第51話 モブの景色と、主役のコレクション
地獄の釜のようなプールサイドから撤収し、僕たちは駅前のファミレスに避難していた。
店内は冷蔵庫の中みたいに冷えている。
火照った体には天国だが、濡れた髪が乾ききっていないと風邪を引きそうだ。
「生き返るー……」
向かいのソファ席で、西村がメロンソーダを一気に飲み干し、背もたれに沈み込む。
その隣では、佐伯が手際よくノートPCを広げていた。
一方、こちらのソファ席は人口密度が高い。
四人掛けのボックス席に五人で座るため、必然的に片方は三人詰め込まれることになる。
「んー、パフェうまっ」
左隣では、妹のまいが巨大なチョコパフェと格闘している。肘が当たって痛い。
そして右隣には、桜井がちょこんと座っていた。
「……狭くない?」
「ううん。安藤くんこそ」
「両脇からプレスされてる気分だよ……」
僕は身を縮こまらせる。
右腕には、桜井の体温が薄いTシャツ越しにじわりと伝わってくる。
彼女の方から、プール特有の塩素の匂いではなく、備え付けのシャンプーだろうか、微かに甘いフローラルの香りが漂ってきた。
「それじゃ、反省会と写真選定を始めようか」
向かいに座る佐伯が、ノートPCの画面をこちらに向けた。
彼女はアイスティーを一口飲むと、僕に手を差し出した。
「安藤くん、SDカード」
「ちょっと待って……はい、これね」
僕はデジカメからカードを抜き取り、佐伯に渡す。
「とりあえず一覧で出すね。ピンボケと被りは、先に落としていく」
佐伯の指がショートカットキーを叩く。
液晶画面には、プールではしゃぐ西村とまい、そしてそれを微笑ましそうに見守る桜井の写真が次々と表示されていく。
「うわ、この私、顔やばくない?」
「採用だね。躍動感があるよ」
「ちょっ、サエ! 消してよ!」
西村の悲鳴をBGMに、画像が選別されていく。
「……これは?」
ふいに、佐伯の手が止まった。
モニターに映し出されたのは、女子たちの笑顔ではない。
僕が手持ち無沙汰な時間に撮っていた、風景写真のフォルダだ。
「ごめん、それは暇な時間に撮ったんだ。スキップしていいよ」
僕はストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら言う。
撮った写真は、脱ぎ捨てられたサンダルや、コンクリートの上で溶けかけた誰かのアイス、監視員塔の無機質な鉄骨など。
新聞の素材にはならない、ただの暇つぶしの記録のつもりだった。
「……除外フォルダ行きかな」
佐伯が淡々と処理しようとした手を、テーブル越しに伸びた白い手が制した。
僕の右隣から身を乗り出した、桜井の手だ。
「これ、戻れる?」
「……了解だよ」
佐伯が画像を一枚前に戻す。
画面いっぱいに表示されたのは、日陰に置かれた「溶けたアイス」の写真だ。
極彩色の液体がコンクリートに広がり、蟻が一匹だけ寄ってきている。
「……画面はシンプル。でも、ピントは合ってる」
佐伯が、モニターの角度を少しだけ直した。
「背景がぼけてて、暑さが伝わるし、置きっぱなしの感じも残ってる。安藤くん、こういう静かなの、狙って撮るタイプ?」
「いや、たまたまだよ……」
買いかぶりすぎだ。
僕は「なんとなく」撮っただけ。
佐伯は、小さく頷いた。
「たまたまでこの感じなら十分。……悪くないよ」
「そうかな……」
佐伯に褒められるのは悪い気はしないが、どこかムズ痒い。
だが、隣の桜井は違った。
「……違うよ、佐伯さん」
ぽつりと、桜井が呟く。
彼女はぐっと身を乗り出し、僕の真正面にある画面を覗き込んだ。
狭いソファ席だ。その拍子に、僕の肩に彼女の柔らかい体がむにゅりと押し付けられる。
「これは、理屈じゃないの」
「と言うと?」
「この写真は『暑い』んじゃなくて、『祭りのあと』なんだよ」
桜井の指先が、画面の中の溶けたアイスをなぞる。
「みんなが騒いでいる横で、置いていかれた時間。……安藤くんには、この風景が『寂しい』んじゃなくて、『静か』に見えてたんでしょ?」
心臓が、とくんと跳ねた。
言われてみれば、その通りだった。
僕はあの喧騒の中で、そこだけ時間が止まったような静寂を心地よく感じて、シャッターを切ったのだ。
自分でも無自覚だった感覚を、彼女にふと言い当てられた気がした。
「……考えすぎだよ。そこまで意図してない」
「ふふ。どうかな」
桜井は至近距離で僕を見上げ、悪戯っぽく微笑む。
近い。近すぎて、視線の置き場に困る。
長いまつ毛が視界の端で揺れた気がして、僕は反射的にストローへ視線を落とした。
「安藤くんの視点は、主役じゃないところに向くもんね。……端っこの、誰も見ていない場所」
その言葉だけ、なぜか他とは違う温度を含んでいる気がした。
彼女は再び画面に向き直ると、佐伯に対してきっぱりと言った。
「これ、私がもらうね。私のコレクションに入れたい」
「……新聞の趣旨とはズレる。けど、桜井さんの個人的なフォルダなら自由だよ」
「うん。この『空気』は、私に必要なの」
桜井はスマホを取り出して、画面をパシャリと直撮りした。
理由はたぶん「今この瞬間」を逃したくないからだ。
……そういう雑さが、彼女らしい。
僕と佐伯の会話の温度が変わったのを、僕だけが気づいている気がした。
「……痛っ」
突然、左脇腹に衝撃が走る。
見ると、妹のまいがスプーンを咥えたまま、無言で僕に肘鉄を入れていた。
どうやら無意識にスペースを圧迫していたらしい。
僕は「悪い」と目で詫びて、体勢を戻した。
……今の、偶然にしては綺麗に入った気がする。
「……安藤くん」
撮影を終えた桜井が、僕だけに聞こえる声量で囁く。
「いい写真だったよ。……私好み」
最後の四文字が、耳の奥に残り続ける。
ただの写真の感想だ。
それなのに、まるで僕の中身を丸ごと肯定されたような、奇妙な居心地の良さと、背筋が粟立つような感覚が同時に襲ってきた。
「……記事の素材として、でしょ」
「ふふ。それ以外に何があるの?」
桜井は楽しそうに笑って、視線を戻した。
共犯者の顔だ。
僕は氷の溶けたコーヒーを流し込み、無理やり喉を冷やす。
隣の席の彼女は、機嫌よさそうに次の写真を催促していた。
「あ、これ私のサンダルだ。……脱ぎ方、ひどいね」
「ノーコメントで」
「そこは『そんなことないよ』って言うところじゃない?」
桜井が小さく頬を膨らませる。
いつもの軽口だ。
けれど、右半身に感じる彼女の体温だけが、さっきの言葉を忘れさせてくれそうになかった。
◇
解散後。
帰り道でスマホが震えた。
LINEの通知。桜井からだ。
『今日は荷物持ちありがと。おかげでいいネタ拾えた』
そして、スタンプが一つ。
壁の陰からじっとこちらを見ている猫のイラスト。
――観察されているのは、どっちだ。
僕はスマホの画面を伏せ、夕暮れの駅の雑踏へと足を早めた。




