第56話 凛ちゃん呼びが始まった日、僕は「湊」になった
放課後。
騒がしい教室を避けて、またいつもの空き教室に僕たち新聞係は集まっていた。
埃っぽいカーテンの隙間から、西日が差し込んでいる。
机の上には、九月の学級新聞、文化祭準備号の試し刷りが広げられている。
新聞係の活動時間。
本来なら平和に終わるはずの編集作業が、結論が出ないまま、同じところを回っていた。
「……却下。一目で伝わらない」
赤ペンを持った佐伯が、容赦なくバツ印をつける。
「佐伯さんの意見も分かるけど……でも、もう少し華やかさがあったほうが、みんな立ち止まってくれるんじゃないかな。事実だけだと、素通りされちゃう気がして……」
対面に座る桜井が、困ったように眉を下げつつ、それでも笑顔で食い下がる。
西村は「あー、始まった」と言わんばかりにスマホをいじり始め、僕は窓の外の雲を数えるフリをして気配を消した。
議題は、一面トップの見出しだ。
佐伯が推すのは『二年C組、LED照明による空間演出を実施』という、事実そのものの羅列。
対して桜井の案は『昼間の星空、現る。教室に魔法がかかる日』という、ポエム一歩手前の情緒的なもの。
論理と感性。
水と油の戦いが始まって、もう十分が経過している。
「桜井さん。新聞の目的は情報の伝達だよね。あなたの案は抽象的すぎて、何をする企画なのか伝わらない。具体性がないと、読まれない。それだけだよ」
「それはWeb記事の話でしょ? これは壁新聞だもん。通りがかった人が『わあ、綺麗そう』って足を止めてくれなきゃ意味がないよ。佐伯さんの案だと、報告書みたいでワクワクしないかな」
どっちも譲らない佐伯と桜井。
さっきから平行線だ。
「……で、湊はどう思うわけ?」
西村がスマホから顔を上げ、楽しそうにキラーパスを投げてきた。
佐伯の冷徹な視線と、桜井の期待を含んだ上目遣いが、同時に僕を突き刺す。
逃げ場はない。
僕は観念して、小さく息を吐いた。ここで沈黙すれば、帰宅時間が遅れるだけだ。
こういう時に西村に『湊』と呼ばれ、無茶振りされるのにも、もう慣れている。新聞を作り始めてからずっとそうだ。
ただ今日は、その音がやけに大きく聞こえて胃が痛い。
「……どっちも、狙ってる層が違うだけだと思う」
僕は当たり障りのない前置きをしてから、二人の案を指差した。
「佐伯さんの言う通り、何をするか分からないと人は来ない。……でも、桜井さんの言う通り、感情がないと人は動かない」
「……つまり?」
佐伯が眉をひそめる。
「だから、合体させればいい。……メインの見出しは桜井さんの『情緒』で足を止めさせて、サブタイトルに佐伯さんの『情報』を入れて安心させる。……たとえば」
僕は即興で、二人の要素を繋ぎ合わせた。
「『昼間の星空、現る――LED照明と暗幕による、プラネタリウム風カフェ』……とか」
教室に、一瞬の沈黙が落ちた。
「……なるほど。惹きつける言葉と、内容が分かる言葉が両方あるね」
佐伯が納得したように頷き、手元のノートにペンを走らせる。
桜井も、ぱぁっと花が咲くような笑みを浮かべた。
「うん! それなら素敵! やっぱり安藤くんは、言葉の翻訳が上手だね」
ただの折衷案だ。
二人の顔を立てて、一秒でも早く帰りたいという執念が生んだ苦肉の策に過ぎない。
だが、この提案で場の空気が緩んだのは事実だった。
作業が再開される。ピリピリしていた空気がすっと抜け、穏やかな放課後の空気が戻ってくる。
そのタイミングを見計らったように、桜井が動いた。
彼女は作業の手を止め、少しだけ恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに佐伯を見つめた。
「……ねえ。佐伯さん」
「何かな?」
「そろそろ、名字じゃなくて……下の名前で呼んでもいいかな?」
おずおずとした提案。
転校してきてから半年弱。論理で武装した佐伯に対し、桜井はずっと「佐伯さん」と距離を保ってきた。
今の議論で、お互いの言い分が一度だけ噛み合った。その空気が残っているうちに、桜井が一歩踏み込んだ。
佐伯はきょとんと目を丸くし、それから少し肩をすくめたように答えた。
「自由だよ。間違えなければいいからね」
いかにも彼女らしい、素っ気ない許可。
その口調は相変わらず平らだったけど、拒む感じはなかった。
「ふふ。……じゃあ、凛ちゃん」
桜井が嬉しそうに呼ぶ。
佐伯は……少し居心地が悪そうに、視線をふいっと手元のノートに逃がした。
「……了解。なら私も、すみれと呼ぶ。公平にするためにね」
「うん!」
微笑ましい光景だ。
クラスの二大巨頭というか、水と油だった二人が、こうして名前で呼び合うようになる。
西村がニヤニヤと僕を見てくるが、無視だ。
僕は心の中で「よかったな」と安堵の息をつく。
これで新聞係の運営もスムーズになるだろう。
僕の胃痛の種がまた一つ減った。
そう思って、鞄を手に取ろうとした時だった。
「……ついでに、もう一つだけ」
佐伯が、ふと僕の方を向いた。
落ち着いた視線が、僕に刺さる。
「安藤くん、って呼ぶのは長い。前から思ってた」
「は? ……いや、普通でしょ」
「長いのは事実。呼びやすい方にする。それだけ」
彼女は、天気の話でもするみたいにさらっと言った。
「……湊」
教室の空気が、ピタリと止まった。
「……は?」
僕が間の抜けた声を上げるより先に、隣で「えっ」という小さな、けれど鋭い音がした。
桜井だ。
さっきまでの満面の笑みが、不自然に固まっている。
「……凛、ちゃん? 今、なんて?」
「湊。『安藤くん』は六音。『湊』は三音。半分で済むし、すみれとも揃うからね」
「いや、ええと……」
僕は困惑して、言葉を詰まらせる。
そんな理由で名前呼びに変える女子がいるだろうか。
「嫌ならやめる。嫌じゃないなら、そう呼ぶ」
「嫌ではないけど……」
そういう言われ方をすると、特に断る理由が思いつかなくて、僕は諦めて、曖昧に頷くしかなかった。
だが、隣の桜井は違った。
彼女は手元のペンを、カチ、カチ、と無意識のリズムでノックしながら、引きつった笑顔を佐伯に向けている。
「……そっか。短い方がいい、だもんね。あはは……」
笑ってはいるが、目が笑っていない。
手元のペン先が、試し刷りの余白を執拗に叩いている。
さっきまでの「うん!」という弾んだ声色は消え失せ、代わりに、声の高さだけがすとんと落ちた。
「……なんか、ずるいなぁ」
その言葉が、誰に向けたものだったのか。
僕には聞こえなかったフリをして、逃げるように席を立った。
女子の友情と、効率の論理。
その間に挟まれる僕の平穏は、文化祭本番を前にして、早くも崩れ去ろうとしていた。




