第5話 雨の日の本音会議
六月の終わり、空は朝からずっと機嫌が悪かった。
ホームルームのときから、窓ガラスには細かい雨粒がびっしりで、
チャイムが鳴るたびに「もうちょいで止まないかな」という期待が、少しずつ削られていく。
そして、放課後。
期待は、あっさり裏切られた。
昇降口の外は、白いカーテンみたいな雨だった。
傘の骨が折れそうなレベルの、しっかりしたやつ。
(終わった……)
上履きからスニーカーに履き替えて、思わずその場で立ち尽くす。
周りを見回してみても、傘立てには見覚えのある柄が見当たらない。
(いや、終わってるのは雨じゃなくて、僕のほうだな)
頭の中を、さっとチェックする。
朝、傘を持って学校には来た。
途中でどこかに落とした記憶はない。
(ってことは……教室だな)
ため息をひとつついて、履き替えたばかりの靴をもう一度上履きに戻す。
階段をのぼる足音が、いつもよりやけに大きく響いた。
◇
三年生の教室が並ぶフロアを抜けて、自分たちの教室がある四階へ上がる。
さっきまで人でごちゃごちゃしていた廊下も、今は静かだ。
雨の音だけが、遠くのスピーカーみたいに一定のリズムで流れ続けている。
教室の前まで来て、なんとなく一呼吸置いてから、ドアを開けた。
がらり。
中には──ひとりだけ、先客がいた。
真ん中の島のあたりで、小さなノートを広げている背中。
桜井だ。
いつもの「クラスの中心モード」のときより、少しだけ丸まった姿勢。
ペン先だけがせわしなく動いていて、教室の静けさの中で、その音だけがやけに目立っていた。
(……よく考えたら、このパターン、最近多いな)
英語のワークを取りに戻ったときもそうだったけど、
忘れ物を回収しに来ると、高確率で桜井がいる。
人気者というより、もはや「教室の管理者」みたいな出現率だ。
僕は、なるべく足音を小さくしながら、自分の席に向かう。
窓側二列目。机の横のフックに、見覚えのあるチェック柄の傘がぶら下がっていた。
(はい、犯人は僕ですね)
心の中で自分にツッコミを入れながら、それを取る。
そのままドアに向き直ったところで──
「安藤くん?」
背中に声が飛んできた。
振り向くと、桜井がペンを持ったまま、こっちを見ている。
「ああ。傘、置きっぱなしで」
「やっぱり」
桜井が、ふっと笑った。
「さっき見つけて、“どうせ取りにくるだろうな〜”って思ってた」
「読まれてる……」
「観察係だからね」
「それ、どっちかというと僕の肩書きじゃない?」
「半分ずつってことで」
そんなやりとりをしてから、桜井は一度ノートに視線を落とした。
ページには、細かい字がびっしり並んでいる。
授業の板書とも、テスト勉強のまとめとも違う。
(エッセイ、だよな)
表紙には、あのタイトルが書かれているのを僕は知っている。
【教室の隅の住人たち】
屋上で見せられてから、何度か同じノートを目にしてきた。
桜井は、ページの一部分を指で押さえながら、少しだけ顔を上げた。
「ねえ、安藤くん」
「うん?」
「ちょっと聞いてほしいんだけどさ」
そう前置きしてから、ノートを胸の前まで持ち上げる。
「いま書いてるやつの、一部」
桜井は、文字を追いながら、ゆっくりと読み上げ始めた。
「【議題は“来年度の方針について”。
机はコの字型に並べられて、真ん中には何もない。
“ご意見ある方、どうぞ”と言われても、
誰も真ん中に言葉を置きに行こうとはしない】」
雨の音と、桜井の声だけが、教室に流れていく。
「【発言する人は決まっている。
毎回同じ顔ぶれで、毎回ほぼ同じことを言う。
“特に反対はありません”と、“いいと思います”の少しだけ違うバージョン。
本当は別の案を思いついている人もいる。
でも、“じゃあそれを言って責任取れる?”と、
誰かの顔に書いてある気がして、
その案はノートの端にだけ、そっと残される】」
そこで一度、言葉が途切れた。
桜井は、ペン先で紙をつつきながら、こちらを見る。
「……ここまでが、今のところの“会議回”」
会議回。
タイトルだけ聞くと、完全に別ジャンルの連載みたいだ。
「なんか、想像つくね」
「でしょ」
そう言ってから、桜井は少し真面目な顔になった。
「でさ。ここにもう一段、“本音”入れようか迷ってて」
「本音」
「【この会議は、“責任取りたくない人たちのサークル活動だ”】って一文を入れようとしたんだけど……」
言って、自分で顔をしかめる。
「エグいかなって」
たしかに、そこだけ急にトゲが立つ気がする。
僕は、傘を持ったまま、桜井の前の席に適当に腰を下ろした。
「それって、どこまでが現実で、どこからが盛ってる感じ?」
「うーん……」
桜井は、ペンをくるくる回しながら考える。
「全部が全部、自分の学校の話じゃないよ。
他の学校の話とか、大人たちの会議のニュースとか、
そういうのごちゃまぜにして、ちょっと大げさにしてる」
「じゃあ、“責任取りたくない人たちのサークル”って思ってる本人は、いる」
「……まあ、ゼロとは言わないかな」
そこで、少しだけうつむく。
たぶん、自分もどこかでそう感じたことがあるんだろうな、と思った。
(人気者やってると、裏側もよく見えるよな……)
そう思いつつ、僕はノートの文章を頭の中でなぞる。
【“ご意見ある方、どうぞ”】
【誰も真ん中に言葉を置きに行こうとはしない】
さっきのホームルームとは違うけど、構造は似ている。
(本音を言うリスクを計算した結果、沈黙になるパターン)
教室でも、会議室でも、たいして変わらないのかもしれない。
「……なんか、思ったことあれば、適当に言ってくれていいよ」
桜井が、少しだけ肩をすくめる。
「“観察係”としての意見、聞きたい」
「係って便利だな」
「最近お気に入りの呼び名だから」
そう言われてしまうと、ちょっと真面目に考えざるを得ない。
僕は、しばらく雨の音をBGMにしながら、言葉を探した。
「……読んだ人がさ」
ゆっくり口を開く。
「“あ、これ自分のことだ”って思って、ちょっと落ち込むのは、まああると思うんだよね」
「うん」
「でも、“あーあるある”って笑える一歩手前くらいにしといたほうが、いい気はする」
「一歩手前」
「うん。
“ギリギリ笑えるライン”と、“ちょっと刺さりすぎてしんどくなるライン”ってあると思ってて」
自分でも話しながら整理されていく感覚がある。
「“責任取りたくない人たちのサークル”って書いちゃうとさ、
その会議に出てる人、全員まとめて悪役側に押し出す感じになるじゃん」
「たしかに」
「でも実際は、“なんとなく怖くて黙ってるだけの人”もいっぱいいて。
そういう人まで、“お前もサークルの一員だろ”って言われると、
読んでてちょっときついかもな、って」
ここまで言ってから、なんとなく視線をそらす。
(自分がそのタイプだから、なおさらだけど)
小テストの点数や、席替えや、委員決め。
「別にいいけど」と言いながら、いつも空気に乗っかってきたのは、僕も同じだ。
「じゃあ、どうするのがいいと思う?」
桜井は、素直に聞いてくる。
「偉そうにアドバイスするつもりはないけど」
「そこは“観察係としての意見”ってことで」
あらためてそう言われると、少しだけ背筋が伸びる。
「……“サークル”って言い切るんじゃなくてさ」
僕は、ノートの空いているスペースを指さすみたいにしながら続けた。
「“誰かがちょっと勇気出して本音を言ってたら、空気変わってたかもしれない沈黙”くらいにしといたほうがさ。
読んだ人も、“これ自分もやったことあるな”って、自分のこととして読める気がする」
「変わってたかもしれない、ね」
「うん。“勇気さえ出せたら動かせたかもしれない時間”っていうか。
“責任取りたくない人たち”って切っちゃうと、その瞬間に“もう終わってる場”って決めつける感じになるから」
自分で言っておいて、ちょっと気恥ずかしくなる。
(なに真面目なこと言ってんだ、僕)
そう思って、恐る恐る桜井の反応をうかがうと。
「…………」
目を伏せて、ノートの同じところをじっと見つめていた。
数秒後。
「……安藤くん、たまに刺さること言うよね」
小さく笑いながら、そう言った。
「“たまに”なんだ」
「毎回だと疲れるでしょ」
「それはそうかもしれない」
僕も、つられて笑う。
さっきまで、雨音しかなかった教室に、
ほんの少しだけ、別の音が混ざった。
◇
「じゃあさ」
桜井は、ペンを握り直して、一行書き足した。
【この会議は、“責任を取りたくない人たちのサークル”みたいに見える。
でも、本当はただ、最初の一歩を誰かに預けてしまった沈黙かもしれない】
「……こんな感じにしとく」
「だいぶ丸くなりましたね」
「エグさ三割減くらい?」
「体感四割減くらいかな」
「観察係、いい仕事するね」
「給料出てないけどね」
「やりがい搾取だから」
「自覚あるタイプだ」
いつもの調子で笑い合ってから、桜井はふっと表情をゆるめた。
「でも、ほんと助かる」
「そう?」
「うん。
自分で書いてると、“ここまで書いちゃえ”って勢いで行きそうになるからさ。
ちょっと止めてくれる人がいるの、ありがたい」
「ブレーキ係」
「観察兼ブレーキ係」
「役職が増えていくんだけど」
「そのうち“顧問”とか付ける?」
「いや、それはさすがに重い」
そんなくだらない話をしながらも、
心のどこかで、「ブレーキ」という言葉がじわじわ残る。
(僕の一言で、誰かの文章の“終わり方”が変わるのか)
教室の隅にいるだけのつもりが、
誰かの物語の「セーフライン」を決める位置に立っている、みたいな。
それは、ちょっとだけこそばゆくて、でも嫌いじゃない感覚だった。
◇
「……っていうかさ」
ノートを閉じかけたところで、桜井がぽつりと言った。
「今の会議のやつ、ちょっと“前のホームルーム”っぽくもあるよね」
「ああ。学年レクのときの」
「うん。
あれも、“誰が最初に手を挙げるか”待ってた時間だったなって」
「たしかに。
でもあれは、結果的にちゃんと最初の一人出たから、まだ健全なほうじゃない?」
「じゃあ今日のは、“誰も最後まで手を挙げなかった会議”ってことで」
「それはそれで、なかなかのホラーだな……」
想像して、身震いしそうになる。
「そういう場所に、いつか自分も座るのかなって思うと、ちょっとこわいですね」
「だね」
桜井も、苦笑いを浮かべた。
「だからこそ、“その手前で何が起きてるか”書いておきたいのかも」
「手前」
「うん。“誰も本音を言わない会議”ってタイトルだけ見るとさ、
なんかすごい攻撃的な話に見えるじゃん」
「まあ、正直ちょっと怖い」
「でも、実際そこに座ってる人って、
全員が全員、悪気あって黙ってるわけじゃないと思うんだよね」
桜井は、自分の手のひらを眺めるように視線を落とした。
「その、“何も言わない人の気持ち”を書きたいんだと思う」
「……それは、ちょっと分かるかも」
僕は、窓に打ちつける雨を見ながら答えた。
言わなかったこと。
言えなかったこと。
それが積もっていく場所を、
誰かがちゃんと見てくれるなら。
その誰かが、教室の真ん中にいる人なら。
(それはそれで、悪くないかもしれないな)
◇
「っと、そろそろ行かないと」
時計を見た桜井が、慌ててノートを閉じる。
「放送部?」
「うん。今日、雨の日用の下校放送やるからさ」
「ああ、“足元に気をつけてお帰りください”的なやつ」
「それそれ」
ノートをカバンにしまいながら、桜井は笑う。
「じゃ、安藤くんも、転ばないようにね。観察係が骨折したら困るから」
「そこは“人として心配してほしい”ってところなんだけど」
「それもちゃんとあるから大丈夫」
そう言って、ひらひらと手を振りながら、
桜井は教室を出ていった。
その背中を見送ってから、僕も傘を肩にかついで立ち上がる。
ドアを閉めると、雨の音がまた少しだけ大きくなった。
(……“物語にならない沈黙”か)
さっき話したフレーズが、頭の中で反芻される。
教室の隅で黙っているだけの時間も、
誰かのノートに書かれたとき、ようやく「一行分の物語」になる。
観察係として、その一行の濃さを、
これからどこまで一緒に調整することになるのか。
その答えは、まだ全然分からない。
ただひとつだけ言えるのは。
雨の日に取りに戻った忘れ物のせいで、
またひとつ、「モブでいる予定だった高校生活」から外れるフラグを、
こっそり立ててしまった、ということだった。




