第39話 白いラムネは、編集の燃料
六月の朝は、空気が重い。
教室の窓際に立つと、湿気を帯びた風がワイシャツにまとわりつく。ノートの紙まで水分を吸って、ふやけた手触りになっていた。
思考も湿気って重くなる。何か燃料──新聞の編集を乗り切るエネルギーがないと、一日持たないかもしれない。
僕は気怠さを振り払うように、教室の前方、黒板の横へ歩いた。
掲示物のスペース。そこに一枚の白い紙が増えている。
太いマーカーで『掲載ルール①〜④』と書かれた、あのときの会議の戦果だ。
あの日、桜井が静かに紙を『不採用』の山へ滑り込ませた、あの手つき。その迷いのない拒絶が、まだ記憶に残っている気がして、僕は視線を逃がした。
逃がした先で、その紙の下に小さく『守ろうね』と書き足されているのを見つける。
丸っこい文字。西村の筆跡だ。
「……いつの間に書いたんだ」
思わず呟くと、真後ろから即答が飛んできた。
「それは愛です」
「うわ」
振り返ると、西村がニヤニヤして立っている。いつの間に背後にいたんだ。
「びっくりした……愛ってなに」
「ルールを守るみんなへの愛!」
なんだそれ……。
けど、そんな西村の軽さが、教室の湿度を少しだけ下げてくれる気がする。
そんなやりとりをしてたらチャイムが鳴り、同時に先生が入ってきた。
僕と西村は慌ててそれぞれの席に戻る。
先生は掲示物に一瞬だけ目をやって、変な顔もせずに言った。
「お。貼ったのか。いいな」
褒められたのかどうかも怪しい温度感で、先生は淡々と続ける。
「さて、今月の学級新聞な」
いきなり、先生の言い方が不穏だ。
「今月は体育祭がある。紙面の中で体育祭特集を組んでほしい。やり方は任せる」
先生はそこまで言うと、チョークで黒板の端に小さく『体育祭』と書いた。
そうか、体育祭があったな……。
「で、編集の四人。桜井、西村、佐伯、安藤。いつも通り頼む」
いつも通り、と言われてしまった。
まだ二回目なのに、僕らはもうセット扱いらしい。
「前も言ったがクラスの他のメンバーも頼むな。クラス課題だから、気をつけろよ」
先生はそう言って、教卓の上に小さな段ボール箱を置いた。
どこかの文房具メーカーのロゴが入っている。
「で、先生のほうで投函箱を用意した。進路指導室で余ってた空き箱だ。活用するかは任せる」
あくまで余り物の流用。
先生はそれだけ言って、もう次の連絡に移った。
干渉しすぎず、放置もしない。その絶妙な距離感だけは、たぶんこの先生の美徳だ。
◇
HRが終わった途端、教室のボリュームが一段階上がる。
投函箱の周りに人が集まり始め、一軍男子たちの明るい声が空気を震わせた。
「写真も入れたほうが良いのかな? オーディションするか?」
「俺、写り悪いから却下で」
「却下できるのかよ」
学級委員が、手際よく場をまとめにかかる。
「順番に撮ればよくないか? 体育祭、競技多いし」
その横で、桜井が投函箱を覗き込みながら言った。
「写っていい、じゃなくて、写っても平気な人、かな。あと、部活の人とかも撮らせてもらえたら助かるかも」
桜井の声には、角を溶かす成分でも含まれているんだろうか。クラスの空気がふわりと緩むのがわかる。
その輪の外で、佐伯がメモ帳を開いて静かに言った。
「安藤くんが一人で全部撮る形だと破綻する。競技ごとに担当を決めて、写真は安藤くんに集めよう」
僕の名前が出た瞬間、陽キャたちの視線が一斉にこっちへ流れてきた。
スポットライトはいらない。僕は背景でいいのに。
「安藤、カメラ持ってんの?」
「家にあるやつ借りる」
これ以上の追求を避けるように短く答えると、西村が背中を叩いてきた。
「湊、安心して。体育祭は全員が写真係だから」
「安心していいのかな?」
「大丈夫。サエが設計するから」
「……佐伯なんだけど」
佐伯の返しは、前よりいくぶん柔らかい。
柔らかいが、線引きは明確だ。
でも、油断すると。
隙あらば西村の口からは『サエ』が飛び出すようになっている。
この強引な距離の詰め方が西村らしい。
「じゃ、写真係ローテ決めよー」
西村が勝手に黒板の端へ表を作り始めた。
「え、ローテって強制?」
「半強制」
「それ強制だろ」
「強制をまろやかにしたの!」
桜井が小さく苦笑して、西村の書いた表の横に、丁寧な字で補足を入れる。
『※任意(でも協力してもらえると助かります)』
表現がさらに丸くなった。
佐伯が、黒板の表を見上げながら言う。
「任意にするとローテに空白が出る。だから、任意のまま埋まる形にしよう」
「どうやるの?」
「それはこれからだけど、何となく考えはある」
佐伯が言うと、本当に問題ないように聞こえるから不思議だ。
たぶん、そのフラットな声質のせいだろう。
事実だけが伝わってくる。
「投函箱に、撮影できる競技名を書いて入れてもらう。それを表に当てて埋める。空いたら当日、空いてる人に声をかける」
「声かけ係は誰になんの?」
「西村」
「私!?」
西村がオーバーリアクション気味に自分を指さした。
「私、体育祭で叫ぶ係なのに!」
「叫ぶついでに呼べばいい」
「合理的すぎる」
佐伯は一拍置いて、少しだけ視線を泳がせた。
「……お願いできる?」
「はい出た。ギャップ萌え」
「ギャップ萌えは狙ってないけど……」
「今のお願いできるって言い方、萌えポイント高いよサエ」
西村が雑に褒めると、佐伯が黙って名簿を閉じた。
無表情を装っているが、瞬きの回数が一瞬だけ増えたのを僕は見逃さない。
少しだけ、照れているようにも見えた。
◇
放課後。
僕の席と、その隣の佐伯の席。そこに前の席の机を二つ回してくっつけ、即席の編集基地を作る。
机を動かす音がガタガタと響き、四つの机が一つにまとまった。
僕は自分の椅子に座ろうとする。
いつも通り、向かいの席には桜井が座るものだと思っていた。
けれど。
「ストップ」
桜井が椅子を引こうとした瞬間、西村がその手を止めた。
「え、なに?」
「今日から配置換え。そこは私の席」
西村は桜井を押し退けるようにして、僕の向かいの席を陣取ってしまった。
行き場をなくした桜井が、おろおろと立ち尽くす。
残っているのは、僕のすぐ隣と、その向かいだ。
「えっと、私はどこに……?」
「すみれはそこ。湊の隣」
「……なんで?」
僕が訊くと、西村はふんぞり返った。
「隣が誰かで作業効率と空気が変わるから!」
「いや、向かい合って話したほうが顔も見やすいし、普通」
僕が反論すると、西村はチッチッ、と指を振る。
「甘い。湊は甘い。そこでサエの出番です」
水を向けられた佐伯が、机の配置を見下ろして淡々と言った。
「一番いいのは、安藤くんと桜井さんが並ぶ形」
「佐伯まで? なんでだよ」
「編集作業の特性かな」
佐伯は自分の鞄からノートを取り出し、机の真ん中に置いた。
「記事のチェックやレイアウト相談をするとき、向かい合うと資料が逆さになる」
「あ……」
「そのたびに回すのは時間のロス。隣同士なら、同じ向きで一緒に見られる。覗き込むだけで済む」
佐伯に実演されると、ぐうの音も出ない。
確かに、いちいち「これ見て」とノートをひっくり返すのは手間だ。
佐伯の言っていることは合理的すぎて、反論の余地がない。
「……なるほど」
「でしょ? だから決定。異議は認めませーん」
言い訳を用意する隙も与えず、西村が畳みかける。
そんな中、佐伯は何も言わず、残った席に回り込んで腰を下ろした。
「はい、座った座った! 夫婦席の完成!」
「「夫婦じゃない」」
僕と桜井の声が綺麗に重なった。
ハモったことに一瞬気まずさを感じたが、西村は満足そうに頷いている。
「ほらね。息ぴったり」
佐伯が一度だけ顔を上げて、ぼそっと言った。
「テンポが固定されてる」
「やめて」
「観察結果だよ」
佐伯はそれだけ言って、机の真ん中にペンケースを置いた。共有物は真ん中、ってことらしい。
桜井が小さく息を吐いて、おずおずと席に座る。
僕の、すぐ隣に。
近い。
向かい合っている時とは、距離感がまるで違う。
制服の衣擦れが聞こえる距離。肘が触れそうな距離。視界の端に、常に桜井がいる。
意識しないように視線を机に落とした瞬間、桜井の手がそっと動いた。
僕の机の端に、小さな包みを置く。
透明な袋に入った、白いラムネだ。
「これ、頭使うから、どうぞ」
ささやき声。僕にしか聞こえない音量。
隣にいるからこそ届く、内緒話の音量だった。
「……ありがと」
「うん」
桜井はそれ以上言わない。
目も合わせず、ただ口元だけでふわりと笑った気がした。
置かれたという事実だけで、十分すぎるほど伝わってくる。
もちろん、目の前に陣取った西村は見逃さない。
「ほら。お菓子置いた。はいはい夫婦」
「……頭使うから燃料は必要だろ」
「夫婦も燃料」
「意味が分からない……」
佐伯が淡々と横槍を入れる。
「燃料は必要。けど、ほどほどに」
「体育祭号の話に戻って」
桜井が少し早口で遮って、メモ帳を開いた。
耳が赤い気がするのは、きっと六月の、まとわりつくような蒸し暑さのせいだということにしておく。
◇
机の真ん中に投函箱を置き、四人で運用のルールを決めていく。
ルールと言っても、ガチガチの規則じゃない。あくまでスムーズに進めるためのものだ。
「体育祭の応援コメントは、短文で。長文は読む人が疲れるから」
桜井が言う。
『読む人の体力』を計算に入れる優しさは、桜井ならではの視点だ。
「写真は、この箱に『撮影OKの紙』を入れてもらう形にする。紙には競技名を書いてもらう」
佐伯が補足する。
写真そのものじゃなく、許可証を集める箱ということだ。
「あと、顔出し不可の紙も作る」
佐伯が言う。
リスクを先回りして潰すのは、佐伯らしい。
「顔出し不可、いいね。これなら写真もたくさん入りそう」
西村が頷き、佐伯が返す。
「体育祭号は写真と一言をメインにしたい」
「体育祭号は陽キャが主役じゃない?」
西村が軽口を叩く。
「当日はね。……でも、数年後に残るのは紙面だけ」
佐伯がバッサリ切り捨てて、西村が笑う。
「サエ、言い切り強い」
「……佐伯」
「じゃあ、編集部内だけ佐伯、クラスの前ではサエにする?」
「それは逆だね」
「逆かぁ」
西村が適当に引くと、佐伯が少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
ほんの少し、強張りが取れたような。そんな変化。
◇
打合せが終わる直前、西村が席を立った。
「私、応援コメント回収してくる。投函箱だけだと、みんな最後にまとめて入れてたりすると事故るし」
「事故る?」
「ぐちゃぐちゃになりそうだしね。締切ってそういう日でしょ?」
西村が言うと、途端に現実味が増す。
「委員長と陽キャ男子から先に取る。声でかい層は早めに封じる」
「言い方」
僕がツッコむ背中で手を振り、西村は戦場へ去っていった。
残された僕と桜井と佐伯。
今後の連絡用に、グループLINEを作ることになった。発案者はもちろん佐伯だ。
「連絡はテキストに統一したい。口頭は情報の抜け漏れが出るから」
「了解」
桜井がポケットからスマホを取り出す。
僕も出す。
なんとなく桜井のほうを見ると、彼女と目が合った。すぐに逸らされたけれど、拒絶ではなく、どこか照れくさそうな空気。
佐伯が淡々とグループ名を入力していく。
『編集部(仮)』
「仮って何?」
西村がいないので、僕が代弁した。
「確定させると責任が増えると思って」
「……もう責任はあるんじゃ?」
「ある。けど、ちょっと遊びを入れたほうが力が抜けるでしょ?」
佐伯は認めるのが早い。
そして、手際よくメンバーを招待していく。
「西村にも送った。常にスマホを見ているから、反応は早いはず」
その言葉通り、僕の画面にはすぐに『既読』がついた。
通知の速さが、西村の声の大きさと重なって見える。
桜井が画面を覗き込んで、ぽつりと言う。
「アイコン、どうする?」
「私の自撮り」
佐伯が即答した。
「え」
「冗談」
真顔すぎる。
佐伯の冗談は、笑いの不法投棄みたいに唐突だ。
「……今の、冗談判定むずい」
「安藤くん、その反応は使える。紙面の『編集後記』ネタに採用」
「採用しないでよ……」
僕ががっくりと肩を落とすと、桜井がクスクスと笑った。
そして、僕の机の上のラムネを、指先でコンコンと軽く叩く。
「佐伯さんの相手、カロリー使うね?」
「……否定できない」
「ふふ。じゃあ、これの出番」
桜井は悪戯っぽく微笑むと、小首を傾げた。
「ラムネブースト、がんばろう」
その言い方はいつも通り丁寧で。
けれど、「がんばろう」の響きには、クラスのみんなに向けるものとは違う、体温のようなものが混じっていた。
それが心地よくて、でも少しだけくすぐったい。
そのとき、手の中のスマホが短く震えた。
グループLINEに、最初の通知。
西村からだった。
『投函箱、もう一通入ってた! しかも写真ネタ。読む?』
僕は画面を見て、息をひとつ吐いた。
始まった。
体育祭号は、もう動き出している。
そしてたぶん。
この席順も、この距離感も、しばらくはこのままなんだろう。
隣に置かれた白いラムネみたいに、最初からそこにあるのが当たり前みたいな顔をして。




