第54話 私の、『観察係』として
二学期の教室には、独特の湿度がある。
久しぶりに顔を合わせた興奮と、休みボケの気だるさ。その二つが混ざり合って、生温かい空気が淀んでいるのだ。
始業式から一週間。そろそろ授業も本格化し、現実に引き戻されつつある放課後。
僕たちが発行した新聞を、全員が食い入るように見ていた。
「……ぶっ、なんだこれ」
「おい見ろよ、この円グラフ」
「うわー、わかる。これあるわー」
教室のあちこちから、遠慮のない笑い声が弾ける。
いつもなら即座にゴミ箱行きになりがちな紙面を、今日は誰も手放そうとしない。
今回の見出しは『絶望を共有しよう ~宿題の残り、見えるようにします~』。
キラキラした海も、お洒落なカフェも一切なし。
掲載されているのは、『始業式前夜の睡眠時間分布』や、『読書感想文の進捗率(未着手40%)』といった、みんなが共感しやすいネタばかりだ。
「……読み通りだね」
僕の隣で、佐伯凛が愛用の厚いノートを広げていた。
そこには整然と数字が並んでいる。彼女はペン先でそれをトン、と叩いた。
「今までで一番、声が出てる。『これ俺だ』が飛んでるし」
彼女は、笑い転げているクラスメイトたちを冷静に見回した。
驚いた様子はない。ノートのメモと今の教室が重なって、少しだけ口元がほどけたように見えた。
「眩しい話は、置いていかれる人が出る。宿題は全員の話。今の空気には、そっちが合ってるみたいだ」
「別に計算したわけじゃないけど……。みんなが苦手な共通話題だからね、宿題って」
僕は頬杖をついたまま、ぼそっと答えた。
「嫌いって感情は共有しやすい。そこを拾った判断は合格だよ」
佐伯は淡々と評定する。
彼女の中で、僕が『回せる人』として固まりつつあるのが少し怖い。
「はい、厨二の勝ちー」
通りがかった西村が、僕の机をパンと叩く。
「『絶望を共有しよう』って見出し、めっちゃウケてるよ。みんな『これ俺だ』って指差してるもん」
「西村さん……厨二はやめて」
心底嫌そうに返すと、西村はニカっと笑って、自分の回答『読書感想文:タイトルだけ書いた』が載った紙面を指差した。
「ま、私のダメさがクラスの安心材料になったなら、安いもんでしょ」
「安上がりな平和だね」
「コスパ最強って言って!」
西村はひらひらと手を振って、他の女子の輪に戻っていく。
その背中を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
結果オーライだが、これでまた変な期待値を上げられた気がする。
喧騒が少し落ち着いた頃。
ふわり、と甘い香りが鼻先をかすめた。
「お疲れ様。安藤くん」
桜井が、いつの間にか机の横に立っていた。
手には同じ新聞を持っているが、彼女のものは折り目一つなく、綺麗に扱われている。
「大成功だね。みんな笑ってくれてる」
「そうだね。まぁ……苦情が出なくてよかったよ」
「ふふ。佐伯さんも、満足そうだし」
隣の佐伯はノートから目を上げずに、ペン先だけ止めた。
桜井は楽しそうに目を細め、クラスの風景を眺めた。
その横顔は、教室の誰よりも優等生らしく、穏やかだ。
だが、僕には分かっていた。
この『絶望の共有』というテーマを、「笑える方向」に整えたのは他ならぬ彼女だということを。
「……ねえ、安藤くん」
周囲の喧騒に紛れるような、静かな声。
桜井は編集部のときみたいに自然な手つきで、少しだけ身を乗り出し、僕の手元にある新聞を指先でとん、と叩いた。
その拍子に、僕の指と彼女の指がほんの一瞬だけ触れる。
「次の文化祭特集も、また一緒にやろうね」
「……そうだね。新聞係だし」
断る理由もないから、と続けようとした時だった。
「ううん、係だから、とかじゃなくて」
桜井は言葉を切り、僕の目を真っ直ぐに見た。
「私、安藤くんにお願いしたいの」
ドキン、と心臓が跳ねる。
言葉の響きが、あまりに無防備で、直接的だったからだ。
周りの雑音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
彼女も自分の言葉の『音』に気づいたのか、ぱちくりと瞬きをする。
視線が一瞬だけ教室を泳いで、すぐに言い直した。
「し、取材! 文化祭の取材! ほら、次はそれだし、またネタ探し……そ、そう!」
彼女は慌ててまくし立てると、誤魔化すように顔を伏せた。
そして、ほんのりと頬を朱に染め、慌てて小さな声で付け足した。
「……私の、『観察係』として……ね」
顔を上げた彼女は、努めていつもの『丁寧な桜井さん』の表情を作っていた。
けれど、まだ耳の赤さは引いていないし、視線も僅かに泳いでいる。
観察係。
それは僕らだけの秘密の肩書きだ。
彼女がその言葉を使うと、僕はいつも断りづらくなる。
「……そ、そうだね。了解です」
僕は動揺を隠すように、つい事務的な敬語で返してしまう。
ここで変に意識するのは、僕のキャラじゃない。あくまで『観察係』という役割を演じきらないといけないのに。
「……なら、いいけど」
桜井は小さく咳払いをして、すっと背筋を伸ばした。
そして、悪戯が見つかった子供のような、少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべる。
「でも……ありがと。なんだかんだ、楽しかったから」
「……どういたしまして」
彼女は満足そうに頷くと、踵を返して自分の席へと戻っていった。
手元に残された新聞には、僕が書いた編集後記が載っている。
『宿題が終わらなくても、夏は終わる。諦めよう』。
そんな投げやりな締めくくりの一行を眺めながら、僕は小さく肩をすくめた。
諦めきれない何かが、僕の中にはまだ残っている。
花火の音も、今の会話も。
少なくとも、彼女の「観察係」であることだけは、僕も悪くないと思っている。
キーンコーンカーンコーン。
予鈴が鳴る。
祭りの後のような気だるさを引きずったまま、僕たちの二学期が、ゆっくりと動き出した。




