第49話 鉄壁のラッシュガードと、日傘の半歩
市民プールの入り口は、熱気と塩素の匂いで満ちていた。
日差しが痛い。地面のアスファルトが熱を溜め込んで、立っているだけで体力を削り取っていく。
「暑い……」
僕が呟くと、隣にいた妹のまいが、冷ややかな視線を寄こした。
「兄ちゃん、溶けないで。みっともない」
「仕方ないだろ……」
「みっともないって言ってるの。ほら、シャキッとして」
まいは帽子を目深にかぶり直して、不機嫌そうにスマホをいじっている。
今日、彼女がいるのは「監視役」という名目の、ただの冷やかしだ。
西村から僕に『妹ちゃんも連れておいでよ。チケット代は私のおごりでいいから!』という個人LINEが飛んできて、それにまいが食いついただけの話である。
「おーい! お待たせ!」
人波の向こうから、西村が手を振って走ってくる。
その後ろに桜井と佐伯。
三人とも、手には大きなプールバッグを持っているが、浮かれた空気は微塵もない。特に、その服装が。
「……完全防備だな」
僕が感想を漏らすと、西村がビシッと親指を立てた。
「当然。今日のテーマは『健全なる取材』と、『紫外線との戦争』だから」
彼女たちの服装は、プールに来たとは思えないほど布面積が広かった。
足首まで隠れるロングスカートに、上は薄手のUVカットパーカー。日傘まで差して、肌の露出を徹底的に拒絶している。
「あのさ、見てるだけで暑いんだけど」
僕が言うと、西村は「分かってないな」と顔の前で指を振った。
「直射日光を浴びるほうが体力を消耗するの。これは生存戦略です」
「露出で釣るのは、私たちの新聞には不要だと思う」
隣で佐伯が淡々と補足する。
「撮るのは『地獄の暑さ』のほう。グラビアじゃないし」
「……まぁ、そうだね」
「だから、プールサイドでもラッシュガード着用を義務化!残念だったね、湊〜」
西村がニヤニヤしながら言う。
「いや、助かるよ。目のやり場に困らなくて済むし……」
心からそう言うと、西村は「つまんない反応」と口を尖らせた。
たぶん、僕がもっと狼狽えるのを期待していたのだろう。
その横で、桜井がふふ、と笑う。
「千夏がね、『安藤くんを無駄にドキドキさせて事故らせないための安全策』だって」
「事故るってなんだよ……」
「ほら、夏の魔物って言うし」
桜井は楽しそうに見えた。
日傘をさして、まるで避暑地の令嬢のような涼しい顔をしている。
「で、そっちが妹ちゃん?」
西村が視線をまいに移す。
まいはスマホをポケットに突っ込み、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。兄がお世話になってます。安藤まいです」
その声は、僕に向ける氷点下の声とは別人のように明るい。
外面が良いのは相変わらずだ。
「久しぶりだね、まいちゃん。初詣ぶり?」
桜井が声をかけると、まいは「はい、その節は」と愛想よく返す。
西村とも、すでに顔なじみだ。
唯一、初対面なのが佐伯だった。
佐伯は、じっとまいを観察している。
値踏みするようにも見える視線。でも、嫌な感じはしなかった。
「……似てるね」
佐伯が短く言った。
「え?」
「骨格というか、目の形。あと、立ってるときの癖が同じ」
「サエ、それ初対面の女子に言うこと?」
西村がツッコミを入れるが、佐伯は気にせず続けた。
「……納得。安藤くんの要素を、きれいにまとめた感じがする。失礼、いい意味で」
「それ、兄ちゃんがバランス悪いってことですよね」
まいが苦笑いで返すと、佐伯は少しだけ首を傾けた。
「褒め言葉だよ。事実として」
佐伯なりの「最適化されたデザイン」という称賛なのだろうが、褒め方の癖が強い。
「……とりあえず、中に入らない? チケット、僕がまとめて買ってくるよ。精算はあとで」
このまま立ち話をしていても干からびるだけだ。
僕が促すと、みんなが頷く。
「あ、兄ちゃん待って」
列に並ぼうとした背中を、まいに呼び止められる。
「何」
「喉乾いた。何か飲み物」
命令形だった。
なんで僕が、と言おうとしたが、彼女の手が荷物で塞がっているのを見て、溜息をつく。
自分のバッグから財布を出すのが面倒くさいらしい。
「……はいはい」
僕は近くの自販機でスポーツドリンクを二本買う。
一本を自分の脇に挟み、もう一本のキャップをひねって開ける。
未開封のままだと、まいは「固い」と言ってまた僕に投げてくるからだ。
「ほら」
キャップを緩めたボトルを渡すと、まいは当たり前のように受け取った。
「サンキュ」
礼は短いが、機嫌は直ったらしい。
一口飲んで、ふう、と息を吐く。
「生き返った。兄ちゃんもたまには役に立つね」
「どうも。役立たずの兄で悪かったな」
「ん。じゃあ、先並んでる」
まいは冷たいボトルを首筋に当てながら、小走りで西村たちの元へ向かった。
西村と佐伯は、少し離れた日陰で列の進みを待っている。
まいもそこに合流して、ボトルを頬に当てていた。
桜井は、まいの背中を見送って、僕の隣に残っていた。
白い日傘の影が、じわりと僕の足元まで伸びてくる。
僕も列に合流しようと一歩踏み出した。
けれど、隣の気配がついてこない。
「……どうしたの?」
日傘の下、その表情が少しだけ影になっていて読めない。
「ううん」
桜井はゆっくりと首を振った。
「安藤くん、ちゃんとお兄ちゃんしてるんだなって」
「えっと……そうだけど?」
「ふふ……そうだよね」
彼女は一歩、僕に近づく。
日傘の影が、僕の足元に落ちた。
「ここ、入る?」
桜井が、ほんの数センチだけ傘の柄を僕のほうへ傾ける。
直射日光を遮るための、事務的な提案。
でも、いつもの教室より、半歩だけ近い。
「……いや、大丈夫。暑苦しいでしょ」
「そっか。もったいない」
彼女は残念がる風でもなく、淡々と言葉を継いだ。
「えっとね、学校だと見ない顔だなって、思っただけ」
声のトーンが少し低い。
からかっているようにも聞こえるし、何かを確認しているようにも聞こえる。
周りの喧騒が、傘の縁で切り取られたように遠く感じた。
喉の渇きが、一拍だけ遅れて戻ってくる。
「妹相手だと、そんなふうに自然に世話焼くんだね」
「……習慣だから。考えたら負けだと思ってる」
「ふふ。習慣、か」
桜井は「習慣」という言葉を口の中で転がすように繰り返した。
その視線が、僕の手にあるもう一本のボトルに一瞬だけ落ちて、すぐに戻る。
「いいね。その情報、もらっておくね」
「なにに使うの……」
「観察係の、生態記録」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、くるりと踵を返した。
「行こ。早くしないと、本当に溶けちゃう」
背中を向けた彼女の歩調が、いつもよりほんの少しだけ速い。
僕は首元の汗を拭って、その後を追う。
ゲートの向こうから、水しぶきの音と歓声が聞こえてきた。
鉄壁のラッシュガードで武装した取材が、始まる。




