第35話 フードコートの喧騒と、言葉の置き場所
ゴールデンウィークの正午。ショッピングモールのフードコートは、人の熱気で飽和していた。
人口密度は高いのに、みんな顔が緩んでいる。
学校の教室にあるようなヒリついた空気はなく、ただ楽しそうな音が渦巻いているだけだ。
そんな中、僕はその喧騒の隅っこのテーブル席に座っていた。
目立たない席を選ぶ習性は、休日でも治らない。
プロのモブは、オンオフの切り替えをしないのだ。
「おーい」
よく通る声。
幼なじみの陸だ。
ラフな私服なのに、相変わらず存在感がある。
肩にかけたバッグを揺らしながら、僕の向かいにドカッと座り、手に持ってた紙コップを机に置いた。
「なんだよ。意外と素直に来るじゃん」
「呼び出したのはそっちだろ」
「暇だったんだろ? ……ま、俺もだけど」
「……うるさいな」
陸は笑って、僕の手元を覗き込む。
「それ、何飲んでんの?」
「コーヒー。ブラック」
「相変わらず渋いのがお好きで」
休日の会話なんて、こんなもんだ。
なのに、僕の中の警戒センサーが反応している。
陸が、ふっと表情のトーンを落とした。
「で」
やっぱり来た。
無駄話終了、本題開始の合図だ。
「新学期、どうなんだ?」
「普通だよ」
「普通の顔してるときほど、普通じゃないのは知ってるぜ」
……相変わらず鋭い。
陸は僕を見た。
僕は視線を逸らし、コーヒーを一口飲んだ。
苦い液体で、口の中の言葉を流し込む。
そうやって時間を稼ぐのが、僕の悪い手癖だ。
それを見た陸が、小さく息を吐いた。
「お前さ」
確信を突く声色。
「今のそれ。黙ってやり過ごすやつ。……昔からの癖だよな」
「え?」
意外な言葉に、僕は顔を上げた。
陸は呆れたように、でもどこか懐かしそうに笑っていた。
「まぁ、湊らしいっちゃ、らしいけど」
「……そのほうが無難だから。何も壊さないし、誰も傷つかない」
僕はコップを置いた。
言葉は一度吐き出せば、形を持って誰かに刺さる。
なら、形にしないまま飲み込んでしまうのが、一番優しい解決策だ。
少なくとも、僕の経験則ではそう結論が出ている。
陸は否定しなかった。
ただ、ストローの袋を指先で器用に裂きながら言う。
「楽を選ぶのはいいさ。でも楽なほうしか選べなくなるのは違うぜ」
陸の手が止まる。
まっすぐな視線が、僕を射抜く。
「湊は、言うべき言葉を持ってるときがあるだろ」
僕の喉の奥に、棘が引っかかったような感覚が走る。
黙るのが正解じゃなくなる瞬間がある。
それは頭では分かってる。
分かっているのに、動けない。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
少し苛立ちを混ぜて僕が訊くと、陸は力を抜いて肩をすくめた。
「大きいことはしなくていいと思うぜ?」
陸はストローを指で回す。
くるり、と。
「一言でいいから、“言葉を置く”って考えればいい」
「言葉を置く」
「そう。お前、状況を見るのは昔からうまいだろ。なら、そこに合う言葉も選べるんじゃないか?」
僕はそのまま口を閉ざした。
思い当たることが今まであったからだ。
陸は追い打ちをかけない。
ただ、そのまま待っていてくれている。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「あ、いた!」
西村だ。
私服でもそのテンポの良さは変わらない。
飲み物を持って、僕の隣の席に滑り込むように座る。
「陸くん、やっほ」
「おーす。元気そうじゃん」
「元気元気!特に今はゴールデンだからね!」
西村は僕の顔を覗き込んで、すぐに「あー」という顔をした。
「で、湊。今の空気って、どんな感じ?」
ん?
僕は思わず西村の顔を二度見した。
今、さらっと流されたけど。
「……あのさ、西村さん」
「なに」
「いつから『湊』になったんだ」
僕の指摘に、西村はきょとんとして、それから悪戯っぽく口の端を上げた。
「え、今。この瞬間から」
「なんだそれ」
「すみれの『大事な』相方なんだから、私も名前くらい呼ぶでしょ」
西村は悪びれもせず、ストローをくるくると回す。
拒否権はないらしい。
陸が面白そうにニヤニヤしているのが視界に入って、僕はため息を飲み込んだ。
「……ていうか、陸が呼んだのか?」
陸が即答する。
「ああ。二人で湊にアドバイスするのもいいかなと思って」
「まぁ余計なおせっかいかもだけどね〜」
西村がストローをくわえたまま僕を見た。
「湊、今どの辺?」
「どの辺って何が?」
「心のHP」
「省エネモード中」
「はい出た。無難な返し」
西村が笑う。
その笑いで、重くなりかけた空気が一段だけ軽くなる。
陸が西村に視線を向けた。
「千夏ちゃん」
「なに?」
「ちょっと聞いておきたいんだけどさ、千夏ちゃんが困ったとき、湊が黙って場を見てるようなことってある?」
西村は一瞬だけ目を細めた。
僕の顔色を値踏みするような光。でも、すぐにいつもの脱力した顔に戻る。
「あー……まぁなくはないかな?何か考えてるんだろうなーとは思ってるけどね」
その意見は意外だった。
西村が僕のことをみてるとは思わなかった。
「湊、ま、見てる人は見てるってことさ」
「そうそう、千夏ちゃんは結構みてるよー、視野が広いからね!」
西村はドヤ顔をして、僕の紙コップを指先でつついた。
気づいたら、僕は少し笑っていた。
休日の空気に紛れるくらいの、軽い笑い。
その時だった。
西村がふと、視線をフードコートの通路へ向けた。
「あ」
西村の目が少し見開かれる。
つられて僕も、その視線の先を追った。
雑多な人の流れが、そこだけ少し色が違って見えた。
「……千夏?」
声がした。
喧騒をすり抜けて届く、クリアな音色。
桜井だ。
小さな買い物袋を片手に提げている。
どう見ても“用事のついで”の顔だ。ここに長居するために来たわけじゃない。
西村が手を振る。
「すみれ。偶然?」
「偶然。お買い物してたから」
桜井はそう言って、西村の隣──僕を見る。
目が合う。
春休みの空白を、僕は思い出さないようにした。
思い出すと、今この瞬間の偶然が、妙に運命めいて感じてしまうから。
「……安藤くんも、いるんだ」
「いるよ」
「いるね」
桜井がくすっと笑って、すぐに視線を陸へ移した。
「えっと……これはどういう集まり?」
桜井が買い物袋を持ち直して、僕ら三人を見比べた。
陸が、やけに真面目な顔を作って言った。
「湊の取り扱い講座」
「待て」
反射で言葉が出た。
出た瞬間、陸が楽しそうに口角を上げる。
「ほら。今のが講座の成果」
「成果って言うな」
西村が笑いを噛み殺しながら、桜井に補足を入れる。
「正確にはね、『湊が黙りこくってるときの扱い方講座』」
「扱い方講座って何だ」
「正解が見えてないと黙ってフリーズするタイプだから」
「そんなこと……ない」
「はいはい、自信なさげに否定しない」
西村がさらっと刺して、僕は反論の言葉を飲み込んだ。
その時だ。
「……フリーズ、じゃないかも」
桜井の声だ。
彼女は僕の手元の氷が溶けたコップを見つめて、独り言みたいに言った。
「止まってるっていうより、選んでる感じ」
「安藤くん、考えてること多いから」
桜井はそこで顔を上げて、陸と西村に悪戯っぽく微笑んだ。
「だから急かさないで待ってると、ちゃんと出てくるよ」
「……私の経験だとね」
場が一瞬、静まり返る。
陸が、ほう、と感心したように目を細めた。
「なるほどな。一本取られた」
「え?」
「十年来の付き合いの俺より、よっぽど湊の『扱い』が上手い」
「……!」
陸の言葉に、桜井の目がわずかに泳ぐ。
自分が言ったことの熱量に、遅れて気づいたみたいな反応だ。
「……お、同じクラスだし。……ちゃんと見てれば、分かるよ」
桜井は早口で言い訳をして、買い物袋をぎゅっと持ち直した。
「じゃあ、ほんとに帰るね。邪魔してごめん」
「は~い、いってらっしゃい」
西村がニヤニヤしながら手を振る。
桜井は逃げるように踵を返して、でも、二歩進んだところでふっと振り返った。
僕を見る。
周りの二人には聞こえないように、声を出さずに唇だけ動かした。
『見てるから』
え、と僕が反応する前に。
彼女は満足そうに小さく笑って、今度こそ人の流れに溶けていった。
桜井の背中が見えなくなった直後、西村が肘で僕の脇腹をこづいた。
「今の、何」
「何でもない」
「ラブコメの波動を感じるぜ……!」
陸は陸で、わけの分からないことを言って天を仰いでいた。
僕は氷だけになった自分のコップを見た。
『見てるから』
観察されている。
さっきの彼女の主張通りなら、僕が言葉を選ぶ瞬間を、彼女だけは期待して待っているということになる。
黙ってやり過ごすのも選択。
言葉を置いて向き合うのも選択。
楽なほうを選ぶのは悪くない。
でも、楽なほうしか選べなくなるのは違う。
陸の言葉と、桜井の『観察結果』が、僕の胸の奥でゆっくりと混ざり合っていく。
今年の五月は、まだ始まったばかりだ。
僕はまだ、選ぶことができる。
騒がしい二人を見ながら、僕はそう思った。




