょ。たまたまだよ」
「違う」
佐伯の声は、短くて、はっきりしていた。
「……証拠は残ってる。写真に」
僕は黙った。
なんて返せばいいのか分からない。
「……やっぱり、湊は有能だね」
「……大げさだよ。椅子直してただけだし」
「椅子を直した人がいるから、列が詰まらなかった。注文を訂正した人がいるから、作り直しが起きなかった。ゴミ箱を替えた人がいるから、お客さんが不快にならなかった。……全部、結果に出てる」
佐伯は、微かに口角を上げた。
「……事実だから」
佐伯とのこういうやり取りは、なんか楽だ。全部説明しなくても話が通じる。
僕が「大したことしてない」と言い張っても、彼女は「事実」で返してくる。議論にならない。
「えっと……ありがとう?」
あの佐伯に認められる日が来るとは。
僕が苦笑いした、その時だった。
「はい、ストップ」
不意に横から白い手が伸びてきて、僕の手から空のペットボトルが回収された。
桜井だ。
シフト終了で裏に下がってきたらしい。彼女はそのまま、佐伯と僕の間に無言でスッと割って入った。
僕と佐伯の間にあったカメラの液晶画面が、桜井の背中で見えなくなる。
佐伯は小首を傾げたが、特に気にした様子もなく、「……了解。戻る」とだけ言ってカメラを持って去っていった。
残された僕に、桜井が向き直る。
彼女は僕の顔を見ると、不満げに眉を寄せた。
そして、手を伸ばし――僕の襟元をクイッと直した。
「……襟、曲がってる」
指先が首筋にかする。
予想外の距離の近さに、僕の心臓が変な音を立てた。
けれど彼女は悪びれる様子もなく、あくまで「だらしない店員への指導」という顔で続ける。
その目は、ちっとも笑っていなかった。
「お店に出てるんだから、ちゃんとしてね」
「……もうシフト終わったんだけど」
「関係ないの。看板は閉店後もきれいにしておくものなの」
「……善処します」
「……うん、よろしい」
僕の襟を整え終えると、彼女は満足げに頷いた。
それから、少しだけ声を潜めた。僕にしか聞こえない距離で。
「……ねえ、安藤くん」
「なに?」
「……今日、ありがとね。おかげで、ちゃんと笑えてた」
彼女は僕の肩をぽんと叩くと、ふわりと営業用の笑顔に戻った。
「さ、片付けようか。……私の『背景』は、安藤くんがいてくれないと困るんだから」
そう言い捨てて、彼女はホールの方へ戻っていく。
その背中は、少しだけ軽く、そしてどこか勝ち誇っているようにも見えた。
僕はよろりと立ち上がる。
首筋に、まだ指先の感触が残っている気がした。
さて、モブに戻るとするか。
主役の視界の外。でも、主役が一番いい顔してる瞬間が見える場所。そこがたぶん、僕の持ち場だ。
少しだけ、前よりも景色が鮮明に見える気がした。
明日は取材で一日回る。桜井と。
……その景色が、少しだけ楽しみに思えた。




