第55話 視覚的な逃げ道
放課後の空き教室は、僕たちの不法占拠地だ。
正確には、新聞係の活動場所として使用許可をもらっている。ただ、「活動」の実態は限りなくだらだらしている。
窓際の席で佐伯がノートに何かを書き込んでいる。
文化祭特集の構成案だ。
僕の隣では桜井が取材ネタをメモ帳に書き出し、向かいでは西村がスマホの画面を見ながら「これ載せたい」「これもいける」とひとりごとを言っている。
僕はといえば、前回の新聞の反省点をまとめるふりをしながら、窓の外をぼんやり眺めていた。
……省エネモードだ。
文化祭特集の企画会議とは名ばかりで、各自が好き勝手に手を動かしているだけ。でも、不思議とこの時間が嫌いじゃない。
「ねー湊、文化祭の特集ってどのくらいの分量にする? 他のクラスとか参考にしたくない?」
「知らない。他のクラスの事情まで把握してない」
「冷たー。ちょっとは興味持ちなよ」
「……持ってるから今ここにいるんだけど」
西村とのやりとりは、いつもこんな感じだ。
「去年の文化祭レポートなら、生徒会の資料棚にいくつかあったはず」
佐伯がノートから目を上げずに答える。
「サエ、物知り〜」
「……前に資料整理を頼まれたとき見ただけ」
穏やかな時間だった。
この四人での活動も半年になる。桜井の「観察係」として始まった僕の役割は、いつの間にか新聞係の裏方として定着していた。
桜井が取材先をリストアップし、佐伯が構成を組み、西村が見出しのセンスを磨き、僕が……まあ、隙間を埋める。
部活でもないのに、妙に息が合っている。
その平和が崩れたのは、教室のドアが勢いよく開いた瞬間だった。
「安藤! いるか!?」
息を切らして飛び込んできたのは、うちのクラスの文化祭実行委員──相澤だった。
くじ引きで選ばれた不幸な男だ。
「……いるけど」
「助けてくれ。マジで詰んだ」
相澤は僕の前の席にどさっと座り込み、机に突っ伏した。
「カフェ、やるって決まったじゃん。でもさ、今日の委員会で、隣のクラスもカフェだって分かって。しかもあっちは家庭科部の子が三人もいて、メニューもガチで……」
「……被ったのか」
「被った。で、うちが先にカフェって決めたの知ってるくせに、あっちは『うちの方がクオリティ高いから問題ない』って。比較されたら絶対負けるし……。どうすりゃいいんだよ」
相澤の声は、切実を通り越して半ば絶望していた。
西村が「うわ」と小さく声を上げる。
「それ、メニュー被りってこと? 最悪じゃん」
「メニューどころか、コンセプトまで丸被り。『映えカフェ』ってやつ。内装もドリンクも似たようなのになる」
「じゃあ変えれば?」
「変えるったって、もう材料の発注リスト作っちゃったし、今からゼロベースで考え直す時間なんかねーよ」
相澤が頭を抱える。
僕は黙って聞いていた。
これは新聞係の仕事じゃない。巻き込まれる義理はない。
……はずなのに。
桜井がメモ帳のペンを止めて、相澤の方を見ている。
「相澤くん、ちなみに隣のクラスは、いつ頃から準備してたの?」
「え? あ、えーと……夏休み前からって言ってた」
「じゃあ、内装とかも結構本格的?」
「らしい。美術部の子もいるとかで」
「そっか……」
桜井は小さく頷いてから、いつもの柔らかい声で続けた。
「同じ土俵で戦っても勝てないなら、土俵を変えるしかないんじゃないかな。カフェをやめるんじゃなくて、カフェの『見え方』を変える……みたいな」
桜井の言葉に、相澤が顔を上げる。
「見え方?」
その時、佐伯が口を開いた。
「……結論から言うと、桜井さんの方向で合ってる。隣のクラスが『映え』で勝負するなら、同じ軸で張り合うのは非効率。差別化するしかない」
佐伯はノートのページをめくり、白紙のページに何かを書き始めた。
「カフェの構成要素は、メニュー・内装・接客。メニューで勝てない、内装でも勝てない。……なら、残るのは『空間設計』の部分」
「空間設計って……?」
「隣が『明るくて映える』なら、こっちは真逆に振る。暗くする。作業量も大幅に減る」
佐伯の提案は明快だった。
ただ、相澤の顔は冴えない。
「暗くするって……それ、ただの手抜きに見えないか? 暗幕カフェなんて文化祭の定番すぎて、逆にダサくね?」
「……否定はしない」
佐伯が素直に認めた。
西村がぱん、と手を叩く。
「はいはいストップ。相澤、気持ちは分かるけどさ、ダメ出しだけしてても進まないっしょ。手抜きに見えるのが問題なんでしょ? じゃあ手抜きに見えなきゃいいじゃん」
「それができたら苦労しねーって……」
会話が止まる。
相澤が再び机に突っ伏しかける。
僕は窓の外を見ていた。
夕日が差し込んで、教室の半分が影になっている。明るい側と暗い側で、同じ教室なのにまるで違う場所みたいだ。
(……逃げ道、か)
頭の中で、何かが繋がった。
「……あのさ、相澤」
「ん?」
「暗いのが手抜きに見えるのは、暗さに『意味』がないからだと思う」
相澤がこちらを見た。佐伯も、ペンを止めた。
「視覚的な『逃げ道』を作ればいいんだよ。暗くすると、見えない部分が増える。で、人って、見えない部分を勝手に『良いもの』として補完する。映画館が暗いのと同じで、暗さがあると没入感が上がる」
「……それ、本当?」
「たぶん。少なくとも、明るい場所で見たら粗だらけのものも、暗い中で光だけ当てたら『演出』に見える。プラネタリウムみたいなもんだよ。あれ、実際は天井にライト当ててるだけだけど、暗いからすごく見える」
僕は自分の言葉の着地点を探しながら、続けた。
「……だから、『手抜きの暗さ』じゃなくて、『演出としての暗さ』ってコンセプトにすれば、隣のクラスと軸が完全に変わる。向こうが昼なら、こっちは夜。比較されないから、負けもしない」
教室が静かになった。
佐伯が一拍置いてから、静かに頷いた。
「……安藤くん。そう定義されると、暗幕カフェは『手段』じゃなくて『コンセプト』になる。採用できる」
佐伯はノートに書き足しながら、淡々と続ける。
「星をモチーフにした照明を少数置けば、プラネタリウム風カフェとして成立する。内装の作業量は映えカフェの三分の一以下。避難経路と換気さえ確保できれば、実現可能」
「え、マジで? それ、いけんの?」
相澤が身を乗り出す。
「いける。コストも抑えられる。……ただし、企画書は早めに出して。条件の確認に時間がかかるから」
「おっけ、明日出す!」
相澤の顔が、さっきまでの絶望が嘘みたいに明るくなった。
彼は勢いよく立ち上がり、教室を出ようとして──ふと、足を止めた。
振り返って、僕たちを見る。
「……なあ、お前ら。いっつもこんな感じなの?」
「こんな感じって?」
「いや、なんか……すげー手際いいなって。西村がブレーキかけて、佐伯がレール敷いて、桜井がまとめて、最後に安藤が落としどころ置いて。部活かよ」
西村がけらけら笑う。
「あはは、部活じゃないよ。新聞係」
「新聞係って、こういうことすんの?」
「しないしない。……結局さ、最後は湊の悪知恵が全部まとめちゃうんだよね」
相澤は「はは、怖」と笑って、手を振りながら出て行った。
ドアが閉まる。
教室に、四人だけの沈黙が戻った。
僕はすぐに窓の外に視線を戻した。
(……巻き込まれた)
完全に、新聞係の仕事じゃなかった。なのに自然と口が動いていた。
半年前の僕なら、絶対に黙っていたはずだ。
「ふふ」
小さな笑い声。
桜井が、手元のメモ帳にさらさらとペンを走らせている。
『見えない部分を、人は勝手に良いものとして補完する』
彼女が書いたのは、さっきの僕の言葉の要約だった。
僕たちの間に流れたその空気を、西村の明るい声がパンと断ち切る。
「はい、会議終了ー。次は実地調査ね」
西村がスマホを片手に立ち上がった。
「ねえサエ、去年の文化祭レポートって生徒会の棚だっけ」
「……そう。今のうちに確認しておく」
佐伯が立ち上がり、ノートを閉じた。
「じゃ、私も行く。写真撮っとけば見出し考えるの楽だし」
「先に行って。私はここ片づけてから出る」
桜井が鞄の口を整えながら言う。
西村が「りょ」と手を振り、佐伯が無言で頷く。
二人の足音が廊下の向こうへ遠ざかって、教室に空白が戻った。
「……それ、メモるようなことかな」
「うん。すごく面白い。ねえ安藤くん、今の言葉、例の場所で使わせてもらっていい?」
「……好きに使って」
桜井は満足そうにメモ帳を閉じた。
「でも」
ペンのキャップをかちりと嵌めてから、少しだけ声のトーンを落とす。
「佐伯さんの分析はすごく頼りになるけど……安藤くんまでそっち側に行かないでね? 私の文章、固くなっちゃうから」
少しだけ口を尖らせて、冗談めかして言う。
けれど、その後の一拍の沈黙は、冗談にしては長い。
「……気をつける」
「うん、よろしく……共犯者さん」
桜井はメモ帳を胸に抱え直して、視線だけこっちに置いたまま笑った。
楽しげな余韻を残して、彼女が僕の横を通り過ぎる。
ふわりと、柑橘系の香りが鼻先を掠めた。
そのまま桜井は鞄を肩にかけて、教室を出た。
遠ざかる足音。
僕は一つ息を吐いてから廊下へ出ると、背後でカタリとドアを閉めた。
廊下を歩きながら、さっき自分が言ったことを反芻する。
見えない部分を、人は勝手に良いものとして補完する。
……それは、僕自身のことでもある気がした。
「観察係」という役割の裏側を、誰にも見せていない。
見せなければ、みんなが勝手に「ただの裏方」として補完してくれる。
逃げ道。
暗がりに隠れて、都合の良い世界を維持する方法。
(……まあ、いいか)
僕は鞄の紐を直し、階段を降りた。
文化祭特集の取材は、いつもどおり「桜井の観察係」として、僕なりの視点でやればいい。
それが一番楽だし、彼女もそれを望んでいるみたいだから。




