第52話 閑話 山本は『除外フォルダ』を覗く
夏休みの部活帰りは、思考が単純になる。
腹減った、眠い、暑い。だいたいこの三つだ。
俺はシャワーで汗を流し、エアコンの効いた自室のベッドにダイブした。
生き返る。
筋肉の張りが、今日一日「正しく努力した」ことの証明みたいで悪くない。
俺は山本。二年C組、サッカー部だ。
枕元でスマホが短く震えた。
LINEの通知。
西村が作った『夏号運用』のグループチャットだ。
「素材集め協力よろ!」という名目でクラス全員が招待されているため、夏休み中だというのに画面の中は騒がしい。
「西村:【アルバム作成:新聞素材】」
「西村:とりまプールの写真入れとく! 各自確認よろ!」
「西村:変な顔のやつは削除禁止! 青春ポイントだから!」
「佐伯:重複とピンボケは外しました」
「佐伯:紙面に使いにくいものは『除外フォルダ』に入れてあります」
「西村:サエ仕事はっや」
いつものメンツだ。
クラスの中心で回っている、西村千夏と佐伯凛。
西村は、典型的なギャル系だ。
清楚な桜井さんとなぜ仲がいいのか謎だが、あの底抜けに明るい性格と、桜井さんほどではないにしろ整った顔立ちで、男子からの人気は普通に高い。
一方の佐伯は、桜井さんに迫る美人だ。
モデルみたいにスレンダーで、艶やかな黒髪ロング。ただ、表情が乏しい上に「近づくなオーラ」が凄すぎて、特攻して玉砕してる奴を何人も見た。
俺は桜井さん一筋だから興味はないが、高嶺の花という意味ではどっこいだ。
俺は変に口を挟まず、画面を眺めた。
流れていくやり取りを、指で追うんじゃなく目で拾う。
狙いは、この騒がしさの向こう側にいる、静かな一人だ。
――桜井すみれ。
彼女のアイコンが現れるのを待つ。
桜井さんは、クラスの中でも別格だ。
顔の造形が、そもそも違う。
意志の強そうな大きな瞳に、スッと通った鼻筋。配置のすべてが黄金比みたいに整っている。
肩にかかる黒髪は、いつ見ても手入れが行き届いていて、シャンプーのCMみたいにサラサラと揺れている。
漂う雰囲気はどこまでも「清楚」で、俺たちみたいな高校生特有の「幼さ」や「騒がしさ」が、彼女には一切ない。
誰にでも優しいが、誰のものにもならない。
去年の冬、野球部のエースが告白したときもそうだった。
彼女は「ありがとう、嬉しい」と完璧な笑顔で受け止め、そのあと「でも、ごめんなさい」と一ミリも傷つけずに断ったらしい。
あの笑顔は、武器であり、壁だ。
俺も話しかけたことはあるが、彼女はいつだって楽しそうに聞いてくれる。
けれど、目が笑っているのに、瞳の奥が冷静で、「これ以上は踏み込まないでね」というラインを引かれている気がする。
俺たち運動部の男子にとって、彼女は遠巻きに「すげーよな」と噂するだけの、アンタッチャブルな領域だ。
下手に動いて玉砕するのはダサい。
だから俺は、部活で結果を出して、周りから認められて、自然と釣り合う男になるのを目指している。
遠回りでも、それがいちばん手堅い勝ち筋だ。
ふと、チャットの中に意外な名前が混ざった。
「西村:あ、今回のカメラマンは安藤くんでーす」
「安藤:不本意」
「西村:文句言わない。荷物持ち兼任ありがとう」
「安藤:労働基準法……」
安藤湊。
教室の端っこで、いつも眠そうにしている地味な奴。
西村に使われてるだけか。
俺は鼻で笑って、少しだけ強ばっていた肩の力を抜いた。
安心した。
よく考えれば、安藤とは一年の時も同じクラスだった。
文化祭の時、たしかシフトも一緒になったはずだ。
でも、俺の記憶には、エプロン姿の桜井さんと話したことしか残っていない。
安藤もそこにいたはずなのに、何を話したか、何をしてたか、まるで思い出せない。
あいつは「背景」だ。
これがもし、他の運動部の奴や、他校のイケメンだったら焦るところだが、安藤なら大丈夫だ。
あいつは、そういうカースト争いみたいな競争に、そもそも参加していない。
女子にとっても「男」として意識する必要がない、「無害な置物」みたいなポジション。
桜井さんにとっても、ただの「便利な係」止まりだろう。
俺は余裕を持って、共有されたアルバムを開いた。
画面を埋め尽くすサムネイル。
水しぶき、西村の変顔、ビーチボール。
その中に、桜井さんの姿を探す。
……いた。
日陰のベンチに、優雅に座っている一枚。
綺麗だ。雑誌の切り抜きみたいに完成されている。
水に濡れた髪ですら、乱れているというより「演出」に見える。
抜けるように白い肌と、少しだけ小首を傾げた、非の打ち所がない笑顔。
厚手のラッシュガードを着込んでいるせいで、体のラインは完全に隠されているが、それでも手足の長さは隠せない。
クラスの連中は、彼女を「天然の優等生」だと思っているだろう。
だが、俺は知っている。
あの完璧な振る舞いは、他人を寄せ付けないための「鉄壁の防御」だ。
笑顔も、相槌も、全部が綺麗に計算されている。
その「仕組み」に気づいているのは、俺くらいだろう。
周りの連中より、俺は一歩リードしている。
根拠のない自信が、スマホを握る手に力を込めさせた。
少し引いた距離感。完璧な微笑み。
俺たちが教室で見ている「高嶺の花」そのものだ。
安藤の奴、カメラマンの特権でこれをずっと見ていたのか。
そう思うと少しイラつくが、どうせ流れで撮ってただけだろ。
俺はその完璧さに溜息をつき、同時に「誰もこの壁を越えられていない」事実に満足した。
スクロールする指が、アルバム一覧の最下部で止まった。
『除外フォルダ』
佐伯が仕分け用に作ったアルバムか。
LINEなのに、律儀に『フォルダ』なんて名前まで付けてある。
西村が「削除禁止」と騒ぐから、とりあえず弾かれた写真が入っている場所なのだろう。
俺は何気なくタップした。
そこに入っていたのは、新聞には使えないような、意味不明な写真ばかりだった。
溶けたアイス。脱ぎ捨てられたサンダル。誰もいないプールサイド。
安藤の奴、暇だったのか?
興味を失って閉じようとした、そのとき。
一枚の写真が目に留まった。
「……は?」
俺は思わず、その画像を拡大していた。
心臓が、変な音を立てた。
そこに写っていたのは、桜井すみれだ。
だが、俺の知っている桜井さんじゃなかった。
ベンチに座り、カメラを覗き込んでいる。
距離が、近い。
レンズの目の前すぎるせいで、うまくピントが合っていないようだ。
鼻先や前髪のあたりだけが鮮明で、肝心の目元や口元は少しぼんやりと滲んでいた。
それでも、分かってしまった。
表情が、崩れていた。
完璧な微笑みじゃない。
目を細めて、唇を少しだけ尖らせて――無防備に、レンズを見つめ返している。
教室で見る“高嶺の花”から、一段だけ降りたみたいな顔。
『……また、変なの撮ってる』
そんな声が聞こえそうで、俺は勝手に腹が立った。
そう見えただけかもしれないのに、胸の奥がざわつく。
カースト上位の俺が、必死に部活で汗を流して、カッコつけて、それでも一ミリも踏み込めなかった領域に。
あの「背景」だったはずの安藤が、最初からそこに座っているように見えた。
「……なんだよ、これ」
俺は乾いた笑いを漏らした。
チャットに戻る。
この写真について、誰かが何か言っているか?
……何もない。
誰も触れていないのか、それとも――。
「桜井:安藤くん、お疲れ様。データありがとう」
「安藤:どうも」
そっけない、ただの業務連絡。
教室と同じ、適度な距離感。
でも、俺はもう、その文字を額面通りには受け取れなかった。
スマホを伏せようとした瞬間、また短く震えた。
通知。
「西村:明日までに“採用候補”送って! コメントも一言でいいから!」
「桜井:『除外フォルダ』の写真、紙面で使うかも。画質落ちると困るから、オリジナルのデータ送ってもらえる?」
――オリジナル。
スクショじゃなくて、劣化していないデータで。
それだけで、余計な想像が勝手に走った。
俺はその文字だけ見て、画面を開けなかった。
涼しい部屋なのに、背中だけがじっとりしている。
カメラ係。
便利な係。
そういう名前で、ごまかせる距離なのか、これ。
除外フォルダだぞ。ボツ写真だぞ。
紙面で使うわけがないだろ。
なのに、なんで――。
俺は、自分に言い聞かせるのをやめて、スマホの画面を伏せた。
明日の部活、行きたくねえな。
そんな弱音と一緒に、得体の知れない敗北感だけが、喉の奥に残った。




