第41話 優しさの辞書と、つなぐ言葉
翌日の昼休み。
チャイムと同時に、西村が教卓に「箱」をドンと置いた。
空き箱にマジックで『全員リレー見出し 投票箱』と書かれている。
「はーい注目! 体育祭号の全員リレー、見出しを募集しまーす!」
西村のよく通る声が、教室の弁当タイムを中断させる。
「採用されたら、紙面でドカンと使われます。今回はただのアイデア出しだから、匿名OK! 文句でもポエムでも何でも書いて!」
「文句は募集してないぞ」
僕が横から小声で突っ込むと、西村は親指を立ててウィンクした。
僕はため息をつきながら、クラスのみんなに用紙を配って回る。裏紙を四等分しただけの投票用紙だ。
「安藤、これ何書けばいいの?」
「リレーのイメージとか、キャッチコピーとか。適当でいいよ」
「適当って一番困るんだけど」
文句を言いながらも、みんな面白がってペンを手に取っている。
佐伯と桜井は、後ろの席からその様子を見守っていた。
「締め切りは放課後まで! みんなよろしくー!」
西村が叫んで、僕らの短いランチタイム営業は終わった。
あとは、魚がかかるのを待つだけだ。
◇
放課後。
六月の日は長いけれど、教室には少しずつ茜色が混ざり始めていた。
部活へ行く生徒たちが去り、静かになった教室。
後ろの席――机を四つつなげた「編集部(仮)」に、僕らは集まった。
真ん中には、ずっしりと重くなった投票箱が鎮座している。
「予想より入ってるね」
佐伯が箱の重さを確認するように持ち上げた。
「私の演説が効いたかな!」
西村が胸を張る。
「じゃあ、開票しようか」
桜井が言って、僕らは机を囲んだ。
窓から差し込む夕日が、机の上に長い影を落とす。昼間とは違う、少し落ち着いた空気だ。
「読み上げるから、サエは仕分けね。採用・保留・却下の三択で」
「……了解」
佐伯は無言で小さく息を吐いてから、ペンを構えた。
「一枚目! 『激アツ! 運命のバトン!』」
西村がドラムロールの口真似つきで読み上げると、僕の放課後の気だるさが一気に吹き飛んだ。
「……」
佐伯が真顔で、その紙を「却下」の山へ滑らせる。
「パチンコ屋のポスターみたいだね」
僕が言うと、西村が「それ!」と机を叩いた。
「フォントが赤と金に見えるね。まさにポスター」
「でも、熱量はいいと思う。熱量は燃料だから」
桜井がフォローを入れるが、苦笑いは隠せていない。
「次、二枚目。『秒速で決着!』」
「……煽りすぎ。保留」
「三枚目。『優勝以外はカス』」
「論外。却下」
佐伯の仕分け作業が続く。
大半はふざけた回答か、勢いだけの言葉だ。
けれど、西村の手が、ある一枚で止まった。
「……これ、どう思う?」
差し出された紙には、乱暴な字でこう書かれていた。
『遅い奴は置いてく 勝負は非情』
一瞬、テーブルの空気が止まった。
夕暮れの静けさが、急に重くなる。
誰かが悪気なく書いただろう言葉。
昨日の体育で漂っていた、あの嫌な空気の言語化だ。
「……これは、なし」
桜井が静かに言った。
怒っている感じはしない。
ただ、きっぱりと線を引く声だ。
「事実かもしれないけど、紙面にすると刺さるから」
「だよねー。却下!」
西村が明るく振る舞って、その紙を弾く。
けれど、佐伯がペンを回しながら言った。
「でも、勝負の感じは残したい。言い方は柔らかくしよう」
佐伯の言葉に、桜井が手元のメモ帳を引き寄せた。
さらさらとペンを走らせる。
『勝負→挑戦』
『置いてく→つなぐ』
そのメモを、僕の方へずらす。
まるで辞書の書き換えだ。
僕はそれを見て、思わず口元が緩んだ。
「湊、なにニヤけてんの」
「いや、この変換表、優しさの辞書みたいだなって」
「辞書って言わないで……恥ずかしい」
桜井が顔を赤くして、メモ帳を隠した。
つなぐ。
昨日の体育で、僕が身長差を理由に走る順を変えたのも、結局はそれだったのかもしれない。
速さを競うんじゃなくて、凸凹を埋める作業。
思考が、ふと言葉になる。
僕は手元の紙に、それを書き留めた。
『全員リレーは、競い合うんじゃなくて、補い合うもの』
「……それ、いいね」
隣から、桜井の声。
西村と佐伯は、次の紙の仕分けで盛り上がっている。
その隙をつくように、ふわりと甘い匂いがする距離で、僕のメモを覗き込んでいた。
「え、見てたの?」
「見えちゃった。安藤くん、控えめなのに芯がある」
「そうかな?」
「うん。採用。その言葉、編集として採用します」
桜井が柔らかく笑う。
逆光の中で、彼女の輪郭がふわりと輝いて見えた。
それから僕らは、残りの票もすべて確認した。
西村が読み上げ、佐伯が仕分け、僕と桜井で言葉を整える。
くだらない案に笑ったり、鋭い指摘に唸ったり。
そうして箱が空になる頃には、教室はすっかり夕焼けに染まっていた。
「じゃあ、最終案はこれで決まり」
作業が一段落したところで、佐伯の声が響いた。
佐伯が、選び出したキーワードを机の上に並べ直す。
投票箱から拾い上げた言葉を、僕らが少しだけ整えた形だ。
「これをベースに、安藤くんのメモを混ぜる」
佐伯が新しい紙に、太いマーカーで書き始めた。
迷いのない筆致。
『つなぐ挑戦 ~補い合う工夫~』
「コンセプトは安藤くん。ワードはみんな。……悪くないね」
シンプルで、誰も傷つけない。
でも、少しだけ前を向ける言葉。
「おー、いいじゃん! サエ、字うまい!」
「当然。読みやすさは大事だから」
佐伯は完成した紙を、クリアファイルに丁寧に挟んだ。
編集部の決定稿が入る、共有ファイルだ。
紙の端が揃う音が、心地よく響く。
「よし、今日の業務終了! 部活見て帰ろーっと」
西村が大きく伸びをして、鞄を掴んだ。
「お先! サエも行くよ!」
「私は職員室に寄る」
「じゃあ途中まで!」
台風みたいな二人が教室を出ていくと、急に静けさが戻ってきた。
残された僕と桜井。
夕日が長く伸びて、二人の影を重ねている。
「お疲れ様。安藤くんも、ありがとね」
桜井が僕を見て言う。
その目は、やっぱり「優等生」の仮面が少し外れていて。
「僕は何もしてないよ。開票しただけ」
「ふふ、またそれ?」
桜井が笑う。
窓の外はもう完全にオレンジ色だ。
ファイルに綴じられた『つなぐ挑戦』の文字が、夕焼けに染まっている。
昨日のトラブルが、こうして一つの「言葉」に変わった。
その達成感が、心地よい疲れと一緒に胸に残る。
「……じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
僕らは少しだけ時間をずらして、教室を出た。
廊下に落ちる夕日の温かさが、明日へつながるバトンみたいに見えた。




