第46話 勝手に埋まる夏の予定と、引かれた袖
期末テスト最終日のチャイムは、いつもより軽い音がした。
軽いのは音の問題じゃなくて、この教室の空気のせいだ、きっと。
答案用紙が回収されると、机の上が一気に空っぽになる。
クラスメイトの顔に浮かぶのは「解放」の二文字。
夏の入り口というのは、いつもこういう雑な感じで始まる。
「浮かれてるのは分かるが、連絡だ」
先生の連絡はいつも短いけど、重いことが多い。
嫌な予感がする……。
「学級新聞についてだ。夏休みのことをまとめて、休み明けに提出になる。始業式終わって一週間後までに提出だから気をつけろよ」
九月。まだ遠い未来の話だ。
けど、油断するとアッという間に終わるのが毎年恒例だ。
「クラス全体の夏の課題になるからな。全員、新聞係に協力するように。以上」
先生が出ていくと、空気の留め具が外れたように教室が緩む。
僕もその緩みに便乗して、空気の一部になりたかった。
なりたかったのに。
「よし。編集部、集合」
西村の声が、僕の「モブとしてフェードアウトする権利」を剥奪しに来た。
極彩色のテンポで、机の横に滑り込んでくる。
「正確には新聞係だよ」
「係のほうが重いじゃん。編集部のほうが楽しそう」
「楽しさで決めていいのかな……」
「夏だからね! 湊!」
西村が僕の机をバンと叩く。
その勢いだけで、夏が確定演出に入りそうだった。
隣の席の佐伯は、紙袋から薄いノートを取り出し、音もなく机に置いた。
「休みに入る前に、今から決めたほうがいいね」
「ほら、サエ先生も言ってる」
「先生ではないよ」
佐伯が秒で訂正する。
その騒がしいやり取りの中、桜井も近づいてきた。
「そうだね、簡単に決めちゃおうか」
桜井が小さく言って、編集部(仮)としての時間が始まることが確定した。
「でねでね。先生は『ネタ集めろ』って言ってたけどさ」
西村が、いきなり剛速球を投げてくる。
「ネットで拾った情報まとめるだけじゃ、きっとダメだよね?」
「まあ、そうだね」
「だから、ここはガッツリ取材しないと!」
「取材って……なに?」
「かき氷!花火!プール!」
西村が楽しそうに指を折る。
「全部、取材ってことにすれば堂々と遊……行けるじゃん」
「今、遊べるって言おうとしたよね」
「気のせい気のせい」
西村がニカっと笑う。
佐伯が横から、淡々と補足を入れる。
「……動機は不純だけど、視点は悪くない。夏休み明けは、ありがちなネタだと読まれにくい。体験に基づく『生きた情報』がほしい」
「ほら、サエ先生も賛成してる」
「全部賛成ではないけど」
佐伯はノートを開き、さらさらと数式のように書き始めた。
「行き先を絞るなら、プール、祭り、観光地。距離とお金で見ると、市民プールと地元の夏祭りが現実的かな」
「待って。プールは却下で」
僕は即答した。
自分でも驚く反射速度だった。
「速っ」
「暑いし、人多いし、眩しいし、うるさいし」
「後半、ただの感情論じゃん」
「感情は大事でしょ」
「湊、夏を静かにしたいタイプでしょ」
「診断しないで」
「当たってるじゃん」
「当たってない。……7割くらいしか当たってないから」
僕が認めると、西村が勝ち誇ったように指を鳴らした。
「よし。じゃあ、消さない方向で設計しよう」
「僕の言葉聞いてた?」
「夏を静かに過ごすのは不可能なのだ」
西村がドヤ顔をする。たぶん、桜井の口癖が感染ったんだ。
桜井が小さく咳払いをした。
会話のテンポを整えるような、静かな音だった。
「……取材、私も賛成かな」
「お、すみれも乗った」
桜井は僕を見て、ふわりと表情を緩めた。
「ふふ。記事にするなら、みんなの役にも立つしね」
「役に立つかな……」
「立つよ。『近場の涼スポット特集』とか」
桜井は丁寧に言う。
言いながら、すっと僕の左横――窓側の通路に立った。
西村と佐伯が、ノートの記述で盛り上がっている死角だ。
視界の隅で小さな動きがある。
くい、と。
僕の制服の袖が、引かれた。
桜井の指先は布の端だけを摘んで、僕の肌には一切触れていない。
触れていないのに、その数ミリの布越しに、彼女の体温が伝わってくるような錯覚を覚える。
桜井は、西村たちには聞こえない音量で呟いた。
「……安藤くんが行かないと、壁役がいない」
言い終わったあと、桜井は少しだけバツが悪そうに口元を結んだ。
「壁役って、何」
「人混み避け」
即答だった。
「……荷物持ちも兼任で」
「荷物持ちなら分かるけど、壁は……」
「いるよ。カメラ守らなきゃいけないし、メモ取るときにスペース欲しいし」
桜井が真面目な顔で指を折る。
その必死なこじつけが、なんだかおかしくて、僕はため息を一つ飲み込んだ。
「それ、僕じゃなくても」
「……安藤くんがいたほうが、『視点』がブレないから」
桜井は、最後だけ声を落として言った。
その言葉は、柔らかい鎖みたいに僕の足を止める。
ずるい。
「役立つから」じゃなくて「ブレないから」なんて言われたら、観察係としては反論できない。
西村が、そこで間に割り込むように笑った。
「はい出た。すみれの丁寧な圧」
「圧じゃないよ」
「圧だよ。がっつり袖引いてるし」
言われた瞬間、袖から熱が離れた。
桜井が慌てて手を引っ込めている。
「引いてない。……少し、引いたけど、圧じゃないよ」
桜井が珍しく言い淀んだ。
言い直すみたいに、慌てて言葉をつなぐ。
佐伯が、状況を冷徹にまとめる。
「安藤くんが来る意味はあるよ。撮影担当と、人混みで機材を守る役が必要だから」
「……僕、そこまで出張る必要ある?」
このメンバーでのプールのハードルは、正直高い……。
桜井は言わずもがな、佐伯もその外見はクラスの一軍のそれだ。
西村もその性格と明るさで人気があることは聞いたことがある。
そんな中に僕一人がプールに混ざる姿は、想像すると胃が痛くなる……。
僕がなんとか参加しない方向で抵抗していると、西村が呆れた顔をしてこちらを見た。
「私たちがお互いに撮るだけじゃ、ただの遊びになっちゃうじゃん。湊が外から撮ってくれないと、記事にならないよ」
「……」
その言葉は、正論だった。
僕がカメラを持てば、それは「取材」になる。
学校の課題の取材なら、僕がそこにいても許される気がした。
桜井が、手持ち無沙汰に指先を重ねたまま、上目遣いで見てくる。
「……条件、決めようか」
「条件?」
僕が反応した時点で、もう勝負はついていた。
「取材は短時間。撮影メイン。無理はしない。……それで、どう?」
桜井が、指を折るのをやめて、まっすぐに僕を見る。
その提案は、僕が一番欲しかった「逃げ道」そのものだった。
「それなら、安藤くんも……消耗しすぎない……よね?」
「消耗する前提なのが、僕の扱いをよく分かってるね……」
「ふふ。自覚があるなら、対策しやすいよ」
桜井はふわりと笑って、楽しそうに僕を見る。
その表情だけで、駄目押しだった。
(……これは、逃げられない)
観念した僕を見て、佐伯がノートに素早く書き込んだ。
「決定。夏休み中に数回、取材日を設けようか。第一弾は夏祭り、次はプールだね」
(まだ行くとは言ってないんだけど……)
心の中で突っ込むが、言葉には出ない。
西村の勢いと佐伯のノートの書き込みに、完全に飲まれていた。
「私は取材の質問案を作る」
桜井が続く。
「で、私は盛り上げ担当! タイトルも決める。『夏、溶ける編集部』とか」
「溶けるないでしょ」
西村が続ける。
「じゃあ『夏、逃げる湊』」
「やめて……」
僕が即否定すると、西村が嬉しそうに笑った。
「反応あり。採用!」
「採用しないで」
佐伯が、西村を見てピシャリと言う。
「タイトル案は後回しだよ。先に、全員をどう巻き込むかを考えないとね」
「そうそう、それ。先生にも言われてたやつ」
西村が頷いて、教室の前のほうを指した。
「みんなに『夏の予定アンケート』取るのはどう?おすすめスポットとか、夏の写真とか送ってもらうの。紙面の素材集め!」
「それなら……みんなも気軽に参加できそうだね」
桜井はそう言って、ほんの少しだけ柔らかく笑った。
西村が、机の上でスマホを掲げる。
「じゃ、連絡回すね。夏号用の別グループ作る。名前は『夏号運用』!」
「名前が直球すぎない?」
「わかりやすいでしょ!」
そのタイミングで、僕のスマホが震えた。
画面に通知が並ぶ。
『【夏号運用】に西村千夏があなたを追加しました』
嫌な予感しかしない。
間髪入れずに次の通知。
『【連絡】夏休み取材計画(仮)』
『第一回:夏祭り取材』
『第二回:市民プール視察』
『湊:カメラ忘れたら一生いじる』
「最後だけ圧がすごくない……?」
「圧じゃない。愛だよ!」
「愛の使い方が雑……」
僕がため息をつくと、桜井が小さく覗き込んできた。
顔が近い。
触れないギリギリの距離で、彼女のまつ毛が揺れるのが見えた。
「……一生って、すごい覚悟だね」
「西村さん曰く、愛みたいだからね……」
「ふふ。じゃあ、忘れないね」
「僕が忘れる前提で言わないでよ」
「前提にしたほうが、対策できるでしょ?」
桜井が少しだけ悪戯っぽく言って、すぐに表情を戻す。
僕は返事を探して、結局、一番短い言葉を選んだ。
「……了解。予定、空けとくよ」
桜井が小さく頷いた。
口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「うん。ありがとう、安藤くん」
西村が、その間を逃さずに拍手した。
「はい決定。湊の夏、消滅回避!」
「勝手に回避しないで」
佐伯がスマホを見ながら冷静に告げる。
「覆すなら、今だよ。もうすぐ半分が既読になる」
僕はスマホの画面を見る。
自分の名前が、圧の強い一文と並んでいる。
……今から覆すコストが高すぎる。
「……覆さないよ」
「よし!」
西村が満足げに笑って、教室のほうへ声を張り上げた。
「みんなー! 夏休みのネタ、アンケート取るよー! おすすめスポットとか、写真とか募集!」
教室の空気が、また少しだけ熱量を帯びる。
これから始まる夏休みへの期待と、少しの浮つき。
僕は鞄を持ち上げて、スマホをポケットに入れた。
入れたはずなのに、また震える。
『【夏号運用】西村千夏:とりあえず、初回の祭り取材の日程調整ね。逃亡は即確保!』
最後の一文が、やたらと強い。
(……夏の予定が、決まらないどころか)
(勝手に埋まっていく)
窓の外の空は、もう逃げ場のない夏の色をしていた。




