第50話 誤算の吸水率
結論から言うと、「鉄壁」には致命的な欠陥があった。
それは、布地は水を吸うということだ。
「……暑い」
僕はプールサイドの日陰に避難し、生ぬるい風に吹かれていた。
足元には、飲み物を満載したクーラーボックス。
首からは、いつもの一眼レフをぶら下げている。
撮影は許可を取ってある。
今日の僕の役回りは「荷物番」兼「記録係」だ。
水着には着替えたが、水に入る予定はない。
プールの中では、西村とまいがキャーキャーと騒ぎながら、防水スマホを水につけないよう掲げて自撮りを繰り返している。
佐伯はその横で、光の加減を計算するように目を細めながら、淡々と二人の撮影アングルを確認していた。
テーマは『地獄の暑さと、涼しい顔の対比』らしい。
妹も西村のノリに完全に適応しているようだ。
被写体としての彼女たちは優秀だ。
あざといポーズも、涼しげな笑顔も、何かの一シーンみたいになる。
ただ、問題は上がってきた時だった。
「ふぅ……。水の中のほうが疲れるかも」
プールサイドの梯子に手をかけ、桜井が上がってくる。
水滴が滴る音がして、僕は無意識に視線を向け――そして、すぐに明後日の方向へ逸らした。
「……」
直視できない。
乾いている時はふんわりとしていたラッシュガードが、水分を含んで重くなり、桜井の体にべったりと張り付いている。
露出はほぼない。けれど、濡れた布が拾うシルエットは、普段の制服姿よりも遥かに鮮明に「女性である事実」を突きつけてくる。
隠しているのに、隠せていない。
むしろ「隠している」という事実が、視覚的な情報を過剰に強調している。
一瞬網膜に焼き付いたその残像だけで、脳の処理がパンクしそうだった。
僕はカメラのレンズキャップを弄りながら、必死の思いでプールの監視員塔を睨みつけた。
あの監視員、さっきから微動だにしないな。達人の域に達した置物かもしれない。
ペタ、ペタ、と濡れた足音が近づいてくる。
塩素と水の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。
「安藤くん」
「……お疲れさま。いい写真は撮れた?」
僕は視線を監視員に固定したまま尋ねる。
隣に立った桜井は、タオルで濡れた髪を拭きながら、小さく息を吐いた。
「どうかな。千夏が張り切ってるから、枚数はすごいけど」
「あとで選別作業が大変そうだね」
「だね。……ねえ」
不意に、桜井の声のトーンが落ちる。
「撮った?」
「……えっと、何を?」
ようやく視線を戻すと、桜井が少しだけ首を傾げて僕を見ていた。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、悪戯っぽく光っている。
「今の、水から上がるところ。写真係なんでしょ?」
「撮ってないよ。倫理的にアウトだよ……」
「新聞には使えないもんね」
彼女はクスクスと笑う。
そして、僕の手にあるカメラに視線を落とし、独り言のように呟いた。
「……安藤くんなら、一枚くらいなら、いいけど」
「……削除の手間が増えるだけだよ」
「写真係の、資料としてね」
彼女は付け足すように言った。
その声音は事務的だが、僕の反応をどこか楽しんでいるようにも聞こえる。
心臓が不自然に一度だけ跳ねたのを、暑さのせいにして誤魔化す。
彼女のこういう「試し」てくるような言動は、真に受けたら負けだ。
共犯者としての特権をちらつかせているだけ。そう自分に言い聞かせる。
「休憩。一旦、水分補給しないと」
そこへ、プールから上がってきた佐伯が、淡々と声をかけた。
彼女も同様に濡れているが、その所作に無駄がない。
「安藤くん、クーラーボックスからスポドリ出してくれる? 西村たち、もうバテてる」
「了解。タオルは?」
「あっちのベンチに置いてある。人数分、乾いたやつを確保済み」
「手回しが良いな。さすが佐伯」
「当然だよ。濡れたままだと体が冷える。先に拭いて休んだほうが戻りが早いからね」
佐伯の指示は的確だ。
僕は言われた通り、足元のボックスから冷えたボトルを取り出し、佐伯にパスする。
佐伯はそれを受け取ると、すぐに西村とまいの元へ歩き出した。
言葉少なに通じる、会話。
佐伯と話すと端的な分、会話のリズムが上がるのが、自分でもわかる。
「…………」
ふと、隣に気配を感じる。
桜井が、無言で僕と佐伯を見ていた。
その表情は、先ほどまでの柔らかい笑みとは少し違う。
濡れた髪を拭いていた手が止まり、首にかけていたタオルを、きゅっ、と強く握りしめている。
「桜井さん?」
「……ううん」
彼女は視線を逸らし、何かを飲み込むように小さく喉を鳴らした。
「相変わらず、リズムが合うんだね。二人とも」
その声は平坦で、褒め言葉なのか皮肉なのか、判別がつかない。
ただ、握りしめられたタオルの皺だけが、妙に深く刻まれているように見えた。
「……ほら、タオル。使う?」
僕は何も言わず、予備の乾いたバスタオルを一枚、彼女に差し出した。
受け取る彼女の指先が、一瞬だけ僕の指にかすった気がした。
「……ありがとう」
桜井は短く礼を言い、タオルを受け取る。
肩にかけてやるような気遣いはしない。
それは僕のキャラじゃないし、今の彼女の空気が、安易な接触を拒んでいる気がしたからだ。
彼女は逃げ込むように、頭からすっぽりとタオルを被った。
白い布のドームの中に、彼女の表情が隠れる。
「……安藤くんの、バカ」
タオルの中で、くぐもった声が聞こえた気がした。
けれど、蝉時雨と水音にかき消され、それが本当に僕に向けられた言葉なのか、確信は持てなかった。




