第4話 観察係、最初の仕事
六月の空気は、なんとなく落ち着きがない。
梅雨入り前の蒸し暑さと、中間テストのプレッシャーと、
「このクラス、こういう感じで一年いくのかな」という諦め混じりの空気。
そのどれとも少し違うところに、僕だけのノイズがひとつ増えていた。
観察係、である。
(……いや、肩書きのわりに、何もしてないんだけど)
五月の終わり、屋上で「観察係」になってから、まだ一週間も経っていない。
桜井と話す機会は、ほんの少しだけ増えた。
朝、「おはよー、安藤くん」と声をかけられたり、
休み時間に、何気なく「さっきの授業、眠かったね」とか雑談されたり。
でも、肝心の「観察レポート」は、まだ一度も請求されていない。
(あれか。勢いで言ったけど、やっぱり忘れてるパターン……)
そんなことを考えながら、僕はいつも通り窓際の席から教室を眺めていた。
真ん中の島では、桜井と西村が、今日もいつもの朝の雑談タイムを繰り広げている。
「昨日さ〜、コンビニでさ〜」
「はい出ました“昨日さ〜”。大体ろくな話じゃないやつ」
「千夏、人のトークの型にケチつけるのやめよ?」
「型を大事にしてる自覚はあるんだ」
そんな会話を、クラスのあちこちからの笑い声と一緒に聞き流す。
観察係と言いながら、やっていることはほぼいつも通りだ。
ただひとつ違うのは。
(“見えたものに、言葉をつける前提で見る”って、案外めんどくさいんだな)
前までは、「空気悪いな」とか「盛り上がってんな」くらいで終わっていたものに、
いちいちラベルを貼る作業が頭の中で発生する。
たとえば今なら、「月曜の一時間目、テンション死んでるくせに、真ん中の島だけやたら元気」とか。
(……こんなの、ほんとに需要あるのか)
自分で考えておいて、自分で首をひねる。
そんなふうにしていたら、始業のチャイムが鳴った。
◇
その日のホームルームは、いつもより少し長引いた。
「えーと、来月の学年レクの件な」
担任の中村先生が、黒板の前でプリントをめくりながら言う。
三十代半ばくらいの、眼鏡をかけたスーツ姿。
見た目はちょっと怖そうだけど、話してみると案外ゆるい先生だ。
「体育館でやるやつ、覚えてるよな。クラス対抗でなんかやるっていう……」
「なんかって」
「まだ競技が決まってないんだよ。そこからだよ」
教室のあちこちから、くすくす笑いが起こる。
「で、お前らのクラスとして、なにやりたいか、意見出してほしいんだけど」
中村先生が、黒板に大きく【学年レク案】と書いた。
「ドッジボールとか、バスケとか、リレーとか。なんでもいい。多数決になると思うけど、その前に“これやりたい派”の声がないと始まらんからな」
そう言って、チョークを置き、くるりとこちらを向く。
「はい、じゃあ……意見ある人、挙手」
そこから先の展開は、ある意味で想像通りだった。
静寂。
椅子のきしむ音と、誰かの咳払いだけがやけに響く。
何人かは、顔を上げかけて、すぐにノートに視線を落とした。
隣とひそひそ話して、笑いをこらえるやつもいる。
(出た、“様子見タイム”)
みんな、別にやる気ゼロってわけじゃない。
目線の動きや、小さく動いた肩の感じからして、
「どうせやるなら、ドッジボール楽しそう」とか、「バスケもアリ」くらいは考えている。
でも、「じゃあ最初の一人になりたいか」と言われると、話は別だ。
クラスのムードを決める一発目。
成功すれば「ノリいいやつ」だけど、空振りしたら「空気読めてないやつ」。
その境界線が、教室中にうっすら引かれているのが分かる。
「……いないのか?」
中村先生が、少しだけ肩をすくめてみせる。
「じゃあ、指名するぞ。えーと──」
「はい」
そこで、真ん中あたりから、ぱっと手が挙がった。
桜井だった。
「ドッジボールやりたいです。クラスで分かれて、総当たりとか」
「お、いいね。理由は?」
「体育館って、球技のほうが盛り上がりやすいかなって。あと、球技苦手な人も、外野で応援したりできるし」
「なるほど。じゃあ、“ドッジボール案”一票な」
中村先生が黒板に【ドッジボール(桜井)】と書く。
その瞬間、あちこちの席で、一気に空気がほぐれたのが分かった。
「おれもドッジボール賛成っス」
「わたしもー」
「ドッジでいいと思うー」
さっきまで沈黙していたやつらが、次々に声を上げ始める。
それは、「桜井案だから」というより、
「“最初の一人”の役割が終わったから、安心して手を挙げられる」という感じだった。
黒板の【学年レク案】の下には、あっという間に【ドッジボール◎】の文字と、賛成者の名前がずらずらと並んでいく。
(……ほんと分かりやすいな)
僕は、自分の机からその様子を眺めていた。
桜井は、特に得意げな顔もせず、
「じゃあ、こういう感じで~」と、賛成してくるクラスメイトたちと普通に話している。
その横で、西村が「じゃあ私は審判ポジ狙お〜」と適当なことを言って、また笑いが起きる。
結局、その日のホームルームは、八割方ドッジボール案で固まったところで締めくくられた。
◇
放課後。
教室の窓の外は、すっかり曇り空になっていた。
掃除も終わり、クラスメイトたちはそれぞれ部活や塾に向かって散っていく。
僕は、英語の教科書をカバンにしまいながら、
ふと視線を真ん中の島に向けた。
桜井が、例の小さなノートを開いている。
授業のプリントも教科書も片付け終わっていて、
机の上にあるのは、その薄いノートと、細身のボールペン一本だけ。
(……また何か書いてるな)
観察係、という仕事名が頭の片隅に浮かぶ。
とりあえず、カバンを肩にかけて立ち上がったところで。
「安藤くん」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、桜井が椅子に座ったまま、くるりとこちらを向いていた。
「ちょっと、いい?」
「はい」
反射的に敬語が出る。
桜井は、口元だけで小さく笑った。
「……それね」
「え」
「敬語、まだだいぶ残ってるよね」
「あ」
屋上での会話が、瞬時にフラッシュバックする。
「いや、その、いきなり崩すのも難しいと言いますか」
「“と言いますか”って、むしろレベル上がってない?」
「すみません」
「謝らなくていいってば」
そう言ってから、桜井はノートを閉じずに、指でページの端を押さえたまま続けた。
「観察係、最初の仕事、お願いしていい?」
「……最初の仕事」
なんか、思ったよりも仰々しい響きになってしまった。
「さっきのホームルームの空気、どう見えた?」
ああ、と納得する。
たしかに、あれは「観察しがい」のある場面だった。
「みんな大体は賛成なんだけど……ってやつで……だよね」
「うん」
「“誰が最初に手を挙げるか”を待ってた感じ、だった」
口に出しながら、頭の中でさっきの光景をなぞる。
「やりたい人は多いけど、“最初に”ってなると、ちょっと怖いから。
様子見してたら、桜井さんが手を挙げた、みたいな」
「ふむふむ」
桜井は、ボールペンをくるくる回しながら聞いている。
「で、“桜井案が採用されたから賛成”っていうより……“最初のハードル誰かが越えてくれたから、じゃあ乗ろう”みたいな」
「ほう」
「たぶん、“ドッジボールがやりたい人”と、“決まれば何でもいい人”が混ざってて。
どっちのタイプも、“最初じゃなければいいや”って思ってた感じだと思います」
言ってから、ちょっとだけ恥ずかしくなる。
(……なんか、偉そうだなこれ)
ただ教室眺めてただけのやつが、なに分析っぽいこと言ってるんだ。
そう思って桜井の表情をうかがうと。
「やっぱり?」
目を少し細めて、楽しそうにうなずいていた。
「わたしも、そんな感じかなーと思ってた」
「なら、僕のは確認取れただけでは」
「いやいや。自分一人で見てると、“たまたまそうだっただけかも”って不安になるんだよね」
桜井は、ノートの一行目に、さらさらとペンを走らせる。
【誰も手を挙げないホームルーム】
その下に、少しだけ文章を書き足していく。
【みんなの顔は、そこまで真剣じゃない。
でも、絶望している顔でもない。
「どうせ誰かが決めてくれる」と、「どうせなら楽しいほうがいい」が、
同じ沈黙の中で並んで座っている。】
(……相変わらず、ちょっとだけ刺さるな)
自分も、その沈黙の一員だったと思うと、なおさらだ。
「でさ」
ペン先を止めずに、桜井が続ける。
「【一人目が手を挙げた瞬間、その沈黙は“拍手の準備運動”に変わる】」
「拍手の準備運動、ですか」
「うん。さっきのドッジボール案、もし別の子が最初に言ってても、たぶん似たような流れになってたと思うんだよね」
「そうかもしれないですね」
「最初の人さえ出てくれれば、あとはいくらでも『賛成です』って言える人たちの話」
桜井はそう言って、書いていた行の最後に小さく【※主役ではないけど、物語を動かす拍手係たち】と付け足した。
「……それ、誰視点の話になるんですか」
「うーん」
桜井は、ペンをあごに当てて少し考える。
「一人目を出せなかった側、かな。“手を挙げたかったけど、挙げられなかった人”」
「結構えぐいですね」
「そこはほら、“エグくなりすぎないように調整する係”がいるじゃん」
そう言って、こちらを見る。
「観察係」
「便利な肩書きですね、それ」
「でしょ?」
桜井は、満足そうにうなずいた。
◇
「……あの」
少し間を置いてから、僕は口を開いた。
「こうやって話したことって、そのままエッセイに使われるんですか」
「んー、全部そのままじゃないよ」
桜井は、ノートをぱたんと閉じた。
「会話の断片とか、雰囲気とか、“あ、これだ”って思ったところだけ残す感じ」
「“これだ”」
「今日で言うと、“誰が最初に手を挙げるか待ってた感じだった”ってとこかな」
僕がさっき言った言葉だ。
「それ、一文だけ切り取られると、なんか恥ずかしいんだけど……」
「名前も学校も出ないから大丈夫、大丈夫」
「そういう問題なんですかね」
「そういう問題なんだよ」
軽く受け流される。
けれど、「誰か知らない人が、どこかでこの文章を読むんだ」と思うと、
胸の奥が少しくすぐったくなるのも事実だった。
(……観察係っていうか、ネタ元係なんじゃないのか、これ)
そんなツッコミを心の中で入れつつも、
完全に「嫌だ」と言い切れない自分もいる。
それは、たぶん。
屋上で見た【教室の隅の住人たち】というタイトルと、
今日の【誰も手を挙げないホームルーム】という一行が、
頭の中で静かにつながってしまったからだ。
「ところで」
ノートをカバンにしまいながら、桜井がふと口にした。
「さっき、“でした”“ですよね”って、普通に敬語使ってたよね」
「……聞こえてたか」
「バリバリ聞こえてた」
にやっと笑う。
「まあ、急に変えるの難しいのは分かるけどさ」
「……意識すると、逆に喋りづらくなるんだよね。変なところで“です”が出そうになったり」
「それはそれで面白いけど」
「笑われる側としては複雑なんです……だけど」
「また出たね。
いいじゃん、徐々にで。今日の“便利な肩書きですね、それ”くらいのノリで増やしていけば」
「あれ、タメ口扱いなんですか」
「“ですね”が付いてるからちょっとグレーだけど、さっきよりはだいぶ崩れてたよ」
そんな細かいところまでチェックされているのか。
観察されているのは、むしろこっちなんじゃないかという気がしてくる。
「……そのうち、慣れると思うんで」
ほとんど自分に言い聞かせるみたいに言う。
「うん、その“思うんで”はいい感じ」
「採点入るんですね、これ」
「観察係の成長記録だから」
「どこまで記録されるんだろうな、それ」
ため息半分、笑い半分で返したところで、チャイムが鳴った。
部活の開始を知らせる音。
「じゃ、わたし放送室寄ってくから」
桜井は椅子から立ち上がり、カバンを肩にかける。
「観察係、第二回レポートも、そのうちお願いするかも」
「給料は出ないんですよね」
「“やりがい搾取”って言葉、最近よく聞くよね」
「自覚あるタイプのやつだ」
「でもまあ、そのうち何かで返すよ。ネタ的にも」
最後の一言だけ、妙に意味ありげだった。
それが、エッセイ的なネタなのか、僕の高校生活的なネタなのかは、
このときの僕にはまだ、さっぱり分からなかった。
◇
教室を出て、廊下を歩きながら、
さっきのホームルームの光景が頭の中でリフレインする。
静かな教室。
誰も手を挙げない時間。
そして、一人目の手が挙がった瞬間に、
空気が「様子見」から「賛成」に一斉に転がる感じ。
(……ああいうのを書きたいって、結構めんどくさいテーマ選んだよな、桜井)
そう思う一方で。
(でも、たしかに“物語にならないまま終わる沈黙”って、山ほどあるんだよな)
観察係としての最初の仕事は、
結局のところ、みんなが見ていたのに、誰も言葉にしなかった景色に、
ちょっとだけキャプションを付ける作業だった。
モブとして背景に紛れているつもりが、
背景の説明文を書く係を任された、みたいな感覚。
それが、まだ少しだけこそばゆくて、
でも、完全には嫌いになれないまま。
何より、僕の言葉を聞いて「やっぱり?」と笑った桜井の顔が、意外と悪くなかったから。
僕の六月は、静かに始まっていった。




