第45話 図書館の結界と、ファミレスの定位置
体育祭の「号外」は、勢いで出し切った。
けれど、学期末に出す新聞はそうはいかない。
写真の整理というのは、だいたい「終わった」と思ったあとに、本当の審査が始まる。
今、まさにそんな感じだ。
(この一枚、良い)
(でも、紙面に置くと主張が強い)
(じゃあこれ……いや、こっちか)
脳内の審査員がやたらと厳しい。
そのくせ、判断基準は曖昧だ。体育祭のときの熱気が、僕の感覚を少し狂わせているのかもしれない。
ふと時計を見る。
今から出ると、待ち合わせの時間を少し過ぎそうだった。
ポケットの中でスマホが震えた。
『先についたし、席取っとくね 穴場の続きだよ』
桜井からのメッセージ。
穴場の続き、という言い方が桜井らしい。
『今出る 少し遅れるかも ごめん』
短く返して、僕はノートPCを閉じた。
メモリーカードと、選定候補の写真をバッグに放り込む。
(期末前に何やってるんだって話だけど)
(期末前だから、やってるんだよな)
妙に納得して、僕は駅へと走った。
◇
日曜の図書館は、深海みたいに静かに混んでいた。
静かに、というのがポイントだ。
人口密度は高いのに、音だけがフィルターかかったみたいに消えている。
椅子を引く音すら、全員で相談して音量を下げているような空間。
自習席の列を抜け、奥の長机を探す。
見つけた瞬間、視線が吸い寄せられた。
桜井が、いた。
いつもの制服ではない、緩いニットの私服姿。
髪を高い位置で束ねたポニーテールが、窓からの光を透かしている。
無防備に晒されたうなじが、教室の「優等生・桜井すみれ」とは違う、オフの空気感を漂わせていた。
そして。
なぜか桜井の席の隣の椅子に、バッグが鎮座している。
図書館、隣の席というシチュエーションで一年の終わりの記憶がよみがえってくる。
(……えっと)
あの時も、席は隣だった。
ただ、別にそこが僕の席だと決まってるわけじゃない。
けれど、そのバッグの置き方は雄弁だった。
ここは予約済みです。関係者以外、立入禁止。
そんな「結界」が張られているみたいだ。
桜井が顔を上げた。
僕と目が合うと、ふわりと表情が緩む。
「安藤くん、来た」
「遅れてごめん」
「ううん、大丈夫。……ちょっとだけ遅かったね」
責めていない口調なのに、言葉の先端が少しだけ尖っている。
刺すときの桜井は静かだ。
図書館の空気に馴染みすぎていて、逃げ場がない。
「そのバッグって……?」
「席、取ってた」
「……ここ、僕が座るってことになってるの?」
「なってるよ?」
言い切ったあと、桜井はふいっと視線を窓の外へ逃がした。
その横顔が妙に真面目で、僕はふざけて返す隙を失う。
「これは占領では……」
「占領じゃなくて、確保だよ。確保」
桜井は悪戯っぽく口角を上げると、バッグを持ち上げて自分の足元に置いた。
ぽん、と空いた座面を掌で叩く。
座れ、という無言の合図だ。
僕が腰を下ろすと、彼女は何事もなかったように教科書を開き直した。
「写真、持ってきた?」
「持ってきたよ。遅刻の原因だけど」
「原因なんだ?」
「勉強からの現実逃避にはちょうどいいアイテムだから」
「ふふ。それ、分かる」
桜井が短く笑って、ペンを握る。
そのとき、反対側の椅子が引かれた。
「予定より五分遅刻した、ごめん」
佐伯だ。
「遅れた人がもう一人増えた」
「私は誤差の範囲だよ」
「誤差って便利な言葉だよな」
「便利な言葉は、説明がいらないから」
佐伯が淡々と言い切り、どさりと参考書を積んだ。
そのドライなやり取りを、桜井が横から拾う。
「物は言いよう、だね」
「……うん」
僕の返事が短くなったのは、たぶん図書館のせいだ。
桜井との距離が、学校の机よりも近いせいではない。たぶん。
佐伯が机の上を見回し、僕と桜井の配置を確認する。
「席、編集のときと同じだね、合理的」
「ほら」
桜井が小声で言う。
勝ち誇った感じはないのに、勝ちを確定させてくるトーンだ。
「何がほらなの」
「隣のほうが、相談しやすいでしょ」
「相談するつもりだったの?」
「……するつもりで取った」
取った、という言い切り。
席は物じゃないのに、彼女の中ではすでに所有権が発生しているらしい。
佐伯がプリントを机に広げた。
「期末まで、残り十日だね」
「言葉で殴らないで」
「事実だから」
「事実で殴るのが一番痛いんだよね……」
僕がぼやくと、桜井がノートの端を指でとんとん叩いた。
静かに笑っている。
「じゃ、そろそろ勉強する?」
「そうだね。……写真は、休憩のときにでも」
「了解。まずは現実を見ようか」
「現実、見たくないなぁ……」
僕はため息交じりにノートを開き、英語の長文読解を始めた。
カリカリ、というペンの音だけが響く。
静寂の中で、思考だけが滑っていく。
ふと、視線を感じた。
顔を動かさず、目線だけを横に向ける。
桜井が、僕のノートを覗き込んでいた。
近い。
彼女のシャンプーの匂いが、古本の匂いに混ざって漂ってくる。
「……安藤くんの字、落ち着くよね」
「急に何」
「なんでだろうね?」
「それは僕が聞きたいよ……」
「私には、ちょうどいい字なんだよ、きっと」
ちょうどいい。
どうとでも捉えられるその言葉が、耳の奥に残る。
覗き込む彼女のまつ毛が、瞬きのたびに震えているのが見えた。
桜井自身も、口にしてから少し不思議そうな顔をした。
単なる事実を述べただけ、という顔で小首を傾げている。
「……だから、隣で見ててもいい?」
「見てないで勉強しよう」
「ふふ。即答」
桜井は視線を戻すと、付箋にさらさらと何かを書き、僕のノートの端に貼り付けた。
「落とした」のではなく、明確な意思を持って「貼った」音だった。
(あの時の図書室でも、こんなことあったな……)
文字を見る。
『集中できてる?』
(……できてないのがバレてる)
顔を向けると、桜井は何事もなかった顔で問題集に戻っている。
声を出せない代わりに、文字で刺してくる。
このアナログな通信手段が、デジタルのメッセージよりも温度を含んでいる気がして、僕は少しだけ居住まいを正した。
自分の付箋を一枚剥がし、短く返す。
『頑張ります』
桜井のペン先が一瞬止まって、また動いた。
止まった理由は分からない。
けれど、机の上の空気が、ふわりと甘い成分を含んだ気がした。
そのタイミングで、今度は別方向から椅子が引かれた。
「見ーつけた。遅刻しちゃったよ!」
西村だ。
図書館という空間に似合わない、極彩色のテンポで現れる。
「声」
僕が言うと、西村は口元を手で押さえ、わざとらしく囁いた。
「静音モードですぅ」
「わざとらしい……」
「褒め言葉、あざっす」
西村が空いている椅子に座ろうとして、僕と桜井の配置を見た。
にやり、と口元が歪む。
「あれ、相変わらず夫婦席?」
「夫婦席じゃないよ」
桜井が小声で即否定する。
普段なら流すところを、珍しく反応が速い。
食い気味だった。
「たまたまだよ」
僕が付け足すと、桜井がすがるような目で僕を見た。
ごまかして、と目が言っている気がする。
「はいはい。たまたまね、たまたま」
西村がニヤニヤしながら、鞄を下ろす。
「で、湊。静かなハーレム形成中じゃん」
「図書館でハーレムって何だよ」
「静かだと余計に背徳感ない?」
西村の囁きが、全然静かじゃない。
すぐ背後から、咳払いが一つ、重たく落ちてきた。
「お静かにお願いします」
司書さんの笑顔。
笑顔の形をした、絶対零度の圧力。
西村が反射的に背筋を伸ばした。
「すみません。反省します」
反省の速度だけは速い。
だが、その有効期限はカップ麺より短い。
西村が限界そうな顔で小声をもらす。
「ここ、私には向いてないね」
「確かにね」
思わず即同意してしまう。
「やっぱりきつかった。というか、もう無理。窒息する」
「限界早いね」
「だって静かすぎるもん。文字が私を殴ってくる」
僕は机の上を片付けながら、桜井を見る。
桜井は問題集を閉じて、少しだけ口元をゆるめて頷いた。
「移動しようか」
「……賛成。ここ、西村と相性悪いね」
佐伯が結論を置く。
結局、僕たちは静寂から追い出されるように、席を立つことになった。
◇
駅前のファミレスは、適度な喧騒に満ちていた。
食器が触れ合う音、注文を繰り返す声。
図書館の静けさと180度違うけど、ここでは心地よいBGMになる。
四人掛けのボックス席。
奥に佐伯と西村。
手前に、僕と桜井。
座る流れで、桜井は何の迷いもなく僕の隣を選んだ。
(……偶然、だよな?)
そう思って、この件はいったん棚上げした。
どうせ考えても結論は出ない。
西村がドリンクバーのメニューを開きながら、ニヤリと笑う。
「はい、やっぱり湊ハーレムじゃん」
「さっきと同じネタだし。……いつもの編集部じゃん」
僕はため息混じりに即答した。
色気のない返しをしておかないと、西村の燃料になるからだ。
「なんか、編集部って呼び方定着したよね~。ほんとは(仮)がつくけど!」
西村が茶化すように言う。
佐伯が水を一口飲み、冷静に分析を入れる。
「席の並び、図書館のままだね。意図的かな?」
「意図的じゃない」
僕が言う。
「意図的じゃ、ないよ」
桜井も重ねる。
「一致してるじゃん」
西村が笑う。
僕は視線だけで隣を見た。
桜井はストローの袋を丁寧に折りながら、何でもない顔をしている。
だが、その肩は僕の肩と触れるか触れないか、ギリギリの距離にある。
(……何でもない顔が、上手すぎる)
この数センチの隙間だけ、他人が入り込めない密度になっている気がした。
西村が僕のノートを指でちょんと叩く。
「で、勉強会ね。サエ先生、今日の授業は?」
「先生ではないけど」
「先生だよ。最適とか合理とか言ってくるし」
「言ってないよ。今日は現実を言ってるだけ」
「現実がいちばん痛いんだってば」
佐伯が容赦なくプリントを机に広げる。
「前提ね。期末まで十日だから」
「また殴った!」
「殴ってないよ。確認しただけ」
「確認がボディブローになってる……」
西村が机に突っ伏す。
その様子を見て、桜井が笑いを飲み込むように口元を隠した。
「ふふっ」
楽しそうな声が、すぐ隣で弾ける。
僕もつられて、少しだけ頬が緩むのが分かった。
ハーレムなんて華やかなものじゃない。
ただ、この騒がしくて、合理的で、少しだけ距離の近い空間が、今の僕の定位置になりつつある。
(……まあ、いっか)
僕は桜井が開いた教科書の、ちょうどいい文字を眺めながら、ペンを回した。
期末前の憂鬱さは、ファミレスの喧騒に紛れて、どこかへ消えていった。




