第58話 「背景」が見えるのは、君だけだから
十月に入り、放課後の空気は急速に秋めいてきた。
窓の外が薄暗くなるのが早い。
文化祭まであと二週間。校舎全体が段ボールとペンキの匂いに包まれ、どこかのクラスが練習する合唱の声が微かに響いている。
そんな浮ついた空気の中、僕たち新聞係、またの名を「編集部(仮)」の四人は、いつもの空き教室に避難していた。
クラスでは今頃、全員参加の段ボール加工作業が佳境を迎えているはずだが、僕たちは担任の先生から「新聞発行のための特別活動」という名目で許可を取って、ここに避難している。
サボりではない。これもまた、重要な役割だ。
「――結論から言うと、文化祭特集号の構成案は二択かな」
佐伯が、ホワイトボードにカツカツとマーカーを走らせる。
彼女は振り返らず、背中越しに断言した。
「文化祭のあとに出すなら、感想より答え合わせだね。結果と反省が一番読まれる」
佐伯は「A」「B」と大きく文字を書いた。
「案A『行列が伸びた時間帯と売れ筋まとめ』、案B『交代で詰まった瞬間と対策』。……来年の役に立つからね」
相変わらずの切れ味だ。
先日、僕を「湊」と呼び捨てにするという爆弾を投下して以来、佐伯の仕切りがやけにキレている気がする。
ちなみにクラスの男子には「あれはただ短い方で呼びたかっただけだよ」と説明してある。まあ、誰も信じていない感じがするけど……。
「うわ、ガチのやつじゃん。夢がないねー」
西村が頬杖をつきながら、退屈そうにペンを回す。
「サエさぁ、お祭りだよ? 終わったあとにシフトの反省会みたいな記事読みたくないって。ねえ、すみれは?」
西村がパスを回す。
静かにプリントを眺めていた桜井が、顔を上げた。
彼女は少しだけ視線を伏せ、言いづらそうに口を開く。
「……私は、その、体験レポートみたいなのがいいかなって」
「レポート?」
「うん。……実はね、去年、私あんまり回れなかったから」
桜井は苦笑いをした。
整った顔立ちに、微かな陰りが落ちる。
「クラスの受付とか、お手伝いとかしてたら、あっという間に終わっちゃって。……だから今年は、ちゃんと見て回りたいなって。数字じゃなくて、みんながどんな顔で楽しんでいたか、その空気感を残せたら素敵だなって」
しん、と場が静まる。
桜井がそんな顔をすると、見ている僕たちのほうに罪悪感が湧いてくる。反則だ。
佐伯も一瞬だけペンを止めて、ほんのわずかに息を吐いた。
「……そうだね。採用」
佐伯が即答した。
「えっ、早! サエ、すみれに甘くない?」
西村が目を丸くするが、佐伯は涼しい顔で「空気感も貴重な記録だからね」とノートに書き込む。
まあ、今の空気で拒否はできないよな……。
「まぁ、いっか。よし決まり! 今年のテーマは『全エリア制覇』。取材ってことにして、全部回ろ!」
西村が両手を叩いて宣言する。
その宣言を聞いた瞬間、僕の中のやる気が一度死んだ。
「全エリア? 非効率的だよ」
佐伯が眉をひそめる。
「全部で四十二個ある。取材時間を一件十分としても七時間。開催期間が二日間あるとはいえ、全て確認できるか分からないよ」
「そこをなんとかするのが、サエの手腕でしょーが」
「……計算してみるけどさ」
佐伯はブツブツと計算していたが、ふと、その口元が微かに緩んだ。
どうやら、変なスイッチが入ったらしい。彼女の瞳に熱が灯る。
「仕方ないな……最短で回るルートを作るよ」
よし、流れは決まった。
問題は、誰がどう動くかだ。
「じゃあ、役割分担だけど」
西村が仕切る。
「私は『リーダー』ね。サエのルートの管理と、全体の時間管理をやるから」
まあ、西村がいるなら佐伯の暴走は止まるだろう。
「あ、ちょっといい?」
柔らかい声が遮った。
桜井だ。
彼女は作業の手を止め、佐伯を真っ直ぐに見つめた。
「写真は、凛ちゃんにお願いしたいな。凛ちゃんの撮る写真、構図が綺麗で好きなの。構図の切り取り方が上手いっていうか」
「……私は広報委員としての経験もあるからね。了解したよ」
佐伯があっさり頷く。
口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「ありがとう。……じゃあ、記事の文章は私が書くね。私、どうしても書きたいテーマがあるから」
「テーマ?」
「うん。文化祭って、キラキラしてるところだけが全部じゃないでしょ?キラキラ以外の空気も拾いたいんだ」
桜井はそこで言葉を切り、ゆっくりと僕の方を向いた。
大きな瞳が、逃げようとしていた僕を捕まえる。
「……だから、写真に添える一言、安藤くんにお願いしたいな」
唐突な指名に、空気がピクリと反応する。
「……僕?」
思わず聞き返す。
佐伯が怪訝そうに口を挟んだ。
「待って。文章なら私でも書けるよ。写真とセットのほうが、まとめやすいと思うけど」
「ううん、違うの凛ちゃん」
桜井は、ふわりと笑った。
けれどその笑顔は、佐伯の言葉を優しく、しかし断固として拒絶していた。
「凛ちゃんの文章は『正しい』の。でも、私が欲しいのは『背景』なの」
「……どういうことなのかな?」
「えーと、つまり」
桜井は紙の端を指で押さえたまま、僕を見た。
「安藤くんはいつも、教室の隅っこまで見てるでしょ?」
その言葉で、僕は桜井のエッセイに引きずり込まれた“最初の日”を思い出す。
『安藤くんって、そういうの、よく気づいてるでしょ』と、当時も言われていたっけ……。
「キラキラした場所だけじゃなくて、誰も見ていない『背景』に気づけるのは……安藤くんだけだから」
彼女は一歩、僕に近づく。
有無を言わせない「圧」が、笑顔の裏から滲み出ていた。
「この記事の『背景』は、安藤くんじゃないと困るの。……ダメ、かな?」
桜井は僕の顔を覗き込むように見て、首を少しだけ傾げた。
口調は「お願い」なのに、空気はもう決まっているみたいだった。
佐伯は「……そう見える根拠があるなら、受け入れるよ」と、眉を少し寄せたまま引き下がった。
西村はニヤニヤしてこちらを見ている。
僕は小さく息を吐いた。
さっき思い出した僕と桜井の始まりが、背中を押してくる。
あの時から桜井は、こういう場面では意外と強引だ。
そして僕は、その強引さに弱い。
それに。
『安全地帯で解説してるだけじゃ、一番いいとこは持ってけねえぞ』
陸の言葉が、言い訳を探す僕の脳裏をよぎる。
一番いいところなんて、想像できない。
けど、「背景」としてついていくだけなら、僕の性分にも合っている……はずだ。
「……分かった。その『背景』、僕が拾ってみるよ」
僕が観念して答えると、桜井はぱあっと花が咲くように破顔した。
「ふふ、ありがとう! 頼りにしてるね、安藤くん」
その笑顔を見て、佐伯がボソリと「……非効率だと思うけどな」と呟いたのが聞こえたが、僕は聞かなかったことにした。
こうして、文化祭当日の取材班が決まった。
撮影係、佐伯。
リーダー、西村。
記事担当、桜井。
そして背景担当、僕。
役割分担は決まった。
僕の胃が持つかどうかを除けば。




