第47話 浴衣の破壊力と、袖越しの微熱
僕は夏祭りの会場にいた。
人口密度と気温の相乗効果で、空気の粘度が異常に高い。
まだ空には夕暮れの朱色が残ってるのに、境内の提灯は既に灯り始めてる。
けれど、熱気は昼間のそれを引きずったままだ。
集合場所である神社の鳥居横。
石段の端で待機していた僕と佐伯は、死んだ魚のような目で参道を埋め尽くす人の頭を眺めていた。
「気温も湿度もきつい。甚平でも不快指数、高いね」
「……そうだね。休み初日からこの人混みに突っ込むのは中々しんどいよね……」
佐伯は、渋い灰色の甚平姿だ。
女子なら普通は浴衣を選ぶところだろうが、彼女いわく「浴衣は帯がきつい。動きにくい」らしい。
髪も適当に後ろで縛っただけ。色気より機能を優先するあたり、佐伯らしい。
それでも周りから注目されてるのが、凄いけど……。
僕はと言えば、Tシャツに薄手のシャツを羽織っただけの、いつものスタイルである。
そのせいか、さっきから「なんだあいつ?」みたいな視線が痛い……。
「おーい! 先発隊ー!」
人混みの雑踏を切り裂くように、聞き覚えのある高い声が響いた。
視線を向けると、極彩色のような派手な一団――というか、西村が手を振って走ってくるのが見えた。
丈の短い、フリルのついた現代風の浴衣。
髪はサイドでまとめられ、腕には光るリングを大量装備している。歩くお祭り女だ。
「待たせたな、愚民ども! そして刮目せよ!」
西村がバッと横に避ける。
その背後、人波の影から、もう一人の人影がゆっくりと姿を現した。
「……お待たせ。ごめんね、着付けに手間取っちゃって」
一瞬、周囲の騒音がフィルター越しになった気がした。
白地に、淡い藍色の朝顔があしらわれた浴衣。
普段は下ろしている髪が丁寧に編み込みでアップにされ、白いうなじが提灯の明かりに浮き上がっている。
周囲の喧騒を切り裂くような、暴力的なまでの清涼感。
正直、直視するには、眩しすぎる。
「桜井さん。浴衣、いいね。似合ってる」
「あ、ありがとう佐伯さん。……安藤くん、どうかな?」
佐伯の直球すぎる称賛を受け取った流れで、桜井が上目遣いでこちらを見てくる。
小首を傾げるその動作だけで、周囲の男たちの視線が突き刺さるのを感じた。
「……いいんじゃないかな。記事のメインビジュアルには困らなそうだよ」
「ふふ、それだけ?」
「……それだけだよ。ほら、行こう。道が塞がって迷惑になってるよ」
僕は逃げるように視線をずらした。
これ以上見ていると、何か気の利いた台詞を言わなければならない空気に負けそうだったからだ。
「さて、ここで編集部より業務連絡です!」
鳥居をくぐったところで、西村がビシッと指を立てた。
「四人で固まって動くのは効率悪いし、何より通路の邪魔です。よって二班に分けます」
「いいね。具体的には?」
「サエは私と『屋台グルメ班』ね。焼きそばとかかき氷のシズル感を撮るよ」
「了解だよ」
「すみれと湊は『風景・雰囲気班』! 提灯の明かりとかって、スマホだとブレるから一眼必須だし」
西村がもっともらしい理屈をつけて指差す。
有無を言わせぬ仕切りだった。
佐伯は、既に焼きそばの屋台の方角へ身体を向けている。
色気皆無の甚平女子と、派手な浴衣女子。妙な組み合わせだが、なぜかしっくりくるから不思議だ。
けどそこは今重要じゃない。
「ちょっと待って、その班分けは――」
「じゃ、あとで合流ね! 解散!」
僕は止めようとしたが、それより先に西村が佐伯の甚平を引っ張って人混みへ消えていく。
残されたのは、カメラを持った僕と、強烈な破壊力を持つ浴衣姿の桜井だけ。
完全に嵌められた。
「……行っちゃったね」
「西村さん、絶対取材半分で遊び半分でしょ……」
「お祭りなんだし、いいんじゃない?……私たちも行こ?」
桜井が楽しげに下駄を鳴らして一歩近づく。
ふわりと、甘い香りがした。
いつもより少しだけ、よそ行きの香り。
祭りの熱気と入り混じり、思考が鈍る。
「下駄だと少し歩きにくいだろうし、はぐれないように気をつけてね」
「うん、ありがとう。……なら、失礼して」
桜井がすっと僕の横に詰めた。
くい、と。
羽織ったシャツの右袖が引かれた。
見ると、桜井の指先が、僕のシャツの袖口を数ミリだけ摘んでいる。
肌には触れない。手も繋がない。
ただ布一枚を介して、彼女の存在がつながっている。
「……これ、必要?」
「必要。安藤くんが前にいてくれないと、波に飲まれちゃうし。……壁役、いないと進めないから」
彼女は前を向いたまま、淡々と事実を述べるように言った。
その横顔は「取材中です」と主張してるみたいだった。
けれど、袖を掴む指先には、布が少し伸びるくらいの力がこもっている気がした。
僕はため息を飲み込んで、歩幅を少しだけ狭める。
さっき集合した時は「似合っている」なんて他人事のように分析できたけれど、こうして至近距離で歩くと、浴衣の破壊力がダイレクトに伝わってくる。
不用意に腕を振ると、彼女の細い指から袖がすっぽ抜けてしまいそうだ。
人波をかき分けて進む。
金魚すくいのポイが破れる音、射的のコルクが弾ける音。
喧騒は激しいはずなのに、袖から伝わる微かなテンションのせいで、僕の意識は妙に静かだった。
「あ、安藤くん。あそこ」
桜井が指差した先には、かき氷の屋台があった。
「『レインボー氷』だって。写真映えしそうじゃない?」
「確かに。記事の写真にはいいかも」
「でしょ? 行こ」
桜井が嬉しそうに袖を引く。
その瞬間だった。
「おー! 湊じゃん!」
聞き覚えのある、よく通る声が降ってきた。
反射的に身構える。
人波が割れて、見知った顔が現れた。
陸だ。
隣には、いかにも陽キャといった雰囲気の男子が二人。
サッカー部のジャージ姿ではなく、洒落た私服を着こなしている。
「げっ、陸」
「『げっ』ってなんだよ。奇遇だなー」
陸がニカっと笑う。
その屈託のなさは、夏の太陽を擬人化したみたいだ。
と、陸の連れの男子が、僕と桜井を交互に見て、ニヤリと口角を上げた。
「なんだよ陸。お前の知り合い?」
「ああ、俺の幼なじみだよ」
「へえ……。で、そっちは? 気合入った浴衣じゃん。デート?」
その言葉が出た瞬間、場の空気がコンマ数秒だけ凍った。
デート。
浴衣という視覚情報のせいで、その単語はあまりに重く、鋭く突き刺さる。
桜井の指が、僕の袖をぎゅっと強く引いたのが分かった。
彼女が何か言おうとして、唇を開く。
けれど、それより早く、陸が手を振った。
「茶化すなよ。こいつら今、クラス新聞の『取材中』なんだから」
陸の声は、軽いが断定的だった。
「取材? マジ?」
「マジマジ。邪魔すんなって」
「なんだよ、仕事熱心だねぇ」
友人の男子たちは、興味を失ったように肩をすくめた。
「悪いな湊、桜井さん。頑張って」
陸が片目をつむって見せる。
それは完璧な助け舟だった。
「デート」という誤解を解き、冷やかしから守り、僕らの立ち位置を「安全圏」に戻してくれる、スマートな采配。
友人たちに連れられて去っていく陸の背中を見送りながら、僕は心底からの安堵の息を吐いた。
「……助かった」
危ないところだった。
もしあそこで茶化され続けていたら、どんな噂が立つか分からない。
陸の機転のおかげで、僕らはただの「真面目な新聞係」でいられた。
「……だね」
桜井の声が、少し遅れて聞こえた。
見ると、彼女は去っていく陸たちの背中をじっと見つめていた。
その表情は、安堵しているようにも見えるし、どこか納得がいかないようにも見える。
提灯の逆光で、表情が読み取れない。
「桜井さん?」
「……ううん。なんでもない」
桜井は短く首を横に振った。
そして、掴んでいた僕の袖を、ぱっと離した。
手を引く速度だけが、妙に冷たかった。
急に軽くなった右腕が、妙に心許ない。
「ほら、取材しよ。レインボー氷、売り切れちゃう」
桜井の声は、さっきまでより、ワントーン硬くなっていた。
彼女は僕の返事も待たずに、カラン、と下駄を鳴らして屋台の方へと歩き出す。
(……怒ってる、のか?)
僕は慌ててカメラを構え直して、桜井の後を追う。
さっきまで、袖にあったはずの重さがない。
そのせいで、人混みの音が少しだけ大きく聞こえた。
取材中。
言葉にすれば、それが全てだ。
なのに、浴衣姿の桜井の背中は、事務的で、さっきよりも半歩ぶんだけ遠い気がする。
「……待ってよ、桜井さん」
呼びかけると、彼女は一度だけ足を止めた。
振り返らないまま、ぽつりと言う。
「……次、金魚すくいの撮影だから。ピント、ちゃんと合わせといてね」
それだけ言って、また歩き出す。
僕は「了解」と言いかけて、飲み込んだ。
取材としての返事だと、何かを間違えそうな気がしたから。
僕は結局あいまいに頷いて、桜井の後を追った。




