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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第48話 宿題地獄と、共有される絶望

 八月の校舎というのは、深海に似ている。


 蝉の声だけが飽和していて、人の気配は底に沈んでいる。

 廊下の床はワックスで過剰に光っていて、歩くたびに自分の上履きの音だけが反響する。

 窓から見える空は入道雲で埋め尽くされているのに、スイッチの切られた冷房の下には、澱んだ熱気だけが居座っていた。


 八月に入り、「まだ大丈夫」と「そろそろヤバい」の間を行き来し始める時期だ。


 そんなことを考えていたら、二年C組の教室についた。

 今日は新聞係の作業日だ。

 桜井から『鍵、借りて開けとくね』と連絡が入っていたから、教室はもう開いているはずだ。


 扉を開けて中に入る。


 黒板はきれいに消されている。机も椅子も、規律正しく並んでいる。

 人がいない教室は、部屋そのものが省エネモードに入っているようだった。


「……あ、安藤くん。こっち」


 窓際の席から、涼やかな声がした。

 桜井だ。


 彼女はすでにノートを広げ、ペンを走らせていた。

 夏服の白い半袖シャツが、窓からの光を反射して眩しい。

 姿勢はいつも通り、背筋の伸びた優等生のそれ。けれど、さらさらの前髪の隙間に、汗の粒がひっそりと光っているのが見えた。

 そこにある「夏休みの現実」だけは、隠しきれていない。


「早いね」


 努めて平坦に、声をかける。

 久しぶりに顔を合わせるせいか、距離感のチューニングに一瞬戸惑う。

 先日の夏祭り以来、連絡はチャットだけだったから、直接彼女を見るのは二週間ぶりくらいだ。


「家にいると、だらだらしちゃうから。ここだと……スイッチが入るよね」


「確かに。静かすぎて違和感あるけど」


「図書館みたいだよね?」


 桜井がふっと笑う。

 その笑い方が、教室でクラスメイトに向ける「桜井さん」の仮面よりも、少しだけ緩んで見えた。

 僕はそれを見て、ほんの少しだけ安堵する。


 そこへ、教室のドアが勢いよく開いた。


「おっまたせー! やばい、気温が殺しに来てる!」


 西村が腕をぶんぶん振りながら入ってきた。


「三十五度超えてるとか、もはや災害じゃん。……あれ? 湊は涼しそうだね。省エネだから代謝低いの?」


「勝手に低くしないでくれる? 普通に暑いよ」


 僕が返すと、西村は満足げに頷いた。


「よし、反応OK。久しぶりでも通常運転」


 その後ろから、音もなくもう一人が入ってくる。


「着いたよ」


 佐伯が短く言って、空いている椅子を引いた。荷物を置く動作まで無駄がない。

 彼女も夏服の制服姿だが、第一ボタンまでしっかりと留めている。暑くないのだろうか。


「サエも久々! 元気だった?」


「西村は相変わらずだね……」


「夏はテンションがマックスになるからね!」


「そう」


 このやり取りも久しぶりに聞く。

 西村が笑い、桜井が小さく肩を揺らす。


 四人が揃って、窓際の机を寄せ合う。

 この二週間で集まった素材――紙とペンとメモと、佐伯が開いたノートPC。

 

 画面には、既にきれいにフォルダ分けされた画像が並んでいる。

 『夏祭り取材_選定中』というフォルダを開くと、提灯の光に照らされた写真が表示された。

 

 その中に一枚、金魚すくいの水面を見つめる、浴衣姿の桜井の写真がある。

 横顔は真剣そのもので、とても「楽しんでいる」ようには見えない。

 まるで、仕事として金魚と対峙しているような顔だ。


 一瞬、あの夜の袖の重さと、離れた時の冷たさを思い出す。

 僕は無意識に腕を組み直して、視線を画面から逸らした。


 夏休み特大号。

 名前だけは派手なのに、やってることは地味な共同作業だ。


「じゃ、今日の議題ね」


 西村が自分のスマホを取り出し、画面を僕らに向けた。


「夏号のテーマ会議。今のままだと内容がふわっとするから。『夏祭り行ってきました』で終わる未来が見えるんだよね」


 スマホの画面には、僕らも入っているグループLINEの履歴が表示されている。


「で、これ。休み前にみんなに投げた『おすすめスポットとか写真募集』の回答なんだけど」


「返信、あったんだ」


「あった。あったけどさ」


 西村が画面をスクロールする。


「陽キャの夏が、強い。海、花火、旅行、バーベキュー。強すぎて逆に笑う」


「笑うなよ」


「いや笑うって。湊はこのラインナップで記事書ける?」


「書けない。僕の夏と違いすぎる……」


「ほら出た、省エネ代表」


 佐伯が画面を覗き込んで言う。


「偏りがすごい。回答率も低い。これを使うと、新聞を見る人は限られそうだね」


 桜井が小さく頷いた。


「……うん。回答した人の“夏”だけが紙面になるとさ、クラスの総意みたいに見えちゃうかなって。

 だから、『誰かの夏』じゃなくて『クラスの空気』にしたいんだよね」


 佐伯が、机の上のメモを一枚引き寄せた。


「テーマは、読者の共感率で決めるといい」


「共感率って何?」


「読者が“自分のことだ”って思える割合」


 佐伯が淡々と言う。


「夏のイベント経験の有無は個人差が大きい。参加できない人にとっては疎外要因になりやすい。でも、宿題は全員ある。そこは共通だよね?」


 つい、僕はその言葉に頷きそうになる。

 理論武装されているのに、言っていることは優しい。

 確かに、この暑い中、誰もが等しく苦しんでいるのは「宿題」だ。


「つまり、祭りより宿題のほうが平等ってこと?」


「そうだね」


「地獄の平等だな……」


「共通の話題だと、読む人が乗りやすい」


 僕と佐伯の会話が、パズルのピースみたいに妙に噛み合ってしまう。

 そこに西村がニヤニヤしながら割って入った。


「ねえねえ、今の二人、急に同じ速度で喋るじゃん。実験の会話みたい」


「実験って、意味わからない」


「温度が低いってこと」


「室温は高いよ」


 佐伯が真顔で返す。

 西村が机に突っ伏して笑った。


 ふと視線を感じて横を見ると、桜井がじっと僕らを見ていた。

 目が合うと、彼女はわざとらしく大きな音を立てて、ペンを机に置いた。


「ねえ。実験もいいけど、編集の話に戻っていい?」


 静かな声だが、有無を言わせない圧がある。

 彼女は僕と佐伯の間の見えない回路を断ち切るように、身を乗り出した。


「数字だけだと、紙面がさみしくなりそう。文章も少し欲しいね」


 論理から、彼女の得意な情緒のフィールドへの強制転送。

 佐伯が「……そうだね」と短く返して、手元のメモに視線を落とす。


「……文章にして数字を補えば、誰も傷つかないかも」


 桜井の声は柔らかいのに、置かれた言葉には芯がある。


「数字だけだと『数が多いほうが勝ち』に見えちゃうけど、文章なら……それぞれの事情があるって分かるから」


「誰かの『楽しかった』を、夏の『正解』にしないってことだよね」


 僕が拾って返すと、桜井がまたこっちを見る。

 今度は視線が逸れない。


「ね、湊。今の、ちゃんといいこと言ってるよ」


 西村が肘で僕の脇腹を軽くつつく。


「言ってないよ。僕はみんなの意見を要約しただけ」


「はい出た、予防線。日焼け止めみたいに先に塗って守るやつ」


「意味が分からない……いや、分かるような分からないような」


 僕が言うと、西村が親指を立てた。


「分からないまま進めるのが青春」


「……青春って便利だね」


 佐伯がメモを取りながら言う。


「宿題に関するデータを集めようか。残り、進み具合、苦手科目。匿名でどうかな」


「匿名なら、確かに安全だね」


 桜井が頷く。


「自由記述はまとまらないと思う」


 佐伯が即答する。


「だから選択式にしようと思う。例えば『今いちばん見たくないものは何』の選択肢に『読書感想文』『自由研究』『まだ白紙の計画表』とかを入れる……とかね」


「最後のやつ、刺さり方がえぐいね」


 僕が言うと、西村が笑って頷いた。


「それそれ。湊のその『グサッとくるやつ』を見出しにしてよ」


「無理……」


「無理じゃなくて、やる」


「命令形で頼まないで」


 桜井がペン先を唇に当てて、少し考える。

 その仕草が、まるでエッセイを練る時の「裏の顔」と重なって見えた。


「見出し……『宿題地獄』は直球すぎるね」


「直球でいいじゃん。読者も地獄だし」


 西村が言う。


「でも、それだと……笑えない人が出るかも。もう少し笑える方向にしたいね」


 その「笑える」を、桜井は丁寧に言う。

 誰かを笑いものにするんじゃなくて、一緒に笑う方向。

 それは彼女がエッセイで書こうとしている世界と同じだ。


 机の上の白紙を見た。

 この空白は夏休みの宿題みたいに、じわじわと無言の圧をかけてくる。


「……じゃあ」


 口に出してから、引っ込めたくなる。

 でも西村が身を乗り出してくるから、もう逃げられない。


「何、何?」


「えっと……見出し案」


「はい来た!」


 西村が拍手みたいに手を叩く。

 僕は観念して、短く息を吐いた。


「絶望を共有しよう」


 一瞬、窓の外の蝉の声が大きくなった気がした。


 西村が口を開けたまま固まって、それから机を叩いて爆笑した。


「だっは。何それ、厨二みたい!」


「厨二じゃないよ……」


「じゃあ何。宿題被害者の会?」


「それも違う。……違うけど、否定しにくいね……」


 否定を重ねるほど、だんだん自分が変な看板を背負わされていく気がする。


 桜井がくすくすと笑った。


「でも、共有って言葉がいいね」


 桜井は僕の手元にあるメモの上にペン先を寄せて、さらっと書き足す。


『絶望を共有しよう ~宿題の残り、見えるようにします~』


 文字が桜井の手癖で少し丸くなる。

 僕の尖った言葉が、彼女の筆圧を通すと柔らかい何かに変わる。

 まるで、僕の思考が彼女の一部として保存されたみたいで、妙にくすぐったい。


「……勝手に整えないでよ」


「勝手じゃないよ。……『編集』しただけ」


「便利な言葉だ」


「ふふ。編集長の特権だね」


 桜井は笑ってペンを置いた。

 置き方が丁寧で、僕はそこにツッコミを続けられなくなる。


 佐伯が、その見出しを見て頷いた。


「良いね。感情に寄せすぎない。共感を集めやすいと思うよ」


「ほら、サエも褒めた」


 西村が僕を指差す。


「湊、今のうちにドヤっていいよ」


「ドヤらないよ。たまたまだし」


「はい、予防線。本日二回目」


「習慣だね」


 佐伯が平然と言う。

 西村がまた笑う。


「決まりだね」


 桜井が会議の終わりを宣言するみたいに言った。


「テーマは『宿題に追われる夏』。記事構成は、データとみんなの一言。匿名にして、“参加できない人が浮かない”やつにしようか」


 そこで、西村が人差し指を一本立てた。


「で、もう一個。グループLINEの『おすすめスポットとか写真募集』は、やめない。メインじゃなくて、サブ枠にする」


「サブ枠?」


「『みんなの夏の一枚』。出せる人だけ出す。無理に盛らない方向で」


 佐伯がメモを取りながら頷く。


「メインにすると偏る。サブならいけるね。出すハードルは下げないと、集まらないかも」


「それなら、“場所の名前だけ”でもいいんじゃない? 何したかまでは聞かない」


 桜井がそう言って、ペン先で小さく丸を作った。


「紙面に写真は足したいし、計画してた取材はそのまま行くよ!」


 西村がニヤニヤしながら言う。


「取材って……プールとか、だっけ?」


 桜井が思い出すように首を傾げた。

 僕は思い出さないようにしていたけれど、その予定はまだ生きていたらしい。


「よし、方向性固まった!」


 西村がファイルを閉じて、机を軽く叩いた。


「じゃあ次は段取り。アンケート、どうやって回す?」


「クラスのグループで送ればいいんじゃない?」


 僕が提案する。


「送るだけだと、回答しない人が出るよ」


 佐伯がすぐに返す。


「なら、紙で回す?」


「えー、印刷めんどい。夏の学校って、コピー機って使えるの?」


 西村が露骨に顔をしかめた。


「紙は最後だね」


 佐伯が即答する。


「アンケートのリンク作って、LINEに貼るよ。選ぶだけにすれば、答えやすい。回答が揃うまで早いし、集計も楽だよ」


「それでも、やらない人いるんじゃない?」


 西村が言うと、佐伯がペン先を止めずに頷いた。


「そうだね。だから、その穴は始業式で埋める」


 ふと思い出したので、僕は口をはさんだ。


「……確か、始業式の最初の週で内容を決めておかないとダメなんだっけ?」


 僕が言うと、西村が顔を上げた。


「なにそれ、急に現実」


「急に思い出しただけだよ。夏休み前に先生に言われてたと思う」


 桜井が小さく頷いた。


「そうだね。じゃあ、明日までにアンケート完成かな。文は私が整えるよ」


 桜井がペン先を唇に当てる。


「一言欄は、答えやすいようにするね」


「質問の方は、五つに絞りたいね」


 佐伯が線を引く。


「全部選択式にして、最後に任意で一言。これなら回答しやすいはず」


「で、未回答は始業式で紙で回答してもらう感じね」


 西村が確認する。


「登校日は全員揃わないから、配り漏れのリスクがあるね。始業式の朝、その場で紙を渡して回収するのが確実かな」


 佐伯が淡々と言う。


「じゃ、決まり!」


 西村がファイルをパンと叩く。


「今日は質問まで確定させて、明日、投げよう! 始業式で穴埋め回収ね!」


 机の上の白紙が、少しだけ埋まった気がした。

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